そっと手をさしのべて

中里朔

第1話

「ねぇ、まだサキ来てないよ」

「今日も遅刻じゃない?」

「日直なのにね」

「だらしなさすぎでしょ」


 サキの嫌みを言う女子たちの声が聞こえてきて、リクは「日直なら僕が代わりにやるよ」と口を挟む。


「なんでリクがやるの?」


「どうせ明日は僕の番だし。交代すればいい」


「リク、優しー」

「甘やかしすぎだってーの」

「みんな、ジミケン来たよ」


 教室のドアが開いて、担任の宮沢みやざわ先生が入ってくる。当初、クラスのみんなは宮沢みやざわ研司けんじという名前を省略してミヤケンと呼んでいた。しかしこの若い担任は、今どき珍しい七三分けの髪形に、太い黒縁の眼鏡という古風な見た目から、地味なジミケンという呼び名に変わった。若年教師ゆえに少々頼りなさもあって、陰で揶揄されることも多かった。


「みんな席に着いて。出席取るぞ」


「先生、サキが来てないよ」


「遅刻か?」


 ちょうどその時、後方のドアを開いて咲が慌てて教室に入ってきた。


「お、遅くなりました……」




放課後――


「今日は部活がない日だからさ、帰りにアイス食べに行かない?」

「おお、いいねー」

「サキも行くか?」


「私は用事があるから行けないんだ。ごめん」


 返事もそこそこに、咲はスクールバッグを肩にかけると、急いで教室を出て行った。


「なんだよ。遅れてきたのに帰るのは早いのかよ」


 アユミが悪態をつく。中学に入ってからすっかりギャルに目覚めてしまった歩だが、小学校まではごく普通の子で、咲と仲もよかった。歩がギャル仲間と連れ立つようになってから、二人の間には微妙な空気が流れている。


「サキってさ、テレビとかマンガの話してもついて来れないんだよね」

「あー、わかる。流行りに疎いから、会話が成り立たないよ」

 歩はギャル仲間の話を聞きながら、小学生の時には咲と流行りの服の話をして盛り上がっていたことを思い出す。

「なんか変わったよな、サキ……」


 帰り支度を終えた陸が、咲の噂話をする女子たちの脇を通って教室のドアへと向かう。

 歩が声をかけた。


「リク、アイス食べに行かね?」


「いや、これから塾だから」


 陸は歩を見ることも、立ち止まることもなく、通り過ぎて行った。


「ちぇっ」

「まぁまぁ。私らだけで行こうよアユミ」


 陸も小学校では同じクラスだったのに、この頃は態度が素っ気ない。男子特有の思春期なのか、ギャルが嫌なのか、歩にはわからなかった。




 学校から出た咲は、近くにあるスーパーへ向かった。

 スカートのポケットからメモを出す。


「今日の特売品は、チーズとトマト……」


 重い学校のバッグを肩にかけたまま、メモを見ながら買い物かごに商品を入れていく。冷蔵コーナーに置かれたプリンの前で足を止めるが、キュッと目を閉じて素通りする。


 並んだレジの脇にポスターが貼られていた。

『〇〇管弦楽団によるミニコンサート開催』

 ――ふぅん、こんな田舎町まで来るなんて、楽団って大変なんだな……。

 会計を終え、食材の詰まったエコバッグを手に家路を急ぐ。




「お姉ちゃん、おかえり。おばちゃんはさっき帰ったばかりだよ」


 鍵を開ける音に反応して、玄関へ走ってきたのは小6の弟、リン。おばちゃんというのは、祖父のために昼間だけ面倒を見てくれる訪問介護ヘルパーのことだ。

祖父は若い時の肺疾患が原因で、呼吸が浅く、疲れやすい。最近は出歩くこともほとんどなくなり、家にこもりがちになっている。


「ただいまリン。ジイジはどうしてる?」


「お風呂に入れてもらってさっぱりしたのかな、今は寝てる。今日のご飯なに作るの?」


「今日はね……。オムライスだよ」


「わぁ、やった!」


「リン、宿題は?」


「まだ途中……」


「終わらせないとママに怒られるよ」


「うん、わかってる。ねぇ、お姉ちゃん……」


「なに?」


「スニーカー……穴が開きそう」


 言われてみれば、玄関に置いてあった倫の靴はだいぶ傷んでいた。買い替え時ではあるが、今月末に光熱費の支払いをしたら生活費がギリギリだ。


「来月でもいい?」


「えー、来月ってまだ先じゃん」


「ごめん。我慢して」


 スニーカーっていくらするのかな?

 削れるのは食費くらいか……。




 受験を控える中学3年生の教室。今後の進路について話し合う“三者面談”のプリントが配られる。


「いいかい? 進路というのは君たちの将来にも繋がることだからな。家族とよく話し合って決めるように。署名してもらってから提出するんだぞ」


 宮沢先生の説明なんて耳に入っているのかどうか。プリントを見て、教室は一気に騒めき立つ。

「えー、三者面談って親も来るの?」

「進路なんてわかんないよ」

「自分だけで決めちゃダメなの?」


 咲はプリントの後半に書かれた志望校の記入欄をじっと見詰めていた。

 ――高校って、どれくらいお金かかるんだろう……。




 神妙な面持ちで家に帰ると、すでに小学校から戻った倫が「宿題でわからないところがあるから教えて欲しい」と言う。

 夕食の準備だけ済ませて、祖父の横で算数のノートを広げている倫の元へ行く。


「ジイジは算数わからないんだって」


「はははっ、昔から計算は苦手でなぁ」


「で? どこがわからないの?」


 解き方を教えて、倫が計算するのを待ちながら、ふと部屋の隅に置かれた通学バッグに目を向ける。学校で渡された三者面談のプリントを取り出し、もういちど隅々まで読んだ。

 ――志望校……。それに三者面談。ママ仕事が忙しいんだよな……。


 プリントを手に考え込んでいたら、不意に祖父が話しかけてきた。


「サキはもうピアノやらんのか?」


 かつて、咲は音楽教室に通ってピアノを習っていた。家にも練習用のピアノがあったのだが――。

 父の急死。祖父も介護が必要になって、生活費のためにピアノは売ってしまった。

 その日から、やりたいことは全て諦めてきた。


「もうピアノないから……」


「そうか」


 祖父はそれきりなにも言わなかった。




 ある日の深夜、祖父がトイレのために起きたが、小さな段差につまづいて転んでしまった。物音に気付いた母がすぐに助け起こし、幸いなことに大事には至らずに済んだ。

 咲は母に提案する。


「ママ。ジイジが夜中に起きなくてもいいように、紙おむつしてもらったらどうかな?」


「それは考えているんだけど、ジイジが嫌がるのよ。動けるうちは自分でしたいんだって」


「じゃあ、トイレに行く時は付き添うしかないのかな。段差はどうにもならないから、廊下に手すりでもあればいいんだけどね」


「明日からママがジイジの傍で寝るわ」


「それなら私も手伝うよ。交代でやろう」


「そう? 助かるわ、サキ」


 母は家族のために必死で働いている。これ以上の負担はかけられない。




 この翌朝、咲は遅刻をした。


「それじゃあ、日直は三者面談のプリントを回収して」


「あっ、しまった……」


 遅刻をした上に、忘れものまで――。


「毎日ボーっとしすぎじゃね?」

 誰かの陰口に、くすくすと笑い声が聞こえる。


 いたたまれない様子の咲を見て、陸は手にしていたプリントをサッと机にしまい込むと、「僕も忘れました」と告げる。


「なにやってんだよリク」


 クラスの注目が陸へと移った。


「仕方ないな。明日は忘れずに持ってこいよ」


「はーい」


 陸のおかげでその場は収まった。




「リク!」


 休憩時間の廊下で、咲は陸に呼びかける。


「さっきはありがとう」


「なにが? 僕もプリント忘れてきただけだよ」


「そっか。でもありがとう」


「なんだよ、それ」


「ねぇ、志望校どこにしたの? リクは頭いいから、偏差値の高いところ受けるんでしょ?」


「K高校のこと? 受かるかどうかはわからない。サキはどこを受けるつもり?」


「私は……、家のことがあるから、まだ決めてない」


「おじいさんの具合は、どう?」


「うん。だいぶ足腰が弱くなってきているみたい」


「そうなんだ……」


 陸と咲の家は隣同士。陸も事情は知っている。

 頼ってくれるなら助けたいが、問題を抱えている家庭では、他人に迷惑をかけたくないという思いから、誰にも助けを求めずに家族間で解決しようとすることが多い。


「なぁサキ。困ったことがあるなら言えよ」


「大丈夫だよ」


 答えた咲の指先には、絆創膏がいくつも貼られていて、腕には火傷の痕もあった。





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