45:一〇月五日(土)/大柿谷/調伏
背後の今来た林道の側から、何者かの近付く気配が感じられた。
私は、路上に
そこに立つ人物を見て、あっと声を上げずにいられなかった。
ぼさぼさの頭髪で、顔に無精髭を生やした男性だ。
松井さんだ。崖から転落したあと、ここまで
ただし全身が泥と血で汚れ、あちこちに枯葉の切れ端が付着していた。
何より目を引いたのは、手足や頭部の状態だ。
林道を走っていたときから、すでに奇妙な動作が見て取れたが、いまや奇態は驚くべき様相を呈していた。両手両足はいずれも関節と無関係な箇所で折れていて、頭部は首の付け根から片側に
歩行の姿勢もぎこちなく、足を一歩踏み出す都度、上半身が不安定に揺れていた。
不気味な
「アッ、アア浅葉クン。打ツカ、破ルカ」
松井さんは、頭部を斜めに傾けたままで言った。
喉の発声する器官が不調なのか、やや甲高い調子の声音だった。
ひゅうひゅう……と、呼気の
「ヤヤヤ破ルカ、
松井さんは、私が座り込んでいる場所まで、あと七、八メートルという距離に接近してきた。
そこで立ち止まったかと思うと、身体を
それを
にわかに松井さんは大きく口を開き、真っ直ぐに舌を突き出した。
その舌は、みるみるうちに太くなり、かつ長くなって、
着用していた被服は、胸元から裂け、生地の下に
そのまま松井さんが前屈みになると、背中に黒い
手足はあべこべに縮んでいき、胴体とひとつに
そうして、あらゆる部位が大きく、醜く、おぞましい姿になっていく……。
ほどなく目の前には、かつて松井さんだった肉塊が、巨大なカタツムリの化け物となって顕現していた。四つの突起のうちでも長い二本の先端には、あの奇怪な眼球が付いていて、こちらをじっと凝視していた。
――きっと松井さんは崖から転落したとき、とっくに死んでいたのだ。しかしこれまで霊的な存在として夢と
私は間近に怪異の姿を見て、直感的にそう理解した。
それはたぶん、すでに鬼門が開いたことを意味する。
無論できることなら、私はここから逃げ出したくて
しかし村瀬さんに脚部を捕らえられ、意のままに移動することはおろか、立ち上がることさえできなかった。またそれを差し引いても、怪我の痛みと
実体化した巨大カタツムリの怪異は、そこへゆっくりと近付いてきた。自然と脳裏には、怪異の頭部に身体を
怪異は、眼球が付いた突起を
「打つか、破るか?
悪夢の中と同じようにして、威圧的に語り掛けてきた。
「それとも
化け物の眼球が私をじっと見据えて、殺意をはらんだ眼差しを向けてきた。
それから頭部を
桂田刑事のように殴打されれば、衝撃で到底意識を保ち続けることはできそうになかった。
そこへ上から
私は、深い絶望に囚われ、
……と、まさにそのとき。
「よく粘って、ここまでたどり着いたな浅葉」
聞き知った声音が、施設の玄関側から聞こえてきた。
そちらを振り返ってみると、いつの間にか
司霊者の紫之嶋叡心だった。
「おかげで準備は万端、すべて整った」
紫之嶋は、きっぱりと言い放ち、ボトムスのポケットからスキットルを取り出した。
飲み口の
チタン製の特殊加工された携帯飲料容器は、緩い放物線を描き、標的に命中した。
巨大なカタツムリは次の瞬間、苦悶の余り絶叫した。
スキットルの中身を浴びたせいだった。紫之嶋が
紫之嶋はかねてより、カタツムリの怪異が
それを今回は怪異に直接振り掛け、相手の
紫之嶋は、次いで私の
視線の先では、村瀬さんが
「この手は我が手にあらず」
紫之嶋は、朗々と呪言を唱えながら、右の手のひらを胸の前でかまえた。
五指を真っ直ぐ伸ばしてから、人差し指の第一関節だけを直角に曲げた。
「
詠唱を終えた途端、村瀬さんの身体がびくんと
ちいさく
そのままうつ伏せに倒れ込み、ぐったりと脱力して動かなくなった。
紫之嶋は、それを確認してから脇をすり抜け、巨大カタツムリの正面に立った。
左右の足を肩幅の広さに開くと、両手の指は胸の前で複雑に組み合わせた。
「早く後ろに下がれ浅葉。調伏儀礼で発現する、場のちからに巻き込まれるぞ」
指示されるまでもなく、私は必死で怪異と間合いを取ろうとした。
ひととき負傷の痛みも忘れ、夢中で施設の建物側へ退避した。
ほとんどそれと同時のタイミングで、紫之嶋は呪詞を唱えはじめた。
「天方九億九万九九九九宮社の山ノ神天大神の内、四之嶋の眷属、
紫之嶋が言葉を
神酒を浴びてのたうつ怪異を中心として、周囲の空間が
さらにはその内側で次々と、透明な球形の「
それは泡のように増殖し、たちまちカタツムリの
怪異はいっそう苦しげに
仄白い空間の中では自由が利かないのか、限られた挙動しか取れていないように見えた。
紫之嶋は、尚も長々と呪詞を詠唱してから、最後にひと際語調を強め、声高に叫んだ。
「――
直後に怪異の周囲で、
目の前に展開された光景には、無数の空間的な
そうして、それらの狭間の奥から、いくつも黒い影のようなものが飛び出してきた。黒い影の形状は、誰とも知れぬ人の顔や両手、獣の頭部、刀剣類の刃などを、それぞれ
それら
カタツムリの化け物は、頭の中を揺さぶるような、声なき絶叫を発した。
膨大な数の影が漆黒の矢と化して、怪異に
巨体は
「紫之嶋に伝わる悪鬼調伏の法文を、俺が読み分け、行使した」
紫之嶋は、黒い影に怪異の
「山の神に連なる数多の神霊を式として従え、使役する呪術だ」
その言葉の意味を、ほとんど私は理解できなかった。
だがひとつだけ、「式」というのが式神、または式王子と呼ばれるもののことだろう、という点については察しが付いた。そこから推測すると、紫之嶋が唱えた呪詞というのは、彼が無数の神霊を式神として自らの支配下に置き、対象を調伏させるためのものだったのではなかろうか。
私の想像が正しければ、それはたぶん民間陰陽道の高度な秘術のはずだった。
しばらくすると、目の前の仄白い空間は煌めきが弱まり、黒い影も消え失せていた。
透明な球形の歪みも収束したらしく、ただそこには保養施設の前庭が広がっていた。
巨大なカタツムリの化け物もまた、影もかたちも見当たらなくなっていたが――
代わりに路上には、
私は、反射的にそちらから目を逸らし、
その場に残された肉塊の類は、たぶん松井さんの遺体だったのだろう。
紫之嶋に怪異が調伏されて、消滅したあと、よりましとなっていた肉体だけが取り残されたに違いなかった。無論これでは
いずれにしろ、怪異を調伏するための長い夜は、かくして一応の決着を迎えた。
このあとも一連の事件に関わる騒動は、収束まで相当な時間を要するのだが――……
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