第18話 最終話 帰国 修正版

※この小説は「倭城(わそん)」の修正版です。実は、パソコンの操作ミスで編集中に保存できなくなり、新しいページで再開した次第です。文言や表現を一部修正しております。もう一度読み直していただければと思います。


空想時代小説


 慶長4年(1599)5月、十兵衛は故郷白石に着いた。秀吉の奥州仕置きまでは仙台領であったが、今は上杉領となっている。かつての領地であった山奥の小原地区に足を踏み入れた。上杉領ではあるが、旧知の土豪がいる。四竈秀之進の屋敷を十兵衛と弥兵衛は訪れた。

 秀之進は歓待してくれた。

「よくぞもどられましたな。朝鮮での戦は厳しかったと聞きました」

「うむ、死ぬ間際までいったこともあるぞ。なぁ弥兵衛」

 弥兵衛も応える。

「はぁ、蔚山(ウルサン)での籠城戦はまさに地獄でしたな。多くの仲間を失いました。ネズミも食いましたな」

「ネズミですか? わしは食ったことはありませぬ。山菜ならいくらでもありますが・・」

「山菜は1日で食べつくした。なにせ3000人が籠城したのだからな」

「それでしたら、ここの山料理はごちそうですな」

「まったくもって、このおひたしなどは絶品でござる」

 と山の料理に舌鼓をうって、新緑あふれる中で休むことができた。


 翌日に、河原沿いの「かつらの湯」に入った。結構熱い。じっと体を動かさず、湯につかる。体はあったまるが、ゆったりと入る感じではない。露天風呂の外は鳥の鳴き声とせせらぎの音がする。まさにのんびりとした雰囲気で、朝鮮での地獄のような日々が遠い過去のように思われた。

 その夜、秀之進の屋敷に賊がやってきた。秀之進が

「十兵衛さま、お逃げくだされ!」

 と叫んでいる。

「山賊か?」

「いや、違いまする。忍びでござろう」

 と弥兵衛と共に外に出ると、そこに手裏剣がとんできた。十兵衛の顔をかすめていく。すぐに斬り合いになった。相手は3人。覆面で顔を隠しているので山賊ではない。弥兵衛の言うとおり忍びであると思われた。

 相手は飛ぶようにして攻撃してくる。だが、持っているのは短い忍び刀だ。十兵衛は相手が攻撃してきた時に、刀を突きだした。それが相手に痛手を与えた。一人が逃げると他の二人も去っていった。

「大丈夫でござったか?」

 秀之進が裏からやってきた。腕に傷を負っている。

「賊は何度もくるのか?」

 と十兵衛が尋ねると、秀之進は

「いえ、初めてでござる。おそらく、十兵衛さまたちが来られたので、上杉勢の草の者たちでしょ」

「上杉と仙台藩は仲が悪くなったのでござるか?」

「どうやらうまくいってないようでござる。仙台の大殿は家康公寄りですが、上杉は反家康になってきております」

「そうか、いずれここは戦場になるやもしれぬな。その時は我らに味方してくれるか?」

「もちろんでござる。小原40騎。その日のために弓の鍛錬に励んでおります」

「そうであったな。小原の百矢納めは藩内でも知れ渡っておるかからな」


 3日後、十兵衛と弥兵衛は岩出山に着いた。まずは小十郎にあいさつに行く。

「十兵衛、よくぞもどった。さぞかし苦労したのだろうな。顔がやせこけているぞ」

「はっ、地獄の思いをしました。なんとか生きてもどってまいりました」

「うむ、そのことは後で大殿や成実殿といっしょに聞こう。まずは湯屋に入って休め。この先の川渡(かわたび)に宿をとってある。しばらくそこで体を休めるがよい」

「はっ、ありがたき幸せ」

 と弥兵衛と二人で湯治に行った。川渡の湯は、ほどよい熱さでゆったりできた。食事も山菜だけでなく、魚や青菜の漬け物がおいしかった。栗団子は絶品だ。

 川渡にきて3日目、呼び出しがあった。正装をして城へ出向いた。

 上座に政宗、その傍らに成実が座り、小十郎が反対側に座る。下座に十兵衛は案内された。前回は土間であったが、少し出世したようである。

 成実が口を開く。

「十兵衛、ご苦労であった。お主の顔を見ただけで大変な日々を過ごしたことがわかる。本日はその話を聞きたくて、亘理から馬を走らせてきたぞ」

 成実の領地は宿敵相馬と相対する亘理郡である。馬でまる1日かかる距離にある。

「はっ、皆さまとお別れしてからですが、しばらく西生浦倭城(ソソンポワソン)と蔚山城(ウルサンソン)の城造りをしておりました。そして、朝鮮中部にある黄石山城(ハンスサンソン)という山城を攻めました。そこの相手は士気が低く圧勝でした」

「相手は朝鮮だけか?」

「そうでござる。明はまだ出てまいりませぬ。その後、鎮川(チンチョン)という砦を攻めました。ここで1万の明・朝鮮合同軍と対峙しました」

「とうとう明が出てきたか」

 声を出すのは成実だけである。政宗と小十郎はうなずきながら聞いている。

「ここで清正公は撤退を決めました」

「なぜだ?」

「敵の鉄砲隊が出てきたからです」

「朝鮮に鉄砲隊があったのか? あっあれか、晋州城(チンジュソン)の戦いで朝鮮に降った将か? たしか雑賀といったはず」

「そうでござる。鉄砲の3段撃ちをくらいました」

「それは清正公も退却を決めるな」

「他の部隊も苦戦をし、後退をいたしました。我らは西生浦(ソソンポ)まで退きました」

「西生浦の城の守りを固めたのじゃな」

「我らは出丸の守りを任されました。まさに堅固な城で、とうとう敵は一度も攻め込んではきませんでした。ですが・・」

「が?」

「改修中の蔚山城(ウルサンソン)に3万の敵が攻めてまいりました。清正公は急遽1000の兵を連れて、蔚山城に入りました。急いで入ったがために兵糧はわずかしかありませんでした」

「清正公は切羽詰まったのだな」

「我らは鉄砲や弓矢で応戦しました。敵は狭間のある土塀に苦しんだようです」

「うむ、敵は高い城壁しか見たことがないからの」

「敵はなんとかおさえることができましたが、兵糧不足は深刻でした。城内の草は食べつくし、ヘビやカエルがごちそうでした。ネズミも食いました。馬もエサがなく死んでいき、兵たちはその肉を食べました。中には生きている馬も殺しました」

「人肉も食べたというではないか?」

「拙者は食べておりませぬ。また、清正勢で食べた者は知りませぬ。ただ、そういう噂はありました」

「究極の飢餓状態にあったのだな」

「そこに毛利秀元公、立花宗茂公が援軍として来てくれて、我らは西生浦まで退くことができました。まさに九死に一生を得る思いでした」

「それだけの経験をすれば形相も変わるわな」

「蔚山に2回目の攻撃がありましたが、この時は城ができあがっていたので、難なく退けることができました。ですが、大坂から帰国命令がでて釜山(プサン)にもどりました。明の将軍は無人の蔚山城に入り、喜んでいたそうです」

「明にすれば自分たちの戦いではないという思いが強いのだろうな。それで李舜臣(イスンシン)と戦ったのか?」

「はっ、釜山で帰国準備をしていると、島津義弘公や立花宗茂公が順天(スンチョン)城に閉じ込められている小西行長公を救援に行くということで、我らも宗茂公の船に乗ることになりました」

「島津は水軍をもっているが、立花は急造の水軍であろう」

「そうでござる。最初は陸にあがって遊撃隊をする予定でしたが、適当な浜がなく、結局は海の上での戦いになりました。最初は島津の釣り野伏せの戦法で義弘公が囮になり、3艘を自陣に引き連れてきて、これを沈没寸前にまでやっつけました」

「義弘公、快心の一戦じゃな」

「しかし、その戦法は一度しか通じませぬ。いよいよ包囲網突破でござる。一列縦隊で敵陣に切り込みました。まるで放たれた矢のような動きでした。敵の船の脇をすすみながら大砲・鉄砲・弓矢を撃ち込みます。双方ともにですから壮絶な戦いとなりました。それでも包囲網は崩れ、小西行長公は脱出できました。翌日、釜山にもどってきた時には船の数は半数になっていました」

「その時、李舜臣(イスンシン)と戦ったのだな」

「はっ、どの船にいたのかはわかりませぬが、敵の動きがばらばらになった時がありました。その時に銃弾があたったということです」

「お主の放った銃弾ではないのか?」

「かもしれませぬが、朝鮮の将は皆同じ格好をしているので、分かりませぬ」

「だろうな。指揮官が前線に出ればそういうこともあるということじゃ」

 と成実は行って政宗を見た。政宗は自分も前線に出て撃たれそうになったことがあるので、首をすくめていた。そして、政宗が口を開く。

「十兵衛、どんな言葉をかけてもお主の苦労に報いることはできぬのはわかっておる。だが、ご苦労であった。それで朝鮮での戦、お主はどう思った?」

「はっ、太閤さまの野望の果ての無意味な戦いでございました。なにも得るものはなく、我ら戦った者や朝鮮の民を苦しめる戦いでした。戦には大義が必要。そして民・百姓のための戦いでなければなりませぬ」

「うむ、そのとおりじゃ。では、白石を奪い返すと言ったら、お主はどうする?」

「もちろん、先陣に立ちます。元々は仙台領でした。奪われたところは取りもどさなければなりませぬ。かつての領地である小原の国人も助けてくれると申しておりました」

「そうか、それは頼もしい。いずれ、時がやってくる。その時は頼むぞ」

 との政宗の言葉に、十兵衛は頭を下げた。


あとがき


 最後まで読んでいただきありがとうございます。この小説は史実を基にしておりますが、私なりに脚色して書いてみました。歴史好きの方には物足りないところが多々あったと思います。その点は心より申しわけなく思います。

 私は2006年から2009年まで、ソウルに駐在していました。休みの日に城めぐりをよくやりました。夜行バスで行き、1日歩いて夜行バスで帰ってくるというのをよくやりました。西生浦倭城(ソソンポワソン)には二度行きました。一度目はバス停からタクシーで本丸近くまで行きました。おそらくかつての馬出しの道だったのでしょう。二度目はふもとから1時間かけて登りました。城の大きさや守りの堅固さに圧倒されました。蔚山城(ウルサンソン)は広い公園になっています。激戦の地とは思えないのどかなところです。唯一、掲示板に戦いの様子が描かれているのが戦の場だったということがわかるだけです。

 城好きな人は、ぜひ「韓国城めぐり」という私の小説を読んでみてください。そして韓国に行く機会があったら、ぜひ訪れてみてください。

 次回作は、旅シリーズの修正版になります。私の旅の足跡を小説にしてみました。韓国の旅もあります。よかったら読んでみてください。


※参考書籍 斉藤政秋氏著「文禄・慶長の役の戦後〈倭城)」ごま書房刊 2008年

 この本は、ソウル駐在時にソウルの書店の日本書籍コーナーで見つけたものです。それまで倭城めぐりをしていて、自分と同じように倭城めぐりをしていた人がいたことを知り、嬉しく感じた覚えがあります。その後の倭城めぐりにも大いに参考になりました。

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倭城(わそん) 修正版 飛鳥竜二 @jaihara

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