人に生える翼
譜久村 火山
第1話
ぼんやりとした頭で、
峻輝は気がつけば、彫刻の森美術館に足を踏み入れていた。箱根にあるこの美術館は、屋外にさまざまな彫刻作品が展示されている。一度足を踏み入れれば、有名作家のヘンテコな作品や物理法則を無視したようなバランスで聳え立つ彫刻の世界に覆われてしまう。峻輝は遠くの声に導かれるように足を進めようとした時、ふと自分の体にまとわりつくものに気がついた。峻輝の体にまとわりついていたのは、一人の少女である。
「先ほどからずっと、あなたの腕の中にいましたよ?」
少女が言った。上目遣いで見つめてくる少女は、大人へと成長していく前のあどけなさと不安定さを持ち合わせている。抱きついている少女の手を強引に離すと彼女は言った。
「さぁ、行きましょう」
峻輝は少女に連れられて、美術館の中を歩き始める。後ろ手を組みながら斜め前を歩く少女が言った。
「ところで峻輝さんはどうして泣いていたんですか?」
「え」
「どうして名前を知っているのかという不粋な質問は控えてください」
「俺は泣いてないけど」
「いえ、泣いていましたよ。心が」
はじめに目を引かれたのは、『嘆きの天使』という彫刻だった。そこだけギリシャの神殿に紛れ込んでしまったかのような世界観に峻輝は心を奪われる。アリストテレスのような顔が巨大な彫刻となって横たわり、その下には水が張られていた。まるで瞳からこぼれ落ちた涙が池となったかのようである。
峻輝はこの感動を口にしたかった。そして幸いにも峻輝には言葉を受け止めてくれる存在が目の前にいる。しかし自らの気持ちを適切に伝える言葉を捕まえられなかった峻輝は、ムズムズする口を治めようと代わりに別の話をした。
「今日は傷心旅行で来たんだ」
自分でもなぜこんな言葉を捕らえてしまったのか分からない。ただ手を伸ばさずとも、言葉は峻輝の元に飛び込んできた。
「実は、好きな人がいてさ」
そう言った途端、少女の目が悲しみを帯びたような気がした。
「振られてしまったんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど。実は告白もしていない」
峻輝は続ける。
「ただ、もう無理なんだ。あいつは小さい頃からそばに居て、そばにいることが当たり前の存在だった。そう思っていた。でも違った。なんか、映画に出るらしい。しかも主演で」
次にやってきたのは、『宇宙的色彩空間』という作品だった。ここには少女が手を引いて連れてきてくれた。どうやら彼女はどうしてもこの作品が見たかったらしい。この作品は、赤色・オレンジ色・黄色など様々な色で作られたひし形の枠が縦に並べられている。その色の並びは色相環を一直線に並べたようだった。少女が口を開く。
「この作品はなんだか私の一部というか、『顔』のような気がします」
峻輝が意味を測りかねていると、少女がにこやかな笑顔を向けてきた。
「せっかくなので、写真を撮ってください」
そう言って少女は峻輝にスマホを構えさせると、一番手前の赤い枠とその次にあるオレンジ色をした枠の間に入る。そして、赤い枠に手をかけなんとも言えない表情でレンズを見つめていた。
パシャリ、と盗撮防止用に付けられたという撮影音が響く。撮れた写真を見て、峻輝は思い出した。美術館に入ってからずっと感じていた既視感のような懐かしさのようなものの正体に思い当たる。思い出してしまえばどうして忘れていたのだろうかと思うほどの記憶。
峻輝は幼馴染の彼女と、この美術館を訪れたことがあった。そして彼女も、目の前の少女のようにこの場所で写真を撮ったのである。
確かあれは彼女が初めて雑誌の表紙に選ばれた時、予行演習をしたいと言い出したことがきっかけだった。彼女は撮影地であるこの場所に峻輝を駆り出し、カメラマンとしてカメラを持たせた。当時からセンスのかけらもなかった峻輝は怒られながら、何度も彼女を撮った。そのことを思い出し峻輝は、もう二度と手に入れることのできない光があることを実感させられる。
そんなふうに胸を痛めていると、少女が背中を摩ってくれた。
「もしこの世の中に存在するあらゆる物が、人間の姿になったならば、どんな表情をしていると思いますか?」
少女が唐突に聞いてきた。峻輝は答えに窮する。
「あらゆる物って?」
「あらゆる物はあらゆる物です。例えば、買ったのに一度も使われないまま押し入れの中に眠っている玩具とか、コンビニに売っている雑誌とか、この芝生とか、思い出とか」
「そんな非現実的な話をされても、分からないな」
「それじゃあいけませんよ。くだらない妄想って、意外と現実になったりするものですから」
その後も少女に続いて館内を歩いた。少女は峻輝の心に寄り添うように、ゆっくりと作品を見て回る。
そして彫刻の森美術館の顔とも言える作品、『幸せをよぶシンフォニー彫刻』に辿り着く。この作品は一つの塔のようになっていて、中に入り登ることができる。塔の壁は一面ステンドグラスとなっており、中に入ると幻想的な光景が広がっていた。
「私、ずっとここに来たかったんです。せっかくなので、上まで登りましょう」
少女は心なしか張り切って階段を登っていく。峻輝は少女が足を踏み外して落ちないように気を配った。やがて階段を上り切ると、視界が開けた。上は展望デッキのようになっていて、美術館内や箱根の山々を一望できる。快晴とまではいかなかったが、悪くない天気だった。良い眺めだ。眼下には館内にある足湯で休憩する人々が小さく見える。
手すりに胸を預けて景色を眺めていると、横で同じく身を乗り出していた少女が言う。
「私にも実は夢があるんです」
またも唐突な話に峻輝が少女のことを振り返る。その間に、彼女は続けた。
「それは空を飛ぶことです」
峻輝はたまらず、聞き返した。その呆けたような声はおうむのようで、滑稽だったかもしれない。
「はい。私は時計が時刻を知らせるため存在するように、空は飛ぶためにあると思うのです」
彼女が峻輝を正面から見た。笑顔だった。
「私にとっての空とは、人々の笑顔です。憧れの詰まった瞳です。私は私を手に取り読んでくれた人の表情をキラキラと輝かせるために、空を飛びます」
そこからは一瞬の出来事だった。少女は体を浮かせ手すりに足をかけると、その足で鉄の棒を蹴り出し宙へ舞った。峻輝は両手両足を広げて空へ飛び出した少女を見た。箱根の山の中、全てから解放された少女の背中には確かに翼が生えているように見えた。だが実際には翼が生えている訳もなく、少女は重力に従って自由落下していく。長いようで短い静けさの後、バサッという音が地面の方から聞こえてきたような気がした。
峻輝は慌てて階段を駆け降りていた。狭い螺旋状の段を何度か踏み外し、半ば転がるようにして塔の中を出た。幸い、平日の昼ということで来館者は少なく人だかりができているといったようなことはなかった。人影といえば、少し先の足湯に数人が浸かっているだけで、峻輝の近くには誰もいない。当然、死体のような物騒なものもそこには存在していない。少女は姿を消した。
峻輝が少女が落ちたあたりまで歩いて行き、落ちていたそれを拾い上げた所で足湯の方から一人の幼馴染が歩いてくるのが見えた。その幼馴染は、日焼けを気にしてか全身を農家のような服装で覆っている。半袖短パンで一緒に木登りをした彼女の面影はどこにも存在しない。
「どこ行ってたの?」
幼馴染が峻輝に聞いた。
「ちょっとね」
峻輝は答える。
すると峻輝が手に抱えていたそれを、幼馴染は指差した。
「それ。こんなもの、まだ持っていたの?」
峻輝の腕の中にあったのは、一冊の雑誌だった。なんの変哲もない、どこにでも、それこそコンビニにでも売っていそうな雑誌である。ただその表紙には、この美術館で撮られた『宇宙的色彩空間』とまだあどけなさの残る幼馴染が写っている。
「峻輝が来たいって言うから、わざわざこんなところまで付き合ってあげたのに、足湯浸かり始めた途端、鞄から何か取り出したと思ったら、走り出しちゃって。それで、そんなものを持ってどこに行っていたのよ?」
幼馴染が早口で捲し立てる。愚痴を言う時、マシンガンのように言葉を放つのは昔から変わらない彼女の特徴の一つだった。
「自分でもよく分からない」
それが峻輝の言える、精一杯の答えだった。実際、自分でもさっきまで起きていたことが現実なのか自分の妄想なのか判別がついていない。ただ一つ言えることは、今峻輝が存在しているのは確実に現実であるということ。そして目の前には、帽子にマスクにサングラスをかけた幼馴染が目の前にいると言うこと。
峻輝は徐に手を伸ばすと、彼女のマスクを剥がし取った。ついでにサングラスも。
「ちょっと何するのよ」
彼女は怒っていたが、峻輝は笑った。彼女は変わった。あのあどけなさの残る少女はもういない。しかし、峻輝も変わった。かつての峻輝は死を迎えた。そのことを殻を破った、あるいは成長したと言うのかもしれない。清濁を併せ持つことを受け入れた上で、それでも峻輝はまだ空を飛びたいと思っていた。空は何度でも青くなるものである。一時的に灰色へ染まるとしても、必ずまた青くなる。空を飛びたいと願い続けていたら、いつか背中に翼が見えるようになってくるのかも知れない、と峻輝は思った。
人に生える翼 譜久村 火山 @kazan-hukumura
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