脳の世界

 大理石のきれいな床には大量の電球を天井に散りばめたきいろい光がおのおの反射していた。


 おおきな広間には中央に立派や黒松が立ち尽くしていた。


 その中心に沿って網状に線がかたどられ乳白色の欠片にはホコリ一つ無い。


 大きさや立派さは有れども人が住むべき余地がないその屋敷には一人の子どもが住んでいた。


 住んでいるが1日中いるわけではない。


 ふだんは屋敷から近くの藁でできた小屋に寝泊まりしている。


 その子どもはいつも裸で屋敷を掃除していた。


 屋敷には子ども以外の人間は住んでいない。


 なのにもかかわらず子どもは誰かに仕えている。


 誰なのかはわからない。


 今日もまるで他の誰かが住んでいるかのようになにも汚れていない屋敷を掃除するのだ。


 昼時になったら屋敷の外に出て大きく熟れた桃を手作業で編み込んだ籠のなかに入れてゆく。


 時々虫がついている桃は手で払い除けて又籠の中に入れ込む。


 過剰にみを膨らませた桃はその大きさにより皮をはちきらんとするばかりだ。


 だから実った果実を次々収穫していく。


 毎日同じものを食べて生きているその子どもは自分の意志というものがまるでない。


 と言うより自我そのものがないのだ。


 この世界で生きているものは彼以外に2つしかいない。


 そこら中に生えている桃の木と鳥だけだ。


 それらは子供のことを見守ってはいないが無視してもいない。


 いずれ来る世界の崩壊とともに同じ目の前をみる存在なのだ。


 子どもは籠を満杯にしたのち屋敷へ戻る。


 その途中奇妙な橋を見つけた。


 鎖で出来た小さな橋だ。


 古い上にキシキシ音が鳴っている。


 子どもは興味本位でその橋を渡った。


 だが橋は軽い生き物すら突っぱねるように鎖のひとつが千切れまた千切れどぼんと汚い川に子どもは落ちた。


 水量は多いが流れは速くなくなんとか彼は立ち上がった。


 立ち上がって又ころんだ。


 転ぶが故足下は小石と砂利で埋め尽くされ段々歩きにくくなる。


 苛立ちながら河から上がった子どもは濡れた体のままでは屋敷に入れないと思いしばし草むらに寝転んでいた。


 濡れた肌に汚れた土塊がこびりつきそれをどうにか払おうとしていた。


 払った手にも泥がつく。


 先程まで浸かっていた川は見れば土埃が舞い上がって水と溶け合い不透明な色をしていた。


 不透明な水の中に動くなにかが見えた。


 動くなにかは小魚だった。


 小魚は先程の騒動から身を守ろうと必死に尾びれを動かしている。


 動かした尾びれは小石で傷ついて血を流している。


 泳ぐごとに命が消えてゆく様は見ていてとても物悲しいと子どもは思った。


 少しして川から離れた。


 やるべきことを思い出した子どもは悠然と館へと向かっていった。


 玄関に大きなくまの絵画が額縁の服を着て飾られている。


 熊の目は黒と水色の混色で塗られておりその光と眼球の漆黒な瞳は目の前に立った観測者を捉えて離さず尚且つ喪失的な部分を味合わせる事が出来る。


 この絵に見入って思うのは怒りか―悲しみか―それか何なのだろう?


 思うことがある子どもは毎日この絵を見て考えに浸る。


 この世界は―いやこの館にはびこる見えない何かはぼくを逃すことはない。


 思想はある。


 だが送るべき人がいない。


 この世界に住んでいる生物は子どもか桃の木か魚だけなのだ。


 この世界に存在する限りこの場所の―おそらく何千年前から変わっていない世界のサイクルはどうやっても変えられない。


 川の流れや桃の大きさとこの屋敷。


 僕は生きているのに。


 なぜ身の回りの出来事は自分の存在に影響されないんだと子どもは思った。


 生きているが意味はない。


 存在はしていても干渉はできない。


 群がる命の蠅が生命の神秘だけがこの世界をこの世界たらしめている。


 子どもは生きているが生きるが故の魂の灯火――世界に迷惑をかけるという生物特有の傲慢さ―それが無い。


 なのでいくらその命を燃やそうとも決して世界から存在を認められることは無いのだ。


 熊の絵の背景は荒廃した森が描かれている。


 なんとなくその森がこの世界にある気がして嬉しくなる。


 額縁の下には棚がある。


 中にはいろんな靴がある。


 大きい靴―しましまの靴―高価なブーツ―ハイヒールなど。


 しかし子どもは裸足なので意味がない。


 履かれていない靴はだんだんとその面影のみを棚に遺し消え去らんとするばかりだ。


 それがいい。


 それでも良いのじゃないかと子どもは思った。


 ぼくらのような呼吸すら必要を感じられていない生物はひっそりと―できれば厳かに―死んでいくのみなのだ。


 子どもは暗鬱とした気持ちで考えていた。


 棚の横にある小さな隙間からゴキブリが走った。


 すぐに子どもは走り出して足で踏み潰した。


 黒い外殻からきいろいきいろい苦い汁がでてきて存在の影を遺してこの世から去った。


 彼もが悲しみを覚えどこか遠い国へと旅立った。


 そこまでして走った意味は生きる意味は食べる意味は桃の味を知る意味は果たしてあったのだろうか。


 北の国の寒い地域でほそぼそと硬いパンを齧って白い空気と広大な空の下で在る意味は果たして。


 ないと言えば嘘になる。


 あると言えば妄想になる。


 妄想は波紋を呼んでこの脳の世界に何らかの影響を及ぼす。


 子どもは歩いていき台所に立った。


 切れ味の良い包丁で桃を切ってゆく。


 ぬるぬるとした皮や汁が手のひらを流れ手首まで滴った。


 その身は黄色なのに出てくる汁は色を持たず子供の肌と似通った色をみせた。


 子供の肌はきいろだった。


 よくよく耳をすませばこの屋敷の何処かから音がする。


 子どもはその音の出所をさぐった。


 その音は屋敷の物置部屋から流れていた。


 木製の古びたとびらを開け地下にある物置部屋へと足を運んだ。


 降りるごとに埃が増えていきやっと着いた部屋では歩く事にずずずと地面のホコリを足が削る音がした。


 そこの棚には緑色の瓶や意味のない文字で記された本などがある。


 近くにピアノが置いてあった。


 古びた場所には似つかわしくなく綺麗で更に楽譜がおいてあった。


 読めない楽譜など捨ててしまおうかと思ったが何気なしに楽譜を読んだ。


 何分見渡しても理解できない。


 しかし元の位置に置きなおすと妙にしっくり感じた。


 そのまま子どもは椅子に座りピアノに向き合って鍵盤に手を置いた。


 適当に押してみると音が部屋に響いた。


 音の波が目で見えた気がした。


 子どもは暗がりの中夢中になって鍵盤を押した。


 弾いてはいない。


 その音は意味をなして空気中に浮かんでいるわけではない。


 しかし何処か楽しげな感覚が辺りを覆った。


 共に棚や瓶なども踊ってくれたらと子どもは考えた。


 そして手を止めて階段を登ろうとしたその時。


 ポーンと音がなった。


 明らかに振り返り目を見開いた先にあるピアノから音がした。


 ピアノの鍵盤のその一つ一つの上に靄がかかった黒い何かが見えた。


 その何かを子どもは指で押しつぶした。


 すると今迄音へと成らなかった音がきれいなベールを帯びて身の回りを包んだ。


 それと同時に他の鍵盤に靄がかかった。


 それを押すとまたきれいな音が鳴りまた他の場所に靄がかかった。


 それを続けるうちに音楽となりその場を超え屋敷を越え木を越え川を越えて森を越えて世界を脳の世界をきれいな音の波で満たした。


 頭のなかで響いたその音を男は無情に消した。


 きれいだった音がきれいだった木と川がきれいだった屋敷が何か目指していきていた子どもが事切れた。


 脳に蔓延った汚らしくも美しいその世界は非情な判断とともに幕を閉じ目の前の暗黒を終の涙で揺らした。

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ドゥルヨーダナの鳴き声 静谷 清 @Sizutani38

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