50:本稿を読み終えた方への警告(1)
本稿を読み進めてきた諸兄の中には、しかしまだいくつかの疑問を抱いている方がおられると思う。
私は本稿冒頭で「公には報じられていない『泥の死』事件の真相を、世間一般に周知できないだろうかと考えた」と、執筆の動機を述べている。
これはまさしく、私の
だが一方では、なぜ自らの立場を悪くしてまで、真実を語ろうとしたのかという点に関し、首を
前項でも記した通り、私は今後社会的に危うい状況に追い込まれる可能性がある。
それと悟っていたために私自身、事件後の一、二年間は真相を公の場で話すことが恐ろしく、今日まで沈黙していた点も否定しない。同時に「仮に事実を公表したところで、誰が信用するというのか、私が虚言家の
にもかかわらず本稿を公開したのは、冒頭で言及した通り「事件の根底にある真実に関して、よくよく思いを
そのように決意して以後、さらに私はこれまで二年近く費やし(すでに触れた通り人間関係も
しかし身近な人たちには迷惑が掛からないよう、可能な限り努力したつもりだ……。
とにかく、これは私の実体験を踏まえ、使命感から発せられた警告なのである。
さて、
たしかに私もその点は否定できないし、誰もが容易に紫之嶋叡心のような司霊者を頼ることもできまい。
しかし仮に怪異の出現には一定の法則があるとしたら、どうだろう?
実は藍ヶ崎で過ごした日々の終わり頃、私は残る複数の謎に関して、ひとまとめに解き明かす真相を知った。
それまでに解明されていなかった事柄というのは、まず「石塚先生が最期に言い残した『泥の死』という言葉は何だったのか」であり、次いで「なぜ怪異はカタツムリの姿で顕現したのか」である。
これらの謎の真実は、そのまま「怪異は誰をどのような理由によって襲うのか」という疑問の答えにつながっている。この点を把握できたなら、あるいは貴方が危険な怪異と遭遇する機会を減ずることが可能かもしれない。
尚、私に解答を授けたのは、やはり司霊者の紫之嶋叡心だ。
警察の事情聴取から解放され、藍ヶ崎市を去ることになる直前、もう一度だけ対話する機会があった。
他言無用を条件として、七峰社長から「紫之嶋は藍ヶ崎で時折、霊能力者が出入りする特殊な飲食店に顔を出す日がある」という情報を、聞き出すことができたからだ。その店はどうやら、アンダーグラウンドな社会でもごく一部の人々にしか知られておらず、取り分け警察などの公的機関には秘匿された場所らしい。
そこで
すると驚くべきことだが、紫之嶋と本当に接触することができたのだ。
私は、内心幸運を喜びつつ、前出の謎について問い掛けた。
それを最後に再び顔を合わせたことはないが、このとき紫之嶋は私の問いに対して、ひと通り見解を述べた。紫之嶋は打算的で、ときに酷く薄情だが、
「おそらく『泥の死』というのは、私見だがやはり聞き間違いだったのだろうと思う」
紫之嶋は、淡々とした口調で言った。
「
つまり、「だいろ神」か「デエロー神」かは判然としないが、石塚先生は巨大なカタツムリの怪異と遭遇し、
というのが、紫之嶋の主張らしかった。
なるほど「だいろ(でえろー)しん」と「どろのし(泥の死)」は、語句の読みが似ていなくもない。
また民俗学者の石塚先生ならば、ローカルなカタツムリ信仰についても知識があっただろう。
そう言えば村瀬さんが怪異の
ただし紫之嶋は、あの危険なカタツムリの怪異について、人間を
だいろ(デエロー)神は、カタツムリが純粋な信仰対象とされたもので、今回の怪異のような
「それよりも偽物にしろ、自ら『だいろ神』の名を騙る怪異が藍ヶ崎に存在すること自体に注目すべきだろう。カタツムリをだいろと呼ぶのは本来、新潟の方言なのだ。しかも地域によってはナメクジのことも意味する。この土地には僅かながら、そういう言語文化が他にも確認できる」
紫之嶋は注文したグラスの酒を、カウンター席で
「例えば俺が把握する限り二点、名称が新潟弁から変化して現代に伝わっている事物があるように思う。ひとつは『捌芽祭り』で、もうひとつは『雨泣き岩』だ」
捌芽祭りは収穫祭なので、「はつめ」という読みに「芽を
また一方の雨泣き岩の「雨が泣く」という部分に関しても、曽我さんから以前に教わった故事とは別の
「ところで俺は『雨泣き岩』がその名で呼ばれるようになるより昔、怪異を山中に封じる役目を持っていたのではないかと考えている」
紫之嶋は、尚も酒を啜りつつ続ける。
「いや、あのカタツムリの場合だと、あくまで本体は異界に存在しているから、雨泣き岩で封印されていたのは怪異の遊離体の方だと思うが。いずれにしろ、栃木県の
もっとも落雷で破損して以後、雨泣き岩は封印石としての霊力が減退してしまった。
そこで実施されるようになったのが「捌芽祭り」だ。あの神事は本来単なる収穫祭ではなく、
そうして、雨柳神社も封印石を祀るために建立されたものであり、そこへいっそう多くの神力を注ぐ必要性から、祭りの期間は取り分け大柿谷の加護が薄れてしまうのではないか――
と、紫之嶋は自らの見立てを説明してみせた。
それで怪異調伏の際にも、紫之嶋は雨泣き岩に有用な霊験が(たとえ破損しているとはいえ)宿っていることを看取し、呪術の行使に利用したわけである。
私は、紫之嶋の話に得心しつつも、ここで改めて問い質さずにいられなかった。
――雨泣き岩が封印していたもの、私を含む多くの人々を襲った怪異とは何だったのか?
紫之嶋は、手元のグラスの液面を見詰めながら答えた。
「あの怪異の正体は、人間の中の愚かしさだ」
思わず当惑し、私は隣の席から紫之嶋の顔を
だが表情に変化はなく、尚も目は
私は最初「人間の愚かしさ」という言葉を、ある種の比喩的な表現だろうかと考えた。
しかし続く話に耳を
「古くから西洋ではカタツムリを、怠惰なものの象徴と
これは実のところ、おそらく我が国でも大差ない。カタツムリには昔から、全国各地に『
――だから、怪異は愚かしさの具現として、カタツムリの姿形で生まれた。
私は、これまで思いも寄らなかった考察に接し、それを頭の中で
一方の紫之嶋は、さらに囃し言葉について、その言い回しの中にカタツムリのことを「打つ」「破る」「
それらがまさしく、カタツムリの怪異やその眷属が
そうして、敬意を払われていないと思い込み、対象を一方的に殺害していたのだろうか!
ちなみに雨泣き岩にまつわる「岩の上に乗れば霊験がある」という俗信は、「愚かな怪異を下に見る」ことに由来しているのではないか、と紫之嶋は考えているようだった。それによって、相対的に当事者が賢さや器用さを自覚する、という仮説を立てているらしい。
また雨泣き岩の由来には、「飴が溶ける」という意味の中に「もたもたしていたから溶けた」というニュアンスも含まれているかもしれないと主張する。それを愚かしさゆえの愚鈍さと結び付けているのではないか、と見立てているのだ。
「……俺が怪異を調伏したとき、ミテグラに蛇の抜け殻を仕込んだことは覚えているか」
紫之嶋は、グラスの縁に口を付け、再び酒を啜ってから言った。
「本来ミテグラには、米粒を詰める。それを
重ねて紫之嶋が言及したのは、西洋だと蛇は知恵の象徴だということだ。おそらくは旧約聖書で、アダムとイヴに知恵の実を勧めたエピソードから来る連想なのだろう。
また日本でも、蛇は邪悪である以上に、神聖なものとして扱われる場面が少なくないという。
「あのカタツムリはおそらく、己の中に蛇を住まわせている人間を、夢と
夢の中にしろ現実世界にしろ、怪異に遭遇した人間とそうでない人間の差異は、そこにある。
紫之嶋は「泥の死」事件の根幹に関わる問題の真相について、そのように結論付けて言った。
「あの恐るべき怪異が抱えていたものは、きっと知性への憎悪なのだ」
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