09

 登悟が屋上の扉を軋ませながら開けると、昼前の穏やかな日差しを浴びている灼の後ろ姿が見えた。

 灼はいつもの和服姿だが、左袖が風を受けてはためいている。肘上から先が失われた灼の左腕は、最低限の修理をしたのみで、未だに復元していない。


「なーにこんなところに一人でいるんだよ」


 努めて明るい声を投げながら近づく。

 灼は振り返らず、屋上のフェンス越しに、中央区にそびえ立つ高層ビルの群れの遠景を眺めているようだった。


「私、ちょっとおかしいのかもしれない」

「あん?」

「藤馬聖一が人間もどきって言ったとき、自分でもわからないくらい動揺したの。今までそんなことなんてなかったのに」


 灼の横に並んだ。横目で見た彼女の横顔は、変わらず美しかった。


「今回の一件が、鏡を見ているようなものだったからかもしれないわね。知らない内に、あてられていたのかも」

「法律上は、人間じゃねえわな。……でも、そういうことじゃねえだろ。人が人を信じるってのは」


 灼が目を瞬かせて、こちらを見た。


「俺はさ。お前のこと、どう扱って良いのかずっと分からなかったけど。でも今なら、割と自然に話せそうな気がするんだよ。そういうことなんじゃねえのか」


 灼が僅かな沈黙の後に、くすりと笑った。


「よく分からないわ」

「俺も、自分で言ってて分かんねえよ」


 その時、屋上の扉を開けてガトウが入ってきた。

 くたびれた軍用コートに、義足を隠すためのロングブーツ。理性を取り戻した灰色の瞳が、こちらを静かに映している。


「もういいのか?」

「ああ。一言礼を言いたくて顔を出した。世話になったな」

「その口ぶりだと、ここから出ていく感じか」


 ガトウは頷く。


「俺の私情にお前たちを巻き込むわけにはいかない」

「あんたを調整した黒幕ってやつを探すのか?」


 ガトウが口の端にわずかに不敵な笑みを浮かべた。意外と感情豊かな奴なのかと思った。


「お前たちには一生かけても返しきれない借りができてしまった。感謝している」

「仕事の成り行きでそうなっただけさ。礼ならあの婆さんに言ってくれ」

「だとしてもそれに命をかける奴はそうはいない」


 ガトウは真剣な眼差しになって言った。


「俺はしばらくこの街に滞在する。何かあれば声をかけてくれ。可能な限り手を貸そう」

「まずはあんた自身のことを気にしてくれよ。せっかく拾った命なんだからな」


 ガトウは嬉しげに表情を緩めた。


「そうさせてもらう」

「待って」


 立ち去ろうとしたガトウを灼が呼び止めた。


「貴方は……人間? それとも作り物?」


 ガトウが振り返り、灼を見つめた。


「重要な問いだとは思えんな」


 ガトウの声音には年長者としての響きがあった。


「俺は俺だ。お前だってそうだろう。人間かどうかを問題にするのは社会の視点だ。それを自己認識と混ぜると碌なことがない」


 それは彼の従軍経験から生じた言葉だったのかもしれない。


「胸を張って生きろ。それで十分だろう。……それに少なくとも、そこの小僧は俺やお前が人工知能かどうかなど、些細な問題に考えているようだがな」


 灼の視線を横に感じて、思わず顔をそらした。

 ガトウが笑いの乗った吐息を漏らして、今度こそ踵を返した。


「ではな」


 扉が閉まり、硬い足音が遠ざかっていくのを、沈黙の中で聞いていた。


「ねえ、登悟」

「仕事も片付いたことだし、休暇をもらわねえとな。お前だって腕、直さないとだろうし」


 灼の言葉を遮るようにして言った。

 灼はきょとんとしてから、少しだけ、年相応の少女のように笑った。


「そうね」


 屋上を後にしようと歩き、扉を開いたところで、風が吹き込んだ。


「ありがとう」


 思わず肩が跳ねたが、風の音で聞こえなかったことにした。

 何となく、後で悶えるようなことを口走りそうな気がしたからだ。

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イマジナリ・ハーツ 流川真一 @rukawashinichi

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