41:一〇月五日(土)/陽乃丘/囮
縁日の
鳥居を
途中でボディーバッグから、紙袋を取り出す。中身はコンビニのおにぎりだ。歩きながら
境内のすぐ
シルバーのセダンで、七峰社長が手配してくれた車だ。事前に預かったキーでドアを開ける。
運転席に乗り込み、エンジンを掛けて車内灯を点けた。周囲に人目がないのを確認してから、祭りの衣装を脱いだ。楽なシャツやチノパンに着替えてから、ハンドルを握った。
セダンを発車させ、料金所で駐車料を払ってから、目の前の市道に出た。
陽乃丘から大柿谷へ伸びる車線に入って、アクセルを静かに踏み込んだ。
「
このとき私はセダンを走らせながら、紫之嶋から伝えられた言葉を思い出していた。
「具体的な指示を伝えると、おまえは捌芽祭りの初日が終了したら、すぐに七峰が用意する車に乗って、大柿谷の『
「燦藍ヴィレッジ」というのは、「星峰館」グループが所有する企業保養施設だった。
大柿谷の耶泉神社に近い林道を、星澄市側へ向かって北東に進んだ先にある。市境の
もっとも本年度の夏合宿に関しては、七峰瑠璃子や押尾聡の相次ぐ死亡事案もあり、
尚、その理由を星峰館側は「充分な講師の人手を確保できなかったため」と説明しているが、真相は大きく異なり、常識人が聞けば
耶泉神社は、藍ヶ崎の鬼門から市街地へつながる一帯を、さながら
燦藍ヴィレッジがある土地は、まさしく鬼門の真上に位置しているという。平時の大柿谷は、ほぼ全域を少彦名命に庇護されているものの、さすがに異界に通じる場所ともなれば、現状だと近付いた人間にどのような霊障が起きるかわからない。
ただ一方で、今夜そこで鬼門が開くことになるだろう、と紫之嶋は予見していた。
そうして直後に私が怪異の分身を引き連れて合流すれば、それが異界から顕現する本体と結合し、実体化する場に居合わせることができる。
紫之嶋は、その瞬間を施設内部で待ち構え、直接叩くつもりなのだ。
「おまえが囮として果たすべき役割は、今言ったように単純だ。しかし怪異から命を狙われる点に関しては、もちろん安全な行為だとも言わん」
紫之嶋にしては珍しく、
私への
「それと怪異を確実に
尚、囮(私)があらかじめ燦藍ヴィレッジに
夜の早い段階から怪異が出現し、現場で暴れると調伏の儀式に支障があるからだそうだ。また怪異を引き付ける効果の面から見ても、囮役は大柿谷を移動する方が確実らしい。
陽乃丘の市道は、大きな交差点が少なく、祭りの夜でも行き交う車が
信号に引っ掛かって減速する機会も少なく、自然と交通の流れが速く感じられた。
雨柳神社から燦藍ヴィレッジまでは、乗用車での移動なら、たぶん最短で一時間足らずの距離だろう。
時刻は、午後八時半に差し掛かろうとしているところだった。
鬼門が開くのはいわゆる「
――だが何か、得体の知れない妙な気配を感じる……。
私は車のハンドルを握りながら、酷く不穏な雰囲気を察知していた。
車内に
にもかかわらず
車の空調をたしかめると、正常に動作していた。
カーステレオの
言うまでもなくセダンに乗車しているのは、運転している私一人だけだ。
――なのに、何かが傍にいる? いや、それとも……近付いてくる?
私は、直感的に自分でもわけのわからない思考に囚われかけた。
だが一方、同時に経験則から確信めいた認識を抱きつつあった。
――これは怪異の脅威が、身近に迫りつつある予兆だ。間違いない。
私は、思わず車のハンドルを握る手にちからを込めた。
そうだ。怪異が迫っている。今しも顕現しようとしている。
しかしどこで、どうやって?
以前にバスの車内で遭遇した際には、いつの間にか背後の座席で
悪夢の中で出くわした際には、屋外から
あるいはすでに目視可能な場所に出現していて、私を凝視しているのだろうか……
私は、不意に危険な予感を覚え、運転しつつも警戒を強めていた。
と、次の瞬間。
怪異の脅威は、ある意味で非常に
巨大なカタツムリの化け物は、前方で市道の真ん中に
私が乗るセダンの行く手を、あたかも
頭部から体躯の反対側の端まで、カタツムリの体長は約一〇メートルに達していた。地上から殻の頂点までの高さも、おそらく五メートル近い。前回遭遇したときより、またひと回り巨大化していた。
それがいつの間にか暗闇の中から、じわりと
車のヘッドライトで、目の前に巨体が浮かび上がったときには、もう手遅れだった。
私は、接触を避けられないと悟りつつも、咄嗟にブレーキを踏んだ。
タイヤが路面を
反射的に一瞬、私は
いや、見えなくなっていた。巨大なカタツムリの姿は、幻のように消滅していたのだ。
もっとも衝突の余波は、失われることなくセダンの走行に作用していた。
私は、振動でハンドルを左へ切ってしまい、車の後輪があべこべに右側へ
抑えが利かなくなった車体は、オーバーステアの状態から、そのまま路上で半回転した。
それから、再び衝撃。
続けて浮遊感、平衡感覚の喪失……が順に起こり、目の前が真っ暗になった。
はたと意識を取り戻したとき、
それで私は今、ひっくり返った乗用車の中で、自分自身も逆さになっていることに気付いた。
怪異と接触したあと、私が運転していたセダンは、横滑りしながら市道のカーブへ突っ込んだらしい。次いで、ガードレールにぶつかり、乗り上げ、宙で車体を横転させて、路上に落下したようだった。車は幸い、爆発も炎上もしなかったようだが、かなり大きな事故に見舞われたことには違いなかった。
――本当にただ車に乗って移動していただけで、怪異に襲われてしまった。
私は紫之嶋が見立てた予測の正しさを、今更のように再認識させられた。
この身に降り掛かっている出来事を踏まえれば、疑う余地はなかった。
ただいずれにしろ、ひとまず車内から抜け出さなくてはならなかった。
天地が逆転している姿勢を立て直そうと、何度か身体を捻ってみたが、なかなか動作が思うに任せない。次いでやっと、シートベルトが肩や腰を固定していることに気付き、不器用な手つきでそれを外した。
とはいえ
改めて身体を
瞼の上から手で擦ってみれば、指先に赤黒い液体が付着していた。血液だ。
車が横転したとき、額を切って流れ出した血が、少し目の中に入ったらしい。
そうして何とか身動きできるようになってみると、急に身体のあちこちが痛み出した。
取り分け左の上腕と、右の足首には、
利き手の右手が無事だったのは、不幸中の幸いというべきだろうか。
私は、痛みを堪えて周囲を探り、助手席側のダッシュボード付近(もちろん車内は上下逆さの状況ではあるが)に落ちているボディーバッグを、懸命に
それを抱えて運転席のドアを開けると、
アスファルトの路上で
事故現場はあと三〇〇メートルも進めば、大柿谷の境界に達する市道だった。
今来た道の片側には、少し離れた位置に破損したガードレールが見て取れた。
セダンが横転する直前、衝突して乗り上げたものだろう。
路面は街灯に照らされているが、道の左右は田畑と山林に
繁華街からは多少距離がある場所で、夜間だからか付近に人気は感じられない。
私が事故を起こして以後、まだこの道を通り掛かった車はないのかもしれなかった。
――もう今は、怪異の気配も感じられない。
運転中に知覚した悪寒は、すでに近辺から霧消しているようだった。
しかし当然、安心はできない。
スマートフォンで時刻を確認すると、とっくに午後九時を過ぎていた。
私は、痛む右足首を
横転したセダンは、路上に放置していくしかなかった。
他の車両に対する危険防止措置義務を放棄した上、ガードレールを損壊させているから、これは明らかに悪質な道路交通法違反だ。当て逃げ事案に該当し、起訴されれば有罪になるかもしれない。
だがここで悠長に警察を呼び出し、現場で立ち止まっているほど、私は愚かになれなかった。
そうする間にも怪異に襲われれば、死の危険が生ずるだけでなく、紫之嶋の計画も破綻する。
ただし、代わりに皆月へ連絡を入れることにした。
私が怪異に遭遇したのと同じく、もしかして彼女も危険に
暗く
四コール目で通話がつながると、スピーカー越しに心配そうな声が聞こえてきた。
<もしもし浅葉くん? どうかしたの>
その応答を聞いて、少しだけ
私は、自分の現状とそこに至る経緯を、手短に説明した。
こちらの話をひと通り聞き終わると、まず皆月は私の無事を改めて確認してきた。
怪我の痛みは辛かったが、ここで
もっとも皆月は、追及こそしてこなかったものの、それとなくこちらの容態を察していたように思う。
<そちらの状況はだいたいわかったわ。とりあえず浅葉くんは、そのまま紫之嶋さんのところへ急いで>
皆月は
普段より歯切れが悪く、やや
<このあと私は、怪異のせいで車が事故になったことを、七峰社長に電話で相談してみる。それから、その次は――たぶん、警察に連絡するかもしれない。それでもかまわない……?>
私は迷わず、もちろん、と答えた。
怪異調伏の件も勘案すれば、差し当たり七峰社長に報告しておくのは良い判断と思われた。
私は燦藍ヴィレッジへ向かっているし、皆月は雨泣き岩の
ただいずれにしろ七峰社長があいだに入ってくれれば、私が紫之嶋のところへたどり着くまでの時間を、どうにか稼いでくれそうに思えた。何しろ横転したセダンは、星峰館の所有物だ。
そうして、怪異を調伏する目的が達成できれば、私は不法行為に対する
本来なら無論、私が自分で事故報告の義務を果たすべきだが、怪異の標的となっている以上、生きて確実に可能かはわからなかった。だから皆月が代わりに通報してくれるのであれば、制止するつもりもなかった。
結果的に彼女の手で、私を警察へ差し出すことになるとしても、決して恨むまいと思った。
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