44:一〇月五日(土)/大柿谷/幻惑
やがて
晴れ渡った夜空は、尚も変わらずそこにあり、砂金を
私は、身体をアスファルトの路面から起こし、立ち上がろうとした。
怪我の強い痛みが走り、
それでも己の中の生存に対する欲求を総動員して、
ただそれだけのことで馬鹿馬鹿しいほど疲労を感じ、大きく呼気を
改めて全身の状態をたしかめてみたが、骨折までしている箇所はないようだった。
あれだけの出来事があって、いくら程度が酷いと言っても、
今一度付近の様子を
その脇に設置されたガードレールの向こう側には、深くて暗い断崖があるはずだった。
しかし今更、底を
私は、路上に落ちていたボディーバッグを拾い、背負い直した。
どうやら状況から類推すると、私が意識を失っているあいだにも、付近を第三者が通り掛かるようなことはなかったようだった。校外ということもあってか、ここは深夜帯だとかなり
とにかく私は、痛む足を引き摺りながらも、燦藍ヴィレッジを目指すことにした。
まだ長い夜は終わっておらず、多くの人を死に至らしめた怪異が駆逐されたわけでもない。
あのカタツムリの化け物を
林道を歩きながら、私はスマートフォンを取り出した。
ところが有機LEDの画面はひび割れて、電源も入らなかった。自転車から飛び降り、路面に身体を叩き付けた際、衝撃で破損してしまったようだった。
皆月か紫之嶋に連絡を取ろうと思ったのだが、これでは通話したりメッセージを送ったりすることはおろか、現在時刻を確認することすらままならない。
それとわかってすぐ、私は今が何時で、いったいどれぐらいの時間気絶していたのだろう、と考えはじめた。
ガソリンスタンドの付近を通り掛かったとき、たしか電光掲示板で見た時刻は午後一〇時半頃だった。あのあと林道を進み、自転車が松井さんと共に崖下へ転落するまでのあいだで、三〇分以上は経過していた。その時点でおそらく、午後一一時は確実に回っていた。
それから気絶していた時間と、手足の怪我を
――鬼門が開くのは、午前一時だ。きっともう、あまり時間に余裕はないだろう。
とはいえ、どうしても意のままに歩くことはかなわず、さらに疲労も増していた。
上り下りの緩い傾斜が続く道も、傷だらけの身体で歩くには負担が大きかった。
ここまでは死の危機を免れることができたものの、依然として状況は厳しかった。
――それでも我ながら、よく生き永らえているものだ。
私は、
だがすぐに思い直し、今生きていることには、それなりの要因があるのではないかと考えた。
――例えば、もしかすると私は
田の神の加護については、たしかあの紫之嶋も「鬼門が開くまではそれなりの霊験がある」と言っていた。それに鬼門が開く頃に怪異が十全なちからを取り戻すということは、裏を返すならそれまでは本来の能力を発揮できないということも意味するはずだった。
あくまで勝手な憶測に過ぎないが、我ながら的外れな推論とも思えなかった。
さらに考えてみれば、怪異はこの日の夜、私の前に姿を出現することはあっても、押尾や桂田刑事、佐々岡さんらを殺害したときのようにして、直接攻撃を仕掛けてきた試しがなかった。
乗用車と衝突しそうになった際は、単に路上で
先程意識を失っていたあいだも、何ら攻撃してこなかったのはそのせいではないか……。
事実はどうかわからなかったのだが、私は後年もこのときの考えを捨てていない。
だらだらと続く林道を、ひたすらに歩き続けた。
自転車を乗り捨てたせいで、ヘッドライトの灯りがなくなってからというもの、周囲は
そうして、
時間経過の感覚も
いくつもの直方体を重ねて造形したような、近代的な建物だ。幾分か小高くなった丘があり、その上に輪郭が浮かんでいた。夜闇に包まれ、うっすら月光に照らされているだけでも、立派な外観が把握できた。
ようやく、目的地の「燦藍ヴィレッジ」にたどり着いたのだった。
私は、自らを激励するようにもう一度、ゆっくりと深呼吸した。
それからまた、負傷した足を引き摺り、建物に向かって前進した。
あの建築物の中で、紫之嶋が私の到着を待っているはずなのだ。
傾斜路をさらに進むと、行く手の左右を
付近はそれに伴って、草原を主とする、いかにも丘の上らしい景観に変化していった。
いま少し先の土地には、整備された駐車場と、よく手入れされた前庭が見て取れた。
もう明らかに一帯は、燦藍ヴィレッジの敷地だった。
私は最早、一秒でも早く自分の役割を済ませ、苦しみから解放されたい一心で歩いた。
とうとう駐車場の脇を横切り、前庭を縦断して、保養施設の正面玄関前まで歩み寄った。
ところが、そこに思いも寄らないものを見た。
七分袖のブラウスや膝丈のスカートを着用した姿は、よく見知っていた。
村瀬美緒さんだ。
染織工房の従業員で、亡くなった押尾聡の元恋人。
私は、なぜ彼女がこの場所にいるのかがわからず、驚き戸惑わずにいられなかった。
思わず歩みを止め、
「――聡くんは亡くなる前、浅葉さんのことを何度かあたしに話してくれることがありました」
村瀬さんは、不意に
すぐに目の前まで来て、幾分
私は混乱し、疲労も
「あたしなんかが聡くんの代わりにはなれないですけど、彼の望みを果たすためにも何かしら、浅葉さんのお手伝いがしたかった……」
囁くように続けながら、村瀬さんはそっと私の手を取った。
かすかに瞳が潤んで、何かを訴えるような光彩を
薄い口唇の隙間からは、
次いで左右の瞳が突然、白目を
「あああ浅葉さんが、う、打たず、破らず、呪われずに済むようになる、おっおお手伝いを!」
しまった、と思ったときにはもう手遅れだった。
村瀬さんの右手がいきなり、私の左手首を強く
途端にそこから激痛が走って、私は堪らず、今夜何度目かの叫び声を上げた。
まさしく万力のような
村瀬さんが嫌らしく微笑み、口の端から唾液を垂らした。
「おっ、おおお手伝い! お手伝いしたいしますあさあさ浅葉さんあああ浅葉さんが打たず破らず抓めらず打ち打ち打ち割らずに済む済め済めばもう呪い呪われ呪詛されませんからからからああわかわかりますああたしじゃ聡聡くんの代わりにはなれなれなれないですけど打つ打たず破る破らず抓める抓めらず打ち打ち打ち割らず打ち割るなとと浅葉さんもわかりますともかみかみかみさまだいろのかみですおおおおてつだあさばばばおうおうおおおおおお」
――ああ、やられた。やはり村瀬さんも、怪異の
村瀬さんに掴まれた手の一味に耐えながら、私は自分の心の
施設の玄関前まで来た直後、そこに
意表を
ただいずれにしろ、このまま身動きを封じられているわけにはいかなかった。
私は、渾身のちからを込めて、村瀬さんの拘束から懸命に逃れようとした。
半ば取っ組み合いじみた体勢になりつつ、しかしどうにか手を振り解いたものの、反動で数歩よろめいた。次いでバランスを保つことができなくなり、路面に
同時に眷属化した村瀬さんも、あとを追うように倒れ込んできて、私の足を両手で捕まえた。
それが負傷した箇所を殊更刺激した上、またも束縛となり、こちらの自由を奪ってしまった。
そうして私は再度、村瀬さんの
……しかし戦慄すべきことながら、そこへより深刻な脅威が襲い掛かってこようとしていた。
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