43:一〇月五日(土)/大柿谷/追撃

 栄八丁目の借家までたどり着くと、私は急いで納屋から自転車を引っ張り出した。

 ワイヤーロックを外し、ボディーバッグを背負い直してから、サドルの上にまたがる。

 付近へ注意を配りつつペダルを踏み込み、怪異やその眷属けんぞくから襲われる前に発進した。

 怪我した手足はいまだに痛みが引かないが、悠長に休んでいる暇はなかった。


 私は、懸命に自転車をぎ出し、大柿谷栄界隈から離れた。

 住宅街から団地周辺の一般道に抜け、それから大柿谷中央方面へ伸びる市道に入った。

 少し進んだ先にガソリンスタンドがあって、看板の真下には電光掲示板が設置されていた。

 燃料価格と共にデジタル時計の文字盤が表示されていて、時刻は午後一〇時半に近かった。

 想像していたより、商店街で随分ずいぶんと時間を費やしてしまったようだった。


 フロントライトが照らすアスファルトの上を、自転車はすべるように前進していく。

 工場が並ぶ地域を過ぎると、暗い道の左右に田畑が広がり、民家の数もまばらになった。

 同じ大柿谷中央でも公民館がある場所からは、いくらか遠ざかった区域に達していた。

 周囲に人気は感じられず、車の交通もない。暗い往来を行く影は、私一人だけだった。

 やがて徐々に道幅がせばまり、校外特有の林道になった。



 ……そうして自転車を漕ぎ続けているうち、また不快な空気がただよいはじめた。

 肌にまとわり付くような、ねっとりとした感覚。まぎれもなく怪異が出現する予兆だった。

 私は、自転車に乗ったまま警戒を強め、付近の様子に注意を払った。


 ――次は、いかなる危険が襲い掛かってこようとしているのだろうか。


 私は、あらゆる事物との遭遇に対処すべく、自らを落ち着かせようと努めた。

 乗用車で走行していたときのような、カタツムリが顕現しそうな様子は見て取れなかった。

 さりとて怪奇現象に特有の息苦しい雰囲気は、ますます強まりつつあるように感じられた。



 明確な異変に気付いたのは、さらに数分余りが経過したあとだった。


 走行中の自転車を追うようにして、後方から何かが接近してくる気配があった。

 暗がりの中で響き。聴覚に届く、路面を一定のリズムで叩き続けるような物音。

 私は、例によって背筋に悪寒を覚えつつ、今来た背後の道を振り返ってみた。


 さびしい林道の真ん中を、猛然と走り続けている人影があった。

 背格好からして男性で、作業着のような被服を着た人物だ。

 ぼさぼさの頭髪で、無精ひげを伸ばしており、年齢は三〇代後半と思しい。

 どことなく見覚えがある風采ふうさいのようだと考え、数秒はさんでから思い出した。


 人影の正体は、かつて倉庫の単発バイトで面識を得た、松井さんだった。


 あの松井さんが凄まじい勢いで走って、私の乗る自転車を深夜の郊外で追い掛けていた。

 一説によれば、自転車の平均時速は一五キロ前後で、成人男性が走ると最高時速で約一三キロだという。だから物理的に考えて、ある程度加速した自転車には、生身の人間が二本の足で追い付くことはできない。

 そのはずなのだが、自転車と松井さんを隔てる距離は、このとき見る間に縮みはじめていた。

 私は片足を負傷しているから、そのぶん自転車を漕ぐちからは落ちているものの、それを差し引いても松井さんの走力は常軌を逸していた。しかも一定以上の速度を、維持し続けているようだった。


 今一度自転車の上から後ろを振り向き夜闇に目を凝らして、松井さんの姿を観察した。

 松井さんは、走りながら白目をき、半開きの口元から唾液を垂らしていた。これまでに見た怪異の眷属と、面差しが酷似している。取りかれているとみて、間違いなかろう。


 だが何より目を引くのは、手足の動作だ。路上を駆ける様子が、かなり奇異に感じられた。

 左右の腕は、くねくねと軟体動物の足のようにうごめき、上体が前傾気味に進行方向へ突っ込んでいる。両足は非常に広い歩幅で路面をっているのだが、股関節から膝、さらに足首にかけて、しばしば各部をあり得ない角度に曲げ、全身を上下に激しく運動させていた。このような走り方で、なぜこれほどの推進力を生むことが可能なのか、完全に理解を超越していたし、純粋に挙措全体が不気味だった。


 私は、かつて押尾に教えてもらった「ターボババア」という現代怪異譚のことを、思い出さずにいられなかった。

 今背後で追い掛けてくる松井さんは、無論老婆ではないし、またここは高速道路でもないからターボババアほどの速度で移動しているわけではないが。



 いずれにしろ、迫り来る松井さんから逃れるべく、私は自転車を漕ぐ速度を上げた。

 松井さんは怪異の眷属と化している以上、追い付かれれば死の危機につながる。

 最早右足首の痛みを、かばっている場合ではなかった。


 ところがペダルを懸命に漕いでも、松井さんとの距離は、少しも広がらなかった。

 むしろさらに縮まり続けて、振り返らずとも気配を感じられるほど接近してしまう。

 かてて加えて前方の道が、まずいことにだんだん上りの傾斜を帯びはじめてきた。

 曽我さんから貸与されている自転車は、スポーツサイクルのたぐいではないから、坂道でもギアを変えるようなことができない。ペダルのひと漕ぎが重くなり、怪我した足首に負担だった。


 思うように加速がままならずにいると、またいっそう自転車に松井さんが近付いた。

 松井さんは、前傾姿勢で両手をくねらせながら、もうすぐ背後まで迫りつつあった。



「――やあ、若いね兄ちゃん」


 松井さんは走り続けながら、不意にこちらへ声を掛けてきた。

 酷くしわがれていて、聞き取りにくい声だが、聞き覚えのある言葉を発してきた。

 初めて倉庫の単発バイトで知り合った日のそれと、完全に同じ挨拶あいさつだった。


「こっ、ここの、ここのバイトはっ、ははは初めてかい?」


 やけに気安い口振りが、かえって今はあやしく、気味悪かった。

 言葉の内容も、過去と照らして、因果関係が破綻している。


 思わずひるんでいると、松井さんの腕がうねるような動きと共に、こちら側へ伸びてきた。

 自転車後部の荷台を、走りながらつかもうとしているのがわかった。捕まればどうなるだろうかと想像し、私はペダルを漕ぎつつも身震いせずにいられなかった。



 右手はハンドルを握ったまま、痛む左手を駆使し、ボディーバッグから霊符を取り出した。

 身体は自転車の上で前方に向けたまま、松井さんの腕を振り払うべく、それを思い切って背後へ突き出した。

 しかし姿勢が相手と正対していないせいで、上手く狙いが定まらず、霊符に触れてくれない。

 そうしているうちに怪我の痛みで手のちからが抜け、紙片が指を離れて飛んでいってしまう。


 私は鏡を見なくても、自分の顔が青白くなっていることに気付いていた。

 たった今手放した霊符は、紫之嶋から渡された最後の一枚だったのだ。


 そこへ再度、松井さんの手がうねりながら伸びてきた。

 私は自転車のハンドルを素早く片側へ切って、どうにかそれを避けた。

 さらに二度、三度と襲い掛かってくるが、同様の動きで辛うじてかわす。


 とはいえ小手先の回避も、長くは続かなかった。

 殊更ことさらに路面の傾斜はきつくなり、ペダルを漕ぐ右足首の痛みが増していた。息も苦しかった。

 対照的に松井さんが走る速度は、一向に落ちることなく、ますます間合いはせばまっていた。



「それで、それでそれで兄ちゃんが働きに来た事情――」


 松井さんは、いっそう自転車に接近すると、またもや支離滅裂な言葉をつむいだ。


「ふふふふうん、ふうん面倒面倒面倒くせえなあ面倒。兄ちゃん兄ちゃんにににに浅葉、くん。しっかりせいよ浅葉浅葉くん、しっかりしっかりぼうっと打つか仕事。ぼうっとぼうっとぼうっと破るか破るかしっかりせいよ仕事怪しいもんは怪しい見当たらん打つか抓めるか見当たらん。進まんからね打つか破るか打ち割るかかかかか」


 発話の最中、松井さんの口から奇妙なうめきがれた。

「ぐぶぶぶぶ……」という声音は、どうやら笑った際に生じたものらしかった。

 無茶苦茶な動作で駆け続けながら、口角がいびつに釣り上がっていた。


 この得体の知れない、怪異の眷属によって、ついに自分は殺されようとしている――

 私は、危機的な状況に追い詰められ、半ば怖気おぞけで心をむしばまれそうになっていた。



 事態が変転したのは、まさしくその直後だった。


 不意にペダルが軽くなり、痛む足で自転車を漕ぐのも同時に楽になった。

 路面は上りの傾斜が頂点に達し、一転して急な下り坂へ変化したのだ。

 私は、ここぞとばかりにペダルを踏み込み、自転車を一気に加速させた。

 怪異をどうにかするなら、今ここのタイミングしかない、と思った。


 一方で松井さんも、下り斜面に背を押されるようにして、ますます苛烈に追走してくる。

 そうして、右手をこちらへ目一杯に伸ばし、とうとう自転車の荷台をしっかりと掴んだ。



 だが私はこのとき、かまわずペダルを漕ぎ続けた。

 松井さんは自転車に引っ張られ、左右の足が一瞬もつれたように見えた。しかし身体の平衡バランスを崩しつつも、器用な手足の動きで転倒はまぬかれる。荷台を掴む手も離していなかった。

 そのままいっそう加速し、ついには自転車の隣に並びかけた。


 松井さんは、尚も走る歩幅を広げ、空いた左手をおもむろに振り上げた。

 自転車に乗る私の頭部へ、それをちからの限り振り下ろそうとする――


 その寸前、私はハンドルを離し、サドルから腰を上げた。

 横方向へ自ら飛んで、自転車を放棄し、下り坂の路面に倒れ込む。

 硬いアスファルトに叩き付けられ、取り分け上体の側面をしたたかに打ち付けた。

 激しい痛みにたまらず絶叫し、もだえながら、斜面の上を四、五メートルほど転がった。

 怪我の程度が余計に悪化して、到底すぐには立ち上がれそうにもなかった。

 ここへ松井さんが襲い掛かってきたら、抵抗の余地なく殺されてしまうだろう。


 しかしながら、幸いにしてそうはならなかった。

 なぜなら松井さんの姿は、すでに燦藍ヴィレッジへ続く市道の上にはなかったからだ。

 走行していた下り坂は、途中から急なカーブになっていたのだが、私の乗り捨てた自転車は、全速力で突入したために曲がり切ることができなかった。それどころか曲がり角のガードレールに接触したあと、勢い余ってそれを飛び越えてしまう。私が自転車から飛び降りたのは、衝突の瞬間とほぼ同時だった。

 そうして乗り手を欠いた自転車は、その先の崖から真下へ転落した。


 一方の松井さんも酷く加速していたせいで、自転車の荷台を掴んだままでは、急に立ち止まることができなかった。おまけに奇異な姿勢で走っていたから、足元がもつれてしまったようだ。

 自転車と同じように曲がり角へ突っ込み、ガードレールの上で前転するような体勢になった。そのまま鉄製の柵を頭から乗り越え、やはり崖下に吸い込まれた。

 落下の直後、ぐぶぶぶぶ……という声が尾を引くように聞こえたが、すぐ夜の闇に溶けた。



 私は路上で横になったまま、身体をひねって仰向あおむけになり、大きく呼気をき出した。

 視野には深い夜空が広がり、無数の星がちりばめられて、いずれもちいさく輝いていた。

 ところが幻想的な光景は、すぐさまかすんで、一時的に視覚でとらえられなくなった。

 全身の疲労と激痛が深刻で、最早意識を保ち続けることさえ困難だったせいだ。


 ほどなく私は、まぶたを開き続けることにも耐えられなくなって、すべてが暗闇で閉ざされるのを感じた。

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