08
翌日――登悟は灼と詠子と共に、旧市街の倉庫の一つを訪れていた。
「客に場所を指定しておきながら、自分は優雅に読書ですか。感心ですね」
慇懃な口調で苛立ちを隠さない藤馬聖一を、登悟は倉庫の壁に背中を預けながら眺める。
恐らく藤馬のような上流階級の人間にとって、老朽化してまともに使われていない倉庫など、一生訪れない場所に違いない。以前事務所で出会ったときよりもさらに不満げな様子で、顔をしかめながら周囲を見渡している。
折りたたみ椅子に座って優雅に電子ペーパーをめくっていた詠子が、口の端を釣り上げて言った。
「長引かせるつもりはないさ。とっとと要件を済ませよう」
「その前にそちらも立って頂きたい。私を馬鹿にしているのか?」
「自分と対等に振る舞う相手が不満かね?」
藤馬は顔を歪め、懐に手を入れて銃を取り出した。
「私は急いでいるのです。回収した義体をすぐに引き渡しなさい!」
「分かった分かった。お呼びだぞ。ガトウ」
藤馬がぎょっとして振り返った。
出入り口を塞ぐように、一人の大男がうっそりと藤馬に歩み寄ってゆくところだった。しっかりと理性の宿った灰色の瞳が、ぴたりと藤馬に向けられている。両足は奇妙に細く、フレームが露出したまま膝関節に接続されていた。
藤馬が後退りながら、目を見開いて詠子に叫んだ。
「ど、どういうつもりですかッ! なぜアレが自由に動いている! アレを回収するのがお前たちの仕事だったはずでしょう!」
「回収したさ。こちらの不手際で破損した両足の修理と、倫理回路のバグを取り除くというアフターケアまでしたというのに」
「バグを取りのぞッ……」
藤馬が大男に胸ぐらを掴まれて宙に浮かんだ。藤馬は慌てて銃を向けようとしたが、大男にあっさりと手首を掴まれて握力を奪われ、銃を取り落とした。
「致命的なバグだとも。思考を歪ませていた報酬系を正常に戻し、刷り込まれていた殺人衝動、破壊衝動、反社会的思考も綺麗に取り除かせてもらった」
詠子が音もなく立ち上がり、藤馬に冷え切った視線を向けた。
「ただの抗体ネットワークの参加者には過ぎた代物だったな。人格複製の技術は確かに今もダークマーケットで取引される代物だが、一部では蛇蝎のごとく忌み嫌われる。IAIAのエージェントに察知されたが最後、僅かでも関わった全ての人間が社会的に抹消されるからだ」
藤馬が苦しげに呻きながら、両手で辛うじて気道を確保しながら叫ぶ。
「わ、私はこれの調整に関与していないッ! 誰が好き好んで都心で大虐殺を起こしたいなどと思うものですか! 収集不能になって私個人にまで累が及ぶに決まっている!」
「まるで別の誰かがガトウの調整を施したような口ぶりだな?」
「そう、そうです」
藤馬は必死だった。
「確かに私はそれを購入しました。複製人格は安価で高性能で、しかもオーナーの命令は忠実に守るという話だった。それが実際に届いてみればたちまち制御不能になり、バイヤーに問い合わせれば都心部での大量虐殺を起こしかねない調整が施されているという説明を受ける始末です! むしろ私は私財を投じて事態の収集に当たった功労者ですよ!」
「そのバイヤーの素性は?」
「知るわけがないでしょう。マーケットで自分のプロフィールをひけらかす馬鹿がどこにいますか」
「ふむ……」
詠子は口を閉じて考え込んだ。
「婆さん。考えるのは後にしようぜ。ひとまずそいつがどうなるかを見届けてからだ」
壁から背中を離し、ガトウと藤馬がよく見える場所まで進んだ。
「経緯はどうあれ、そいつはガトウを複製人格だと分かった上で購入したんだろ? しかもその目的はどっからどうみても私欲を満たすためだけじゃねえか」
「例えそうであったとしても、私がいなければパシフィスが血の海になっていました!」
「お前がガトウを買わなければそれで済んだ話だろ。
安心しろよ。俺たちがお前をどうにかするって話じゃない。というか、そこまで完璧に捕まってちゃ、今更俺らがどうにかすることなんてできやしないんだけどな」
藤馬が恐怖に目を見開いて、喘ぎながらガトウを見た。
「ば、馬鹿なことを考えてはいないでしょうね。私はあなたに何の危害も加えていない。顔を合わせたのだって、マーケットの通信機越しにでしょう? 殺すほどの恨みはないはずだ」
「そうだな。殺しはしない」
ガトウの声は、巌のような、低く深い響きだった。
「だがお前のような人間を野放しにしておけば、より多くの人間が不幸になることは、理解しているつもりだ」
「なに、ぐ……」
ガトウは藤馬の返事を待たずに腕に力を込め、気道を塞いで言葉を封じた。
「すまないがこいつの拘束を頼む。俺ではこいつの手足を潰す以外に動きを封じる術がない」
「いいのかよ」
「俺にはガトウ・シュライツとして生きた過去の記憶も、社会への愛着もない。そんな俺が衝動のままに人を殺せば、まさに殺人人形と同じだろう」
「……そうだな」
頷いて、宙吊りになった藤馬の手足を拘束した。
ガトウは無造作に藤馬を床に下ろした。藤馬はぎらぎらとした目でガトウを見上げ、凶悪に顔を歪めている。
「ふざけるな。間違っています。お前のような人間もどきが、この私を粗雑に扱うなど、あってはならない」
それを聞いた壁際の灼が、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
ガトウは平然としていた。
「鷺森。後を任せてもいいか?」
「ああ。お前はひとまず私の事務所に行ってくれ。少し話したいこともある」
「了解した」
ガトウが倉庫の入り口に足を向けた。思いついたように振り返り、床に転がる藤馬を見下ろした。
「迎えが来るまで大人しくしていることだ。俺の気が変わって、お前の頭を潰さないとも限らんからな」
ガトウが法外な握力を持つ右手を藤馬に向けて握った。
藤馬は体を強張らせ、口をつぐんだ。怯えたその姿は、今や警察の執行を待つばかりの小悪党にしか見えなかった。
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