第2話

 日曜日――

 サキがいつも行くスーパーの前に人だかりができていた。なにごとかと近付いてみると、管弦楽団のミニコンサートが始まるところだった。

 ふとレジ脇に貼られていたポスターを思い出す。場所も開催日も確認しなかったが、それが今日とは思わなかった。気持ちが前へ出るように、自然と咲の足はコンサートが見渡せる場所へ進んでいく。


 “ミニ”というだけあって、その規模は小さい。わずか8人ほどが楽器を手に、スーパーの前の空きスペースで演奏をする。

 咲の目前にはピアノも置かれていて、女性の奏者が他の楽器に合わせてメロディーを奏で始めた。

 ピアノの正式名称は、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテというイタリア語で、”強くも弱くも弾けるチェンバロ”という意味を持つ。鍵盤楽器ではあるが、内部に張り巡らされた弦を響かせて音を出すため、弦楽器的であるとも言えよう。88の鍵盤と、7オクターブ1/4の広い音域は、どのパートにも対応できる万能な楽器だ。

 奏者の滑らかな指使いと、弾かれる弦の音色に咲は心を奪われた。

 ――私も弾きたい。

 指が自然と曲に合わせて動く。


 休日のスーパーは賑やかだった。雑踏の中で鳴り響く管弦楽器。その中で、特にピアノの音だけが咲の耳を和ませていた。


 しかしそれはわずかな時間だけだった。視界の隅に、コンサートに足を止めることもなく、忙しなく行き来する買い物客の姿が映った。音楽に興味がないのか、日々の生活に追われているのか、通り過ぎる人たちは冷めた目をしているように見えた。連れている子が興味を示しているのに、急かすように手を引き寄せて買い物を優先する親もいる。

 現実に引き戻された気分になって、小さくため息を吐く。人だかりから抜け出すと、咲もスーパーへ入っていった。


 演奏が続く中、少し離れたところから一部始終を見ていたアユミがいた。




「なぁ、隣に住んでいるんだから、なんか知ってるんだろ?」


 教室にいる咲に見つからないように、歩は階段の踊り場にリクを呼び出して問い質していた。


「知ってるって、なんのこと?」


「サキのことだよ。遅刻したり、居眠りしていたり、忘れ物も多いよな。小学校の時はすごくしっかりしていたのに、急に変わってしまって……。なにがあったのか知らないのか?」


「本人に聞けば?」


「サキは自分のことをペラペラ語るようなやつじゃない」


「へぇ、アユミと逆だな。『本人の許可なく、他人の個人情報を漏らしてはいけない』って社会科で習ったろ? 勝手に教えられないよ」


「ってことは理由を知ってるんだな。そこまで言ったなら全部教えろよ。誰にも言わないからさ」


「知ってどうするんだよ? 僕らに助けられるようなことじゃない」


「助ける? やっぱりなんかあったのか?」


「……これ以上、話すことはないよ」


 口籠る陸に、歩が畳みかける。


「リク。この前、三者面談のプリント忘れたって嘘ついただろ。机に隠してるの見てたぞ。生徒会長のくせに嘘ついていいのかよ」


 “嘘”と言われ、陸は言葉に詰まった。どんな小さなことでも助けたくて、無意識についた嘘だ。

 口を閉ざした陸に、歩はなおも続けて話す。


「日曜にさ、スーパーの前を通ったんだよ。なんか演奏やってて、サキがじっとピアノを見てた。リクも知ってるだろうけど、サキの家にはピアノがあってさ、小学校の時から音楽教室にも通っていて、すごく上手だったんだ。中学に入ったらピアノが弾ける部活に入ると言ってたのに、あいつ部活もやらないで毎日早く帰ってる。あんなに好きだったことを、簡単に辞められるのかと思っ――」


「サキの家に、もうピアノはないんだよ……」


 そこまで黙って聞いていた陸が、遮るように言った。

 中学に入ってしばらくした頃、咲の家からピアノが運び出されるのを見た。悲しそうな目をした咲の姿も。


「えっ……?」


「ピアノは諦めたんだ……」


「なんで?」


「それは……。知らないよ」


 陸は階段を駆け下りて、教室へ戻っていった。




 三者面談の時間だけ仕事を抜けてきた咲の母――。

 プリントの志望校欄には、平凡な公立校の名が書いてあった。咲から「面談は先生と二人でするから、サインだけしておいて」と言われたが、そういうわけにも行かない。署名と共に書いた希望日時が受け入れられ、面談に臨んだ。


 面談が始まるとすぐに、咲が担任の宮沢みやざわ先生に言い放った。


「私、進学はしません。卒業したら介護福祉の仕事に就いて、働きながら資格を取ります」


 突然のことに、宮沢先生も母も「ええっ?」と驚き、咲の顔を見る。


「でも、志望校は話し合って決めたんだよね?」


 宮沢先生は慌てた様子で親子の顔を交互に見た。


「あの……。サキがそれでいいなら、と……。深く話し合ってはいませんでした。忙しくて……」


 消え入るような声で母が言う。


「ごめんママ。親の確認サインが必要だから志望校を書いただけなの。それに、進路と言いながら進学が前提っておかしいでしょ? 就職も選択肢にあっていいと思うの」


「だけど、高校には行かないと……。お母さんもう少し頑張るから、サキはまだ働かなくても大丈夫よ」


「もう十分頑張ってるよ。ママが倒れたら、それこそどうにもならないからね」


「そういう問題じゃなくて……」


 親子のやり取りに、宮沢先生は慌てて二人を止める。


「ま、まぁ落ち着きましょう。いろいろご事情があるのは学校側でも把握しています。就職というのもひとつの案として、もう一度ご家族でよく話し合ってみてください。安易に決めてしまうと後戻りできませんから」


 この場での進路問題は保留とされた。もし高校受験をするなら、なるべく早めに志望校を決めるようにと伝えられる。

 ほら、やっぱり進学が前提になってる、と咲は思った。この中学校での進学率の高さをアピールするために、ひとりでも多く高校へ行って欲しいのだろう。


 面談室を出ると、次の面談予定の陸と彼のお母さんが待っていた。軽く挨拶をしたあと、咲に「帰ってから話しましょう」と言い残して母は仕事に戻って行った。




 教室に戻る途中で、廊下を歩いていた咲が足を止める。授業中の音楽室からピアノの音が聞こえてきて、しばらく音楽室の前に留まった。

 咲が1年生の頃――、ピアノを失って傷心していた時のことだ。放課後の誰もいない音楽室に忍び込み、置いてあったグランドピアノを弾いたことがあった。防音が効いた音楽室とはいえ、こんなにも廊下に音が漏れ聞こえるのだから、見つかれば怒られていたであろう。

 あの時、弾いたのはショパンのエチュード(練習曲)『別れの曲』。ピアノを弾くのはこれが最後、という気持ちでいたが、今でも演奏が聞こえるだけでこうして足が向いてしまう。


 もう音楽に関わるのはやめようと決めたのに、いつまでも吹っ切れないでいる自分に、つい「ダメだなぁ、私は……」と呟いてしまう。


「なんで? 音楽が好きならやったらいいじゃないか」


 後ろから声がして、驚いて振り向いた。


「リク」


「サキがやりたいなら、好きなことは続けるべきだよ」


「そんな簡単に言わないでよ。私は中学を卒業したら介護の仕事に就く。ピアノはもうやらないって決めたの」


 陸の言いたいことはわかる。それなのに、普通に生きている人の押し付けに聞こえてしまう。咲がすべきことは、母の手助けをし、祖父を介護する。弟の面倒も見なければならない。誰もが当たり前に思い描いている普通の未来なんて、咲には全く見えなかった。

 好きなことをやる? そんなことできるわけがない。

 咲は耳を塞いで、その場から走り去った。


 後姿に向けて陸が声を上げた。


「サキの人生はサキのものだろ」





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