ドゥルヨーダナの鳴き声
静谷 清
腐った男
その男は腐った木の柱と死肉の匂いがする内壁に押し固められた十畳ほどの部屋に閉じ込められていた。
中にはベッドと机と椅子と窓があるだけの簡素であり無機質な部屋にいつまでも居た。
なにかするべきことがあるのかもしれない。男はときどきそう思っては部屋の中を3周ほど廻っているがなにか得て戻ることは何も無い。
ましてや此処に来た理由すら忘れてしまった哀れな男では本当に大切なものなど掴める筈もない。
窓から見える景色はどこか懐かしい。
古めかしい木製の小屋とイチョウの葉がなる木々が立ち並ぶ山の景色がみえるのだ。
見えるからといって男が其処にいくことはない。
窓は開かないのだ。
押しても引っ張ってもその窓は頑丈に行く手を阻み脱走者を逃すまいと更に強固に成ってゆくのだ。
そして何日もその部屋で過ごすうちに奇妙なことに気付く。
窓の外の景色は幾ら日を跨いだとて変わることはない。
空はいつまでも青く広がり真っ白な雲が何時間も同じ場所で漂うのだ。
草木に張り付くてんとう虫や小屋の屋根に止まった鳩も時々動くが何日も同じ一点にとどまり活動もせず飯も食わずこちらを監視している。
監視されている男は恐怖を感じ窓辺から離れ椅子に座る。
机の上には食べかけのパンと短い鉛筆が転がっておりそれらでどうにか暇をつぶそうとするも何もすることがない。
紙がないので絵や文字はかけずパンは腐っており食べる気がしない。
そもそもいくら此処にいても腹が減ったり便意を催すことがないのだ。
ないものは必要ない。
その部屋に住む生物は男一人なため話し相手もおらずもともと無口な彼はここ数日一言も喋っていない。
喉は使われない為古び口元は開かれないため乾燥し閉じようとしていた。
何か喋ってみようかと男は思って口を開こうとするとべりべりとくちびるの皮が剥がれ上の皮と下の皮が交互に互いの領土を剥いていた。
悲痛な叫びが漏れた。
漏れた叫びは部屋にこだました。
こだました部屋はしんと静まり返っている。
男は不機嫌になった。
不機嫌になったところでその頭の中の負の思いを何処に発散しておけば良いかもわからず困惑した表情でまたウロウロするのみであった。
ときが過ぎ去る感覚は時計をみたときのみ起こりうるものだ。
そのため時計のない此処ではいくら無駄な行いをしたとて不満をいうものは誰もいない。
いないというのは男も含めてだ。
男のすべき事などみつからない。
そしてこの部屋から抜け出せもしない。
此処にいて誰かから指図されるわけでもなく非難されるわけでもない。
有意義な生活をしていた。
少なくとも男にとっては。
混じり合う困惑した感情を脳内で戦わせ勝敗の有無を又脳内で報告する遊びをしていた。
怒りと悲しみはよく勝つ。
喜びと怯えはよく負ける。
悪意は人のなかで燻る感情の廃棄物のように感じる。
又は感情のため発生する体外運動による異常行動ともよくいえる。
しかし一日過ぎたかどうかも怪しい。
何となく一日過ぎた位の気持ちでいるのだ。
本棚ぐらいあってもよかったんじゃないかと時々考える。
男は不満を言わず溜め込んでゆく人間なのだ。
その為こんな辺鄙で人が住む場所じゃない処にも文句を口に出さずいつまでもいる。
この部屋に扉はある。
しかし開くかどうかはわからない。
男はまだ開けたことがないのだ。
いずれ開けようと思っているが開けてしまったらこのようなホコリ部屋はおさらばなのでまだ開けていない。
開けようとして開けれなかったとき恥ずかしいからでも在る。
男はそのなにもない部屋になにかを生み出そうとしている。
世紀の大発明家もしくは名作の小説。
そんなものはこの場所で産み落とされない。
そういう風に設計されているのだから。
此処に何年居たとて成果など見いだせるはずもない。
人は居たいと思う場所に居るのだ。
居なければならない処などなにも産む筈がない。
その上男は自身のことをいつかなにかをしてのける希望の存在だとも思っている。
いずれ来る筈なのだと男は思っている。
肉の塊が生み出すものなど肉の塊しか絶賛しない肉で考えた肉の脳みそが肉を喜ばせるために植物性の花束で植物性のインクで植物性の本で肉を喜ばせるために頭の中で想像した感嘆の声が上がるなにかが肉でないはずがないのだ。
この男はまだ迷っている。
ここから出るべきか出ないべきか。
未だ迷っている。
迷ううちに春が過ぎた。
悩むうちに夏が過ぎた。
黙るうちに秋が過ぎた。
叫ぶうちに冬が過ぎた。
いつまで経っても扉は開かない。
開く扉など存在しない。
男が居る部屋にベッドも机も椅子も窓も窓の外の木製の小屋も銀杏の木もてんとう虫も鳩も空も全てないのだ。
只々男は寝転がったり座ったり歩いたり立ち止まったりしているだけ。
脳の中は空っぽで思いつく事象などありはしない世界から隔絶された部屋の中でなにもせずなにも感じず壁にもたれかかりいつかを夢見て下を向いているのみだった。
子供の頃の彼は何か夢見るごとに直進していき飽くなき無地の欲求がすぐさま体を動かすむだ草の極致にいる典型的な活発な子どもであった。
しかし年を取るごとに失敗することを恐れいつしか『動かなければ傷つくおそれもない』と思うようになり成功体験の著しく乏しい大人になってしまった。
男の思う『飽くなき探究心』は『自身の中にある埋められた原石』であり男の感じる『夢追う大人たち』は『己の立場すら理解できない短絡な子ども』なのだ。
男の体の中の世界では男の考える理想郷があった草木は伸び切り人は服を着ず川は氾濫し果物はとにかく大きくとにかく甘い。
その世界では一人の子どもが住んでいた。
子どもは世界の堕落した様子を見ていずれこの世界を変えようと決心していた。
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