第23話 夫の見覚えのない顔

 佐藤くんは帰りが遅い。

 毎日残業で遅くまで仕事を頑張って、たまに職場の人達と飲んで終電で帰ってくる。最近は終電を逃してタクシーで帰ってくることもあるが、朝帰りになることはほとんどなく、羽目を外すといっても女性関係で間違いを犯すような人でないのは側にいた私が一番理解していた。

 モテない、というより彼は根本的には臆病で自信がない。女性を口説いて不倫をするような度胸がない。

 だからこそ、中村彩から突然のLINEが来た時に感じたのは懐かしさと、何かの勧誘かなと一抹の警戒ぐらいで。

 佐藤くんと再会していたなんて、これっぽっちも思わなかった。


 佐藤くんが高校時代に彩のことをずっと好きだったのは当然知っているし、なんなら付き合っていた時も結婚してからも当時の彩への思いやエピソードを聞いて恥ずかしそうにする彼をからかっていた。

 しかし、知らないところで短いとはいえ昔の彼女に出会っていたことを隠されるのは気分が良いものではない。

 どうせ一線を越えているとは思えないが、何か後ろめたいことでもないと秘密にはしないだろう。帰ってきたら問い詰めていじめてやりたい。

 そんなくだらないことで少しだけ嫉妬していたら、しばらく経ってから長文のLINEが届いた。

 目を疑った。

 要約すれば彩からは身の潔白を、佐藤くんからの誘いを断っている弁明を、大事にしたくないから私に状況の報告を自らしているのだという釈明をしている。

 生命保険の営業をしていた彩は、同僚の誘いで本当に偶然佐藤くんと再会したらしい。

 そこで仕事の愚痴などを話していたところ、佐藤くんは自身も数字を追う辛さをわかるからこそ、保険の商品を契約したらしい。

 酒に酔い、雰囲気に流され、昔を思い出し、火がついたのだろう。

 ホテルに誘われて、それをやんわりと断って今に至るというのが顛末らしい。


 真っ先に思った感想としては、どちらにもムカついた。

 もちろん、佐藤くんに対しての不信感と顔面を引っ叩いてやりたいという気持ちはある。

 だけど彩が無罪かというとそうではない。高校時代にあれだけ思われていたのであれば、隙を見せるんじゃねぇと怒鳴りつけてもやりたい。しっかり契約取ってから手のひら返すなよという思いもあるが、黙って抱かれていろとも言い切れず、言葉にしづらい悪感情だけが臍の辺りから頭の先まで満ち満ちた。

 つわりでも吐くことは無かったが、胃がムカついて気分が悪くなる。

 お腹の子は少しずつ大きくなっている。

 もちろん、それぐらいで別れを切り出すつもりはないが説教をしておしまい、なんて納得がいかない。

 怒りが顔を紅く染めているのがわかる。憎しみが身体中を巡り、お腹の子に注がれる気がした。

 なんて理不尽だ。

 今の私は怒ることも、憎むことも、悲しむことも後ろめたいなんて。

 お腹の子に悪いから、なんて言い始めたら私の心はノーガードで殴られ放題じゃないか。

 母親というのはそこまで求められるのか。子供を守る為に自分の心を擦り減らさなければいけないのか。

 まして、それが父親で、それに加えて他所の女もいて。

 まだまだ終わりの見えない妊娠、出産という不安の道を、一人暗がりで歩いていかなければならない気持ちになり、悲しくもあり惨めにもなり、涙が溢れてしまう。

 情緒が安定しない女にはなりたくなかった。ヒステリックに騒ぎ立てる馬鹿など一番毛嫌いしていたのに。

 自分が嫌な存在になっていることを、自分が一番理解してしまう。

 何食わぬ顔で佐藤くんを迎えれば良い妻なのか。

 一時の感情に任せて言いたいことを言って我慢をしないのが良い関係なのか。

 そんなものどちらでもいい。

 ただ、大人しく安寧が欲しい。

 つわりで止まらない生唾と、こみ上げてくるゲップなんていくらでも我慢してやるから。

 頼むから私の感情に波を立てないでくれ。

 佐藤くんにも彩にも自分自身にも目を向けず、フワフワのモコモコに癒しを求めた。


「ミッシェル、君はいつも柔らかいね」


 くりくりとした青い目が、私の顔をジッと見つめている。

 ミッシェルの目に私はどう見えているのだろう。

 猫は人間のことを大きい猫と思っているらしい。

 母猫に見えているのか、ボス猫に見えているのか。

 猫は感情が顔にほとんど出ないから私のこのぐしゃぐしゃになった顔の違いに気づかないかもしれない。その方が良いな。例えミッシェルであってもこんな顔は見せられない。

 感情を爆発させた鬼の形相か、結果的に許している仏の顔か。

 玄関のドアがガチャリと音を立てた。

 私の心情など察するわけもなくミッシェルは昨日と同じように帰宅した同居人を迎えにドタドタと床を叩く。

 心臓が高鳴る。

 どんなテンションで出迎えてやろうか、何も決まっていない。

 呑気にミッシェルに話しかけている声が、何もバレていないという穏やかな心境を映し出す。

 ああ、きっと今の私の顔は……。


「……どう? 私ひどい顔してる? 見たことない顔してるんじゃない?」


 相対した佐藤くんの顔が、見た事のない表情になる。

 動揺が、絶望が、手足を不細工に動かしているかのように。

 彩のことを追求されたとしても、こんなに取り乱すだろうか。

 浮気がバレたら言い訳をしたり、逆ギレするかもしれないが、それとは少し違う。

 幽霊や化け物を見た、とでも言うような挙動。

 信じていたものに騙された、とでも言う彼の顔こそ、私が見た事のない佐藤翔太の顔をしていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妻の顔に見覚えがない アミノ酸 @aminosan26

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ