44:一〇月五日(土)/大柿谷/幻惑

 やがて四肢ししが現実感を取り戻し、私は静かに瞳を開いた。

 晴れ渡った夜空は、尚も変わらずそこにあり、砂金をいたような星がきらめいていた。近年は残暑が長引くとよく聞くが、それでも一〇月上旬の夜更けとなれば、そよぐ風も肌寒かった。


 私は、身体をアスファルトの路面から起こし、立ち上がろうとした。

 怪我の強い痛みが走り、気怠けだるさが不可視の重りとなって、手足の動作を邪魔じゃましてくる。

 それでも己の中の生存に対する欲求を総動員して、きしむ身体をどうにか直立させた。

 ただそれだけのことで馬鹿馬鹿しいほど疲労を感じ、大きく呼気をき出した。


 改めて全身の状態をたしかめてみたが、骨折までしている箇所はないようだった。

 あれだけの出来事があって、いくら程度が酷いと言っても、打撲だぼく捻挫ねんざ擦過傷さっかしょうの範囲で負傷が済んだのは、ほとんど奇跡かもしれない。さりとて自らの境遇を、何某なにがしかの神に感謝する気にもなれなかったが。


 今一度付近の様子をあらためると、下り坂が大きくカーブした市道の光景が見て取れた。

 その脇に設置されたガードレールの向こう側には、深くて暗い断崖があるはずだった。

 しかし今更、底をのぞき込んでみようとも思えなかった。おそらく転落した自転車と松井さんが、折り重なって横たわっているのかもしれなかったが、夜の闇に隠れて見えそうになかった。よしんば見えたとしても、正視に耐えない無残な有様であろうことは、容易に想像が付いた。



 私は、路上に落ちていたボディーバッグを拾い、背負い直した。

 どうやら状況から類推すると、私が意識を失っているあいだにも、付近を第三者が通り掛かるようなことはなかったようだった。校外ということもあってか、ここは深夜帯だとかなりさびしい林道らしかった。


 とにかく私は、痛む足を引き摺りながらも、燦藍ヴィレッジを目指すことにした。

 まだ長い夜は終わっておらず、多くの人を死に至らしめた怪異が駆逐されたわけでもない。

 あのカタツムリの化け物を調伏ちょうぶくするには、何としてでも紫之嶋のところまでたどり着かねばならないのだった。


 林道を歩きながら、私はスマートフォンを取り出した。

 ところが有機LEDの画面はひび割れて、電源も入らなかった。自転車から飛び降り、路面に身体を叩き付けた際、衝撃で破損してしまったようだった。

 皆月か紫之嶋に連絡を取ろうと思ったのだが、これでは通話したりメッセージを送ったりすることはおろか、現在時刻を確認することすらままならない。


 それとわかってすぐ、私は今が何時で、いったいどれぐらいの時間気絶していたのだろう、と考えはじめた。

 ガソリンスタンドの付近を通り掛かったとき、たしか電光掲示板で見た時刻は午後一〇時半頃だった。あのあと林道を進み、自転車が松井さんと共に崖下へ転落するまでのあいだで、三〇分以上は経過していた。その時点でおそらく、午後一一時は確実に回っていた。

 それから気絶していた時間と、手足の怪我をかばいながら身形みなりを整えていた時間を合わせれば、あるいはもう午前零時に近いのかもしれなかった。もしかしたら、すでに日付が変わっていたとしても、おかしくなさそうに思えた。


 ――鬼門が開くのは、午前一時だ。きっともう、あまり時間に余裕はないだろう。


 焦燥感しょうそうかんに駆られつつ、負傷した足を懸命に前へ運んだ。

 とはいえ、どうしても意のままに歩くことはかなわず、さらに疲労も増していた。

 上り下りの緩い傾斜が続く道も、傷だらけの身体で歩くには負担が大きかった。

 ここまでは死の危機を免れることができたものの、依然として状況は厳しかった。



 ――それでも我ながら、よく生き永らえているものだ。


 私は、おとりを務める過酷さに辟易する一方、己のしぶとさを自賛したくなっていた。


 だがすぐに思い直し、今生きていることには、それなりの要因があるのではないかと考えた。


 ――例えば、もしかすると私は一升餅いっしょうもちの祝福で、いまだ庇護されているのではなかろうか。


 田の神の加護については、たしかあの紫之嶋も「鬼門が開くまではそれなりの霊験がある」と言っていた。それに鬼門が開く頃に怪異が十全なちからを取り戻すということは、裏を返すならそれまでは本来の能力を発揮できないということも意味するはずだった。


 あくまで勝手な憶測に過ぎないが、我ながら的外れな推論とも思えなかった。

 さらに考えてみれば、怪異はこの日の夜、私の前に姿を出現することはあっても、押尾や桂田刑事、佐々岡さんらを殺害したときのようにして、直接攻撃を仕掛けてきた試しがなかった。

 乗用車と衝突しそうになった際は、単に路上でたたずんでいただけだ。その他の場面でも、眷属けんぞくと化した人々に私を襲撃させて、自らは場に現れないか、居合わせても傍観しているだけだった。

 先程意識を失っていたあいだも、何ら攻撃してこなかったのはそのせいではないか……。


 事実はどうかわからなかったのだが、私は後年もこのときの考えを捨てていない。



 だらだらと続く林道を、ひたすらに歩き続けた。

 自転車を乗り捨てたせいで、ヘッドライトの灯りがなくなってからというもの、周囲は殊更ことさらに薄暗かった。照明灯も、道路沿いに設置された数はまばらだ。静けさがいっそう印象付けられた。


 そうして、随分ずいぶんと林道を奥へ踏み入ったように思う。

 時間経過の感覚も猶更なおさら曖昧あいまいになってきた頃、前方に大きな建造物の輪郭が見えた。

 いくつもの直方体を重ねて造形したような、近代的な建物だ。幾分か小高くなった丘があり、その上に輪郭が浮かんでいた。夜闇に包まれ、うっすら月光に照らされているだけでも、立派な外観が把握できた。

 ようやく、目的地の「燦藍ヴィレッジ」にたどり着いたのだった。



 私は、自らを激励するようにもう一度、ゆっくりと深呼吸した。

 それからまた、負傷した足を引き摺り、建物に向かって前進した。

 あの建築物の中で、紫之嶋が私の到着を待っているはずなのだ。


 傾斜路をさらに進むと、行く手の左右をはさむ樹林が、次第に開けてきた。

 付近はそれに伴って、草原を主とする、いかにも丘の上らしい景観に変化していった。

 いま少し先の土地には、整備された駐車場と、よく手入れされた前庭が見て取れた。

 もう明らかに一帯は、燦藍ヴィレッジの敷地だった。


 私は最早、一秒でも早く自分の役割を済ませ、苦しみから解放されたい一心で歩いた。

 とうとう駐車場の脇を横切り、前庭を縦断して、保養施設の正面玄関前まで歩み寄った。



 ところが、そこに思いも寄らないものを見た。

 つややかな黒髪を肩の上で切りそろえた、小柄な女性が佇立ちょりつしていたのだ。

 七分袖のブラウスや膝丈のスカートを着用した姿は、よく見知っていた。


 村瀬美緒さんだ。

 染織工房の従業員で、亡くなった押尾聡の元恋人。

 私は、なぜ彼女がこの場所にいるのかがわからず、驚き戸惑わずにいられなかった。

 思わず歩みを止め、愕然がくぜんとしていると、おもむろに村瀬さんがこちらへ近付いてきた。



「――聡くんは亡くなる前、浅葉さんのことを何度かあたしに話してくれることがありました」


 村瀬さんは、不意にはかなげな口調で、なつかしそうに語り掛けてきた。

 すぐに目の前まで来て、幾分上目遣うわめづかいに私の顔をのぞき込んだ。


 私は混乱し、疲労も相俟あいまって、頭の中にもやが掛かるような感覚に囚われた。


「あたしなんかが聡くんの代わりにはなれないですけど、彼の望みを果たすためにも何かしら、浅葉さんのお手伝いがしたかった……」


 囁くように続けながら、村瀬さんはそっと私の手を取った。

 かすかに瞳が潤んで、何かを訴えるような光彩をたたえていた。

 薄い口唇の隙間からは、湿しめって熱っぽい呼気をき出し――


 次いで左右の瞳が突然、白目をいた。



「あああ浅葉さんが、う、打たず、破らず、呪われずに済むようになる、おっおお手伝いを!」



 しまった、と思ったときにはもう手遅れだった。


 村瀬さんの右手がいきなり、私の左手首を強くつかんだ。

 途端にそこから激痛が走って、私は堪らず、今夜何度目かの叫び声を上げた。

 まさしく万力のようなめ付けで、およそ女性の握力で可能なそれではなかった。

 村瀬さんが嫌らしく微笑み、口の端から唾液を垂らした。


「おっ、おおお手伝い! お手伝いしたいしますあさあさ浅葉さんあああ浅葉さんが打たず破らず抓めらず打ち打ち打ち割らずに済む済め済めばもう呪い呪われ呪詛されませんからからからああわかわかりますああたしじゃ聡聡くんの代わりにはなれなれなれないですけど打つ打たず破る破らず抓める抓めらず打ち打ち打ち割らず打ち割るなとと浅葉さんもわかりますともかみかみかみさまだいろのかみですおおおおてつだあさばばばおうおうおおおおおお」



 ――ああ、やられた。やはり村瀬さんも、怪異の眷属けんぞくと化していたのだ。


 村瀬さんに掴まれた手の一味に耐えながら、私は自分の心のわずかな隙をなげいた。

 施設の玄関前まで来た直後、そこにたたずむのが村瀬さんだと認識した時点で、おそらく何某かの特異なちからにより、正常な思考力を奪われていたのだと思う。

 意表をかれたと言えばそれまでだが、村瀬さんに対しては「以前に親切にしてくれた親友の元恋人」という印象が強く、そこに油断がなかったとは言い切れない。



 ただいずれにしろ、このまま身動きを封じられているわけにはいかなかった。

 私は、渾身のちからを込めて、村瀬さんの拘束から懸命に逃れようとした。

 半ば取っ組み合いじみた体勢になりつつ、しかしどうにか手を振り解いたものの、反動で数歩よろめいた。次いでバランスを保つことができなくなり、路面に臀部でんぶから倒れ込んだ。


 同時に眷属化した村瀬さんも、あとを追うように倒れ込んできて、私の足を両手で捕まえた。

 それが負傷した箇所を殊更刺激した上、またも束縛となり、こちらの自由を奪ってしまった。

 そうして私は再度、村瀬さんのいましめから逃れるため、必死に藻掻もがこうとした。



 ……しかし戦慄すべきことながら、そこへより深刻な脅威が襲い掛かってこようとしていた。

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