42:一〇月五日(土)/大柿谷/群れ

 痛む足をわずかに引きって、事故現場から三〇分ほど歩き続けた。

 陽乃丘から大柿谷の区域へ入り、どうにか商店街の端までやって来た。

 ここまで来ると、路上を行き交う人も多くなり、いま少し先の通りからにぎわいを感じた。

 徐々に夜がけつつあるものの、大柿谷栄には尚も捌芽祭りの熱気が満ちていた。


 私は、汗と血、それに泥とほこりで汚れた額をぬぐって、栄八丁目を目指していた。

 曽我さんから借りている家までたどり着ければ、軒先に自転車が置いてある。

 栄八丁目から「燦藍ヴィレッジ」には、それを使って乗り付けるつもりだった。

 もちろん乗用車のような速度は出ないが、怪我した足でもペダルは何とかげそうだと感じていた。新しい車を調達するような当てがない以上、現状では徒歩よりもはるかにましな移動手段のはずだった。


 とにかく人目を忍ぶようにして、私は商店街の通りを黙々と進んだ。

 しかし歩けば歩くほど、周囲の人通りは増していく。五丁目で佐々岡酒店の前を通り掛かっても、通行人は最近ここで人死にがあったことなど、すでに執着していないように見えた。

 私は、他者との接触を極力避け、街路の端へ身を寄せつつ、借家までの先を急いだ。



 ……と、そのとき不意にまた、私は例の不気味な気配を感じた。

 ねっとりと肌にまとわり付いてくるような空気、背筋に伝わる悪寒。

 先程セダンの車内で、事故直前に察知したものと同じだ。


 ――また来るのか? どこからかあの怪異が……。


 私は、歩を進めつつ、周囲の様子にせわしなく目を配った。

 焦燥感しょうそうかんに駆られながらも、警戒心をいっそう強く持った。


 だが一見したところ、明らかな危険の兆候はうかがえなかった。

 商店街の通りには、相変わらず通行人が多く行き交い、誰しも快活な表情を浮かべていた。

 こうした光景を目の当たりにしていると、どうやら今ここで怪異の脅威を感じ取っているのは、自分一人だけらしいと考えざるを得なかった。それが余計に世界の中から切り離され、孤立させられているようで、恐ろしかった。商店街に祭りの夜に特有の陽気さがただようせいか、危機感との落差から、かえって心細さもいや増してしまう。



 そうして私は、またしても予期しないかたちで、次なる異変と出くわすことになった。


「――た、たしか浅葉くん、という名前だよね君」


 近辺に注意を払いつつ歩いていると、にわかに背後から呼び止められた。

 そちらをはたと振り返ってみれば、五〇代半ばぐらいの男性が立っていた。

 どこの誰か一瞬わからなかったが、面差しを二度見て、借家の近所に住む人物だと気付いた。フィールドワークをはじめたばかりの頃、お宅へご挨拶あいさつうかがったことがある。

 その後はほとんど没交渉だったはずだが、まさか急に声を掛けられるとは思わなかった。


 近所の男性は、目がうつろで、どことなく挙措がぎこちなかった。

 視線を何もない空間に彷徨さまよわせ、無機質な声で続けた。


「聞いている。聞いているよ曽我さんから。何とかいう勉強のために都内の大学から、大柿谷に来たんだって。それで、曽我さんが住む家を貸したりして、君のことを世話しているんだよね。聞いている」


 私はたじろぎ、反射的に身構えずにいられなかった。

 男性が発する言葉は、口調も内容もどこかおかしい。

 この男性と私は、たとえ一度切りにしろ過去に接点を持っている。にもかかわらず、私の名前を知っているとして声を掛けておきながら、まるで初対面かのような言い様なのだ。

 またそれを差し引いても、立ち居振る舞いが酷く奇妙な印象だった。


 当惑して返事に迷っていると、男性は殊更ことさらに不可解な言葉を続けた。


「浅葉くん浅葉くん浅葉くんきっききき聞いてるよ聞いてる聞いてる。何とか何何とかいうべべべ勉強のために曽我さんから聞いてる曽我曽我さんが貸し貸し貸したりしっししてしてして世話しているんだよね浅葉くん。聞いて聞いて聞いて打つな聞いて聞いている打つな。破るな曽我さん破るな貸し貸したり勉強のため抓めるな打ち割るな」


 早口でしゃべりながら、男性の双眸そうぼうがいきなり白目をいた。

 さらに口唇のあいだから舌が垂れ、あごを伝って唾液が落ちた。


 ――おそらく同じだ、佐々岡商店の前で怪異に遭遇したときと……。


 私は、佐々岡さんが亡くなった日、青年団の梶木さんが心神喪失におちいったことを思い出した。

 梶木さんはあれ以来入院したままだが、目の前の男性も当時のそれと状態が酷似していた。



 狂気を感じて後退あとじさりした直後、付近の街並みが視界に入ってきた。

 私は、思わず息をみ、本能的なふるえが手足に走るのを自覚した。


 ここから南側に位置する商店街の建物――

 昔ながらの青果店の前には、あの巨大なカタツムリの巨体が見て取れたのだ! 

 大きな目玉の付いた突起を伸ばし、こちらをやや離れた場所から凝視していた。



 私はきびすを巡らせ、躊躇ちゅうちょなく駆け出した。

 右足首の痛みをこらえつつ、脇目も振らずに場から離れた。

 またもや頭の中では、紫之嶋の言葉が思い返されていた。


「あのカタツムリの怪異は、いわゆる動物霊のたぐいに見られるき物とは違う」


 紫之嶋はスキットルを口元でかたむけ、中身を喉へ流し込みながら言っていた。


「しかしそれでいて、人の心の内側に憑くことはあるようだな。往々にして標的となった対象と接点がある者をとし、そのまま一時的に眷属けんぞくに変えてしまう。そういう人間を使役する状況が整えば、怪異も自らの霊的実存性をいっそう強化し得る。そうなると相手を調伏ちょうぶくするのは、俺にとっても骨が折れる。実際に佐々岡酒店の前で出くわした際には、思うように仕留めることができなかったからな」


 あのときカタツムリの化け物が、梶木さんを眷属化しつつ顕現したことを、紫之嶋は指摘しているらしかった。

 それを踏まえるなら、たぶん私を呼び止めた近所の男性も、いまやすでに怪異の眷属となっているのだろう。そうして、紫之嶋の見解に従うなら、怪異の標的である私はこのとき、亡くなる直前の佐々岡さんと同じ危険に瀕していた。



 だから私は、商店街の通りを走った。たとえ足首が痛んでも走った。

 ほとんど生存本能にき動かされるようにして、走るしかなかった。

 路上を行き来する人と人のあいだをすり抜け、ときに肩をぶつけつつも、死の危機から逃れるために走る。怪異の存在を視認できない人々は、時折こちらへ奇異なものを見る目を向け、首を捻っているようだった。


 しかし今更余人の人目など、気に掛けている余裕はなかった。

 私は、とにかく借家へ急ごうと、一心不乱に通りを駆ける。



 ……そこへまた、次なる異変が発生した。


 駆け抜けようとしている路上の方々から、こちらへ近寄ろうとしてくる人の姿があったのだ。

 それも一人でなく、三人、四人――前方に限った範囲だけでも、およそ一〇人は見て取れた。

 他の通行人のあいだをうように歩き、次々と私の方へ接近しようとしているのがわかった。


 近付いてくる人は皆、双眸が白目を剥き、半ば開いた口の端から唾液を垂らしていた。

 性別も年齢も様々だが、いずれも見覚えのある面立ちだ。おそらく先程声を掛けてきた男性と同じで、過去に近所で言葉を交わしたことがある人物ばかりだった。しかもその全員が、かつて正気を失った際の梶木さんと、非常によく似た雰囲気を身に帯びていた。



 私は、あたかも死霊の群れが迫りつつあるような、深刻なおぞましさに震えを感じた。

 このまま包囲をせばめられれば、いよいよ生き延びる見込みが潰えるとしか思えなかった。

 だから決して立ち止まらず、突き進むしかなかった。


 全力で直進し、一秒でも早く借家へたどり着き、自転車を確保せねばならない。


 だが怪異の眷属と化した人々は、雑踏の合間から次々に顔を出し、こちらへ近付いてきた。

 私は必死に駆け抜けて、それを辛うじて回避し続けた。すれ違いざまにうめき声が聞こえた。


「あッああ浅葉くん――」

「浅葉浅葉聞いているぞ」

「コレハゴ丁寧ニ浅葉サン」

「挨拶なんて挨拶なんて都会の人はやっぱり違違違いますネ」

「みみみ民俗学ですか民俗よくわかりませんがどういうことで」

「勉強勉強勉強ばっかりで何の役に立つんですか民俗って」

「田舎ですから田舎ですからわかわかわかりませんケドネわしは」

「他にもあるだろ打つか破るかそんなことばかりじゃなく他にも他にも」

「そんなそんな打つかことことしたってだめだめだめだめだって」

「浅葉浅葉とかいうのなんで曽我さんはめるかこんなやつを」

「打つ打つ浅葉わかんねぇよ都会だし打ち割るか浅葉は」

「打つか打つか破るか浅葉浅葉抓めるか浅葉打ち割るか……」


 わけのわからないいくつも言葉が、無秩序に飛び交っていた。

 私は走り続けながら、咄嗟とっさに頭を低く下げ、両手で左右の耳をふさいだ。

 眷属たちの声音は、鈍く脳に響いて、軽い頭痛を引き起こしていた。



 それから栄六丁目までやって来たところで、左手に冷たい感触が伝わった。

 かたわらを見れば、間近にたたずんでいる眷属の一人が、私の腕を強くつかんでいた。

 三〇代後半ぐらいの男性で、やはり借家の近所に住んでいる人物だった。


「浅葉くん、打ちますか」


 眷属の男性は、うっすらと笑みを浮かべながら言った。

 ただし双眸は白目を剥き、口から唾液が垂れていた。


「打ちますか。破りますか、抓めますか……」


 男性は比較的華奢きゃしゃな外見だったが、私の腕を掴む握力は恐るべき強さだった。

 私は、怪我の患部を殊更ことさらに痛め付けられ、耐えかねて叫ばずにいられなかった。

 周囲で道行く人が数名、こちらを何事かと驚いた顔で振り返った。

 眷属の男性は、尚も手に込めるちからを強め、放そうとしなかった。



 私は、ボディーバッグ側面のファスナーを開き、複雑な図柄が描かれた紙片を取り出した。

 紫之嶋から渡された霊符だった。私の腕を掴む眷属の手を引き、紙片の表面を押し当てた。

 男性はうなり声を上げると、手を離してよろめいた。霊符に触れた箇所は、火傷したように赤くれ上がり、白い煙を立ち昇らせていた。


 そうする間にまた一人、別の眷属と化した人物が近付き、こちらへ手を伸ばしてきた。

 私は、新たな霊符を取り出して、もう一人の眷属の側にも突き出した。それに触れた相手は、やはりしわがれた声で唸り、後退あとじさりした。霊符の効力は、目を見張るものがあった。


 さらに怪異の手先と化した人物を、霊符のちからであと二名ばかり退けた。

 私は、息も絶え絶えに眷属の包囲を突破し、その場をどうにか切り抜けた。

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