海に焦がれて、川を見る。

村崎沙貴

 

 春うららには、まだ少し早い。川沿いの桜並木は、まだ地味な裸木だった。

 アスファルトの細い遊歩道を、あてどなく歩く。所在なく、柵に肘をついて川を覗き込んでみたりもする。

 水面は、ぬるい陽ざしを受けて白い光が不規則に踊っていた。逆光に支配されていない場所では、時折黒い小さな魚影が横切ったりもするが。

 ――色が浅い。

 少し残念に思ってしまう。あらかじめ予測できたことだ。自業自得とも言う。それでも、目で探さずにはいられなかった。

 

 私には、水を覗き込む癖がある。


 例えば、学校のプール。

 薄っぺらで、わざとらしい水色。塗りたくられたようなその色が、とってつけたように波立って揺らめいたところで、私の心はちっとも動かなかった。

 例えば、近所の沼。

 緑色に、濁りきっている。どろっと気持ち悪い汚水の質感が伝わってくるようで、ぞっとした。

 例えば、水を張った田んぼ。

 透き通った水を通り抜けて、泥の色がはっきり見えている。水の色など、わかったものではなかった。


 

 小さい頃。両親に連れられて遠出する時に決まって通りかかる、海沿いの道路が好きだった。

 車の窓ガラス越しに見る海は、黒に近い深々とした藍色で。降り注ぐ太陽の光がきらりと反射したり、波が水面から突き出た岩に当たって砕けたり。そうやって生まれる白が、最高に映える。その度、背景に徹する暗い色に、吸い込まれそうになって。

 海を見てはしゃぐ世間一般の子どもとは少し違ったけれど、私が息を呑んで目をきらきらさせていると、両親は嬉しそうにクスッと笑ってくれた。普段は大人しい私の珍しく子どもらしい様子に、安心しただけかもしれない。それでも、その時の車内は幸せに包まれていた。間違いなく。


 ――あの藍色は、きっと、海にしかないものだろう。


 私はもう高校生。休日に両親と出かけるような機会は、段々減り、既にゼロとなった。そこそこ忙しく、お金もない。海からは遠ざかって久しかった。

 両親に、頼めば良いと思われるかもしれない。が、出来なかった。感情任せの突飛な行動など、怪訝に思われるか、嫌がられるに決まっている。


 そんなこんなで、私は、海の色を求めて彷徨っているのだった。



 ある日、スマホに流れてきたニュース。

 『新発売! 匠の技インキ シリーズ第二弾は、海を思わせる深いブルーブラック』

 私は居ても立ってもいられなくなって、最寄りの文房具屋まで走った。体力がないのですぐに息が切れたが、そわそわと前のめりのまま辿り着く。

 ここには入荷してないよ、と店主に告げられた時、膝から崩れ落ちそうになった。常識的に浮かぶはずの可能性に、考えも及ばなかった自分が、ひどく恥ずかしかった。乾いた笑いを漏らしそうになるのを、こらえるのに必死になりながらその場をあとにする。

 冷静になったら、あんな小さい店じゃあ駄目だった、と思う。おまけにあそこは個人経営だ。そこで、チェーン店で大規模な店舗を中心に、徒歩と通学定期の圏内で文房具屋をまわった。

 だが。奮闘虚しく、見つかった時に抱いた気持ちは、ひどく呆気ないものだった。

 ――こんなものか。

 確かに綺麗だった。それでも、所詮は偽物だ、と感じてしまった。光の反射を再現するための銀粉が、わざとらしく見えたのかもしれない。

 とにかく。小瓶に詰められたそれは、決定的に、本当の海とは何かが異なっている気がした。



 数日は家に閉じ籠もっていたが、友人から花見に誘われて、先日の川沿いに出てきた。

 二人並んで柵にもたれ、満開の桜並木を見上げる。

 毎年ながら見事だ、と思う。思ってから、我に返る。最近、私の心から出る褒め言葉は総じて薄っぺらい。

 隣に立つ友人も、背後を通り抜けてゆく人々も。溜息を漏らしたり、ころころ笑ったりと、とても幸せそうだ。私にはそれがないのだと、うつくしいものに触れた時に、感動や幸福感を表せないのだと、そう気がついて納得した。

 ほう、と息を吐いてみる。軽く目を見張ってみる。我ながら、仰々しくて嘘くさい。私の奇行に気を留める人はいなかったが、勝手に気まずさを覚えて、下を向く。

「……花筏」

 口をついて出た。ピンクに染まる水面が思いがけなくて。

 想定は出来たはずだが、想像してみることをしなかった。状況に呑まれて心を揺らす自分がひどく滑稽に思われる。

「――本当だ。綺麗」

 私の声に誘われて川面に視線を向けたらしい。友人が、呟いた。心の雫が垂れたような、実感のこもる言葉。

「気づかなかった」

 私の方を見てつけ足され、気恥ずかしくなる。

 頭が一気に冷えて、思い至る。

 ――気に入らない川の色が覆い隠されているのを、いい気味だと感じているのだ。私はつくづく、拗らせすぎている。

 ふ、と笑いがこぼれた。

 皮肉なものだったことは、感づかれなかったらしい。

「良かった」

 友人は私に、上機嫌な顔を向ける。

「笑ってくれた」

 貴方の方が笑っているでしょ。そう言いたくなった。眩しかった。


 ――眩しい。身の回りのものたちは、屈託なくて、眩しい。

 私は、そんな存在に対して、心を閉ざしていた。嫉妬にかられる心に、蓋をしていた。


 そうだ。


 海は、大きくて、暗くて。何もかも、呑み込んで、受け入れてくれそうだから。

 でも、やけに遠かったから。車の窓ガラス越しにしか見たことがなかったから。

 理想の形で勝手に補完できて、遠慮なく甘えてもよくて。だから、縋っていた。


 いつか、海を目指してみよう。自分の力で。窓ガラス越しでない、本当の海を。

 でもそれは、今でなくて良い。今は、少しずつ。隣にいる人と、うつくしいものをうつくしいと。素直になれるように、繰り返し、向き合ってみたい。


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海に焦がれて、川を見る。 村崎沙貴 @murasakisaki

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