21:九月五日(木)/新委住/弔問

「捌芽祭り」の蔵出し作業があった日の夜更け。

 私は、またもや不気味な悪夢にうなされた。



 私が就寝していた和室を、二つの眼球が窓の外からのぞき見しているというものだ。

 このときも眼球の裏側は両方共、長い触手の先端とつながっているのが見て取れた。

 そうして、窓硝子まどがらすを一枚はさんだ間近から、布団で寝ている私の顔を見下ろしている。

 さらにその脇では、やはりまた別の触手がもう一対、忙しなくうごめいていた。


 私は夢の中の暗がりで、怪異の存在に気付き、目を見開いた。

 もっとも手足はまるで動かず、布団の上に身を起こすこともできない。

 口は開けども声が出ず、叫んで助けをうことさえかなわなかった。

 ただただ怪異の接近を視認し、恐怖におびえるばかりだ。



 と、窓越しにかすかながら、ぬめり気がある物体のうような物音が聞こえてきた。


 ぬっ、ぬぬぬ。

 ぬぬぬっ、ぬぬぬぬぬ……。


 眼球の位置がより高く、触手はいずれも徐々に長さを増していく。

 私は、相変わらず身動みじろぎできないまま、窓の外の怪異から目が離せない。

 そうするうちにやがて、触手の根元と思しき部分がゆっくりと見えはじめた。

 ぶよぶよとして、湿しめり気を帯びた、黄土おうど色の外皮――

 それはけがれを具現化した、肉の塊のようだった。



「打つか。破るか」


 低く、重く、うなるような声音が、いんいんと暗がりで耳に響く。

 夢の中にもかかわらず、それは窓硝子を微細にふるわせた。


「打つか。破るか。打ち割るか……?」


 べちゃり、と水っぽい音が窓の向こう側で鳴った。

 ぶよぶよした肉塊が、硝子にべったりと張り付いていた。

 次いで部屋の窓枠が、激しくガタガタと揺れはじめた。

 屋外から、強いちからが加わっているのがわかった。


「打ち割るか。めるか……」


 圧力に耐えかねたらしく、窓硝子に亀裂が走った。

 一瞬の間を挟んで、大小の透明な破片が宙を舞う。

 触手が伸びて壊れた窓を潜り、屋内へ侵入してきた。

 怪異の眼球は、寝転がる私を改めて凝視してくる。


 彼我の視線が互いに重なり、息が詰まりそうになった。

 触手の生えた、黄土色の肉塊が窓枠を乗り越えようとしていた。

 しかも窓越しには、肉塊の他にも何か、大きな黒い影が見えた。

 そうして――……



 私は、そこでやっと目を覚まし、暗い部屋の中で意識を取り戻した。

 壁掛け時計を見ると、今夜も午前二時過ぎだった。布団の上で上体を起こしたあとも、いまだ少し視野が不調で、夢でた事物と現実のそれが混交する感覚が残っていた。

 深呼吸して心身を落ち着けると、私は今一度身の回りの様子をたしかめた。

 怪異の姿は見当たらないし、就寝前から冷房を利かせている部屋は、しっかり窓が閉じたままだった。もちろん畳の床をあらためても、粉々に割れた硝子の破片は散乱したりしていない。


 ……だが、窓にはまっている硝子は、外側がべっとりとれていた。

 わずかに粘性をふくんだ液体のようで、窓枠の隙間から屋内に若干にじんで染み出してきていた。

 無論、風雨が吹き付けてできたものではない。今夜は朝まで、降雨の予報がないはずだった。




     〇  〇  〇




 九月五日の午前一〇時半頃、私は亡くなった石塚先生のお宅を訪ねた。

 先月末の葬儀には参列しなかったものの、かたちばかりでも弔意を示さねばなるまいと考えたからだ。

 私は先生にとって直接の教え子ではなく、押尾を介して知り合ってからも、あまり日が経っていない。通夜や告別式には、大学で石塚研究室に出入りする学生の他、古くからの研究者仲間、フィールドワークで懇意になった人物などが、多く集っていたという。

 そのため押尾の葬儀よりも猶更なおさら、私にとっては顔を出すのが躊躇ちゅうちょされる場所だった。丁度「捌芽祭り」の就任奉告祭と重なったこともあって、当日の参列は見送ることにしたわけだ。


 それで、すでに先生は荼毘だびに付されており、葬送後にはなったものの、せめて霊前へご焼香にうかがうことにした。事前に曽我さんを通じ、ご遺族にも予定は連絡してあった。



 石塚先生のお宅は新委住でも、取り分け奥まった地域に位置していた。

 広い敷地に建つ日本家屋で、大きな平屋だった。あとで知ったことだが、この土地がまだ現在の地名になるより以前、名主を務めていた人物の家だったものを買い取ったものらしい。ひなびた古民家を改装し、電気ガス水道はもちろん、インターネット回線なども通し、一〇年近く前から居宅としていたそうだ。

 もっともおもむきのあるたたずまいだが、隣家は幾分離れた場所にあり、付近の道に人通りも少なく、やや寂しいところに感じられた。近所付き合いのわずらわしさも多くなさそうなのは、気楽なのかもしれないが。


 玄関は木造の引き戸で、片脇の壁面にチャイムが取り付けられていた。壁板と調和した小型のデザインで、それは現代文明の利器であることを、心なしか恥じているように見えた。

 ボタンを押すと、ジリリ……という、古いベルをした電子音が鳴った。

 ほんの少し間を置き、屋内から「はあい」と応答する返事が聞こえた。


 私は、引き戸越しに名乗り、弔問にまかり出たことを伝えた。

 家屋の中から応じた人物は、戸を開け、玄関前へ姿を現わした。

 三〇代後半と見て取れる女性で、石塚先生の夫人とわかった。



「本日は石塚のためにわざわざお出でくださいまして、ありがとうございます。お話は曽我さんから伺っておりますが、亡夫とは押尾さんを通じてお知り合いになったとか」


 石塚夫人(現在は寡婦なのだが、便宜的にそう呼ばせて頂こう)は、そう言って丁寧に頭を下げた。楚々そそとして品の良い女性と感じたが、面差しに憔悴しょうすいの色は隠せなかった。胸が痛んだ。


 家屋の中へ迎え入れられ、居間と隣接した部屋に通された。

 壁際に真新しい仏壇が据えられ、そこに位牌が置いてあった。


 私は早速、夫人に香典を、持参した菓子折りと共に手渡した。もっとも単発バイトの稼ぎから包んだもので、私の身分に相応な、ごくつまらない額だ。

 夫人はいったん、学生さんから受け取るわけにはいきませんわ、と遠慮した。あらかじめ曽我さんを介し、香典を渡す旨は申し出ていたはずだが、いざとなると気が進まなかったらしい。

 しかし、あくまで気持ちですから、と無理を聞いて頂き、納めてもらった。



 お参りを済ませたあとは、長居せずに辞去しようと思っていたのだが、石塚夫人から強く引き留められた。

 居間でお茶を勧められ、藍ヶ崎で取り組んでいる民俗調査に関し、進捗状況を訊かれた。

 いささかきょかれていると、石塚夫人は「亡くなった主人にはときどき、あの人のお仕事の話を伺っていたのよ」と、しんみりした口調で語っていた。


 結局、私は「捌芽祭り」の準備に参加していることなどを、要約して説明した。夫人は、耳をかたむけつつも何度か、私のつたない話に的確な質問を挟み、調査内容の要点をよりわかりやすく引き出してくださった。

 よくよく聞くと、夫人は博物館に勤務経験もあった元学芸員で、フィールドワークにも理解が大変深くていらっしゃった。

 きっと先生にとって、夫人は最高の配偶者だったに違いない――

 と、お二人の関係を想像するにつけ、不憫ふびんに思えてならなかった。



「折角いらしてくださったわけですし、主人の部屋をご覧になっていってはいかがかしら」


 やがて石塚夫人はおもむろに立ち上がって、私を家屋の北側にある部屋へ案内してくれた。

 石塚先生の書斎には、かつての戸主が他界したあとも尚、大量の蔵書が保管されていた。

 夫人は私とやり取りするうち、「民俗学をこころざす学徒であれば、そこには何かしら役立つものがあるのではないか」と思い至ったらしい。それで、この際はあらためてみてはどうかと、提案してくださったのだ。


 唐突な誘いだったが、非常に貴重な機会でもある。興味がないと言えば嘘になった。

 恐縮しつつも、先生の書斎へお邪魔した。そこで目の当たりにした光景には、さすがに感嘆を禁じ得なかった。

 生前の先生が書斎にしていた場所は、二間続きの和室だった。いずれの部屋も南側の壁沿いには、床から天井まで一面を覆う書棚が据え付けられ、隙間なく本が詰め込まれていた。

 また手前の部屋の窓際には、古風な文机ふづくえしつらえられていた。その周辺の空間を除き、大部分の床の上には、書籍が何冊も積み重ねて置かれていた。わずかに畳が露出した箇所を歩いて、室内を移動していると、あたかも本の連なりが成す波間を泳いでいるようだった。


 尚、数多の蔵書は、民俗学を中心とする有名な人文書をはじめ、高価そうな学術書や明らかに稀覯きこう本とわかるものまで、一介の学生にとっては眩暈めまいがするような収集だった。さらに夫人の話によると、歴史的価値を持つ古文書のたぐいもあって、そうした品々は別の地下書庫に納めてあったらしい。



「何か目を引く本があれば、どうぞ遠慮なく手に取ってご覧くださいな」


 石塚夫人は、微笑んで言った。


「たぶんこの家には、そういつまでも置いておかないと思いますから」


 いずれ先生がのこした本の数々は、九割方を藍ヶ崎大学や市立図書館に寄贈する予定だという。

 つまりここにある書物を、私のような人間がじかに触れられるチャンスは、このときしかないということだった。

 とはいえ、にわかに膨大な本の山を前にして、短い時間でし得ることは限られている。将来役立ちそうな一冊を選り出すことなど到底不可能だし、それこそざっと見回して表題だけで興味を刺激されるものがないか、大雑把に当たりを付けるぐらいしかできそうもなかった。


 それでも奥の間の一隅を検めてみたところ、積まれていた書物がいずれも、藍ヶ崎の郷土史に関連するものだと発見した。フィールドワークの参考になるかもしれないと考え、手早く内容をたしかめていく。

 ほどなく大きな判型の一冊に関心を引かれ、ぱらぱらとページをめくって中身をながめた。藍ヶ崎市内の古い地理を解説したもので、図版も充実した書籍だった。


 私は、それを文机の上に広げ、江戸時代以前の地図が掲載してあるページを何枚か、スマートフォンのカメラで撮影させてもらった。



「何か目ぼしい本はありましたか」


 撮影した本を元の場所へ戻したあと、石塚夫人が声を掛けてくれた。

 私は、おかげさまで良いものを拝見させて頂きました、と謝意を伝えた。


 と、そのとき。ふと思い立って、ひとつ試しに質問してみようと考えた。

 石塚先生が最期に遺した「泥の死」という言葉について、心当たりはありませんか、と。

 夫人は元学芸員で、生前の先生と誰よりもコミュニケーションを取っていたに違いない。

 しからば、あのダイイングメッセージに関しても、謎の答えを持っているのではないか。

 いささか安易な着想ではあったが、ひょっとしたらあり得ることのように思われたのだ。


「まあ……浅葉さんも、警察の方と同じことをお訊きになるのですね」


 実際に問いただしてみると、石塚夫人は弱り顔で困ったように言った。


「おちからになれずに申し訳ないのですけれど、その言葉のことは私にもまったくわかりませんのよ。何か意味があるはずだと思って、手掛かりになりそうな話を聞いた覚えはなかったかと、自分なりに記憶を手繰たぐってみたのですけれど。本当に全然、何も思い当たらなくて……」


 私は苦笑し、かえって妙なことをいてしまい、失礼しましたとびるしかなかった。

 迂闊うかつだった。素人探偵気取りで思い付いた質問を、警察がたずねていないはずはない。


 とはいえ石塚夫人の答えを聞いて、「泥の死」という言葉に対し、浅く察せられた点と、謎が深まった点がある。

 浅く察せられた点は、少なくとも「泥の死」とは石塚夫妻のあいだで、記憶に残るほど日常的な会話の中に登場する言葉ではなかったらしいということ。

 謎が深まった点は、それにより「泥の死」が特殊な意味を持っていて――

 おそらくインターネットでも検索できず、元学芸員の石塚夫人が知らないほど、専門性が高い言葉かもしれないということだった。ただ一方で、石塚先生が遺した言葉なので民俗学に関わる専門用語と考えがちだが、逆に一切学術的な要素と無縁な俗語スラングかもしれない、とも思った。



 いずれにしろ、あまり先生のお宅で長居するわけにもいかない。

 私は、今度こそ夫人に辞去の意を告げ、おいとますることにした。

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