【九月の記録】

19:九月一日(日)/大柿谷/蔵出し

 耶泉神社は、藍ヶ崎市大柿谷中央でも北東の奥まった場所に建てられている。

 片田舎ながら、四神相応の風水思想にのっとり、鬼門を抑える聖殿の役割を与えられたらしい。

 九世紀前半、大柿谷山間部から平野へ差し掛かる道の出入り口に、少彦名命すくなひこなのみことが降り立った。このとき地域で暮らす民衆に農作物の豊穣を約束したことから、それに応えて同神を祀ったのが創建の端緒とされる。


 毎年一〇月第一土曜日及び日曜日に開催される「藍ヶ崎捌芽祭り」は、創建の故事に由来した収穫祭の一種で、一ヶ月以上前の就任奉告祭から幕を開ける。無論、行事の本番は二日間にわたる開催当日だが、神事としては準備段階から祭りがはじまっている、という定義で解釈されているそうだ。



 かくして今年は八月三一日土曜日、耶泉神社で就任奉告祭がり行われた。


 この日は午前中から、祭典の運営関係者が続々と鳥居をくぐって、境内に集まってきた。

 町内会長の曽我さんや青年団の幹部で委員長の韮沢さんをはじめ、私にとってはここで初めて姿を見る人物も少なくない。総合本部長や相談役、顧問といった肩書を持つ人々は、主に市議会議員や地元企業の経営者が務めているようだった。節目の式典や大きな会議にしか出席することはないらしいが、祭りに隠然いんぜんと影響力を及ぼしているのだろう。

 私は相変わらず曽我さんの口利きで、場の末席に加えて頂き、神事を見学させてもらった。


 所定の時刻が来ると、関係者一同は拝殿へ入り、事前に並べてあった椅子に着席していく。

 神楽太鼓かぐらだいこが鳴り響き、宮司ぐうじによる修祓しゅうばつのあと、祝詞奏上のりとそうじょうへ続く。それからおごそかな雰囲気の中で、玉串が奉納され、八脚案はっきゃくあん神饌しんせんなどを置く台)に巻物が並べられた。

 ここで神前に上げられた巻物は、祭典運営関係者の名簿だという。

 その後は、総合本部長ら数名が団体を代表し、神酒みきさかずきで頂いていた。

 神事自体はいったんはじまると、せいぜい一時間程度で終了したように思う。

 最後に出席者全員で記念撮影が行われ、正午前には順次解散となった。



 さて、祭りの準備が本格的な実作業に入ったのは、九月一日日曜日の「蔵出し」からだ。

 参加者は前日と同じく午前中に集合し、午後四時過ぎまで仕事する予定になっていた。


 八月三一日と九月一日のいずれの日も、私は自転車を使って耶泉神社へ乗り付けた。

 自転車は一週間ほど前、曽我さんに頼んで貸与してもらったものだ。先月二一日の夜間に怪異と遭遇して以来、大柿谷界隈に限っては極力バスを利用しないことにしていた。ペダルをいで移動できる範囲なら、自分以外の客が少ない交通機関は頼りたくなかった。もしかするとまた、突然あの化け物に出くわすかもしれなかったからだ。


 所定の時刻に神社の境内へ入ると、陽気そうな男性が玉砂利を踏んで近付いてきた。

 韮沢さんだ。就任奉告祭ではスーツ姿だったが、この日は柄物のシャツとジーンズを着用していた。歩きながら軽く片手を挙げて、私の名前を呼んだ。


「よう、浅葉くん。今日も祭りの調査とやらかい? 君は勤勉だな、いやご立派ご立派」


 韮沢さんは、ちょっと揶揄やゆするような調子で言った。

 しかしそれが嫌味に聞こえないのは、明朗な人柄ゆえだろう。

 私は、二日続けてお世話になります、と言って頭を下げた。



 身近なところで立て続けに知人が不審死をげ、得体の知れない悪夢と怪異に悩まされている状況でも、かえって私はフィールドワークに傾注する日々を過ごしていた。


 身の回りで起きている怪事件の数々では、先日皆月と話し合った際に確認した通り、被害者に共通する点が見られない。だが唯一、そうした中でも合致の看取できる要素は、誰もが藍ヶ崎に大なり小なり縁を持つことだ。

 しからば、この土地やそこに住む人々を深く知ることで、何か事態の本質を掴む鍵が見付かるのではないか――

 と、このときはそのような着想を抱いていたのだが、オカルト的な思考に毒されすぎていて、いささか突飛すぎるだろうか。


 しかし現実に私は危険な怪異と接触しており、すでに自らの身に降り掛かる現象を、科学的な論理で説明できる気がしていなかった。それならまだしも「土地の呪いに侵されている」と宣告された方が納得できそうだったし、ゆえに問題解決の手段を民俗調査に求めたくなっていた。

 悪夢に悩む人間の中には、私自身をはじめ、押尾や石塚先生といったような、民俗学を学ぶ者が含まれている事実も、余計にそうした方向へ意識を駆り立てた。


 ――どうせ土地を離れても怪異から逃れられないなら、いっそ相手の正体をあばいてやろう。


 そうした心理さえ、私は密かに抱いていた。



 やがて青年団の成員を中心とし、祭りの準備に協力する有志の面々が集まった。

 大柿谷の住民だけでなく、例によって陽乃丘から参加した人物もいるらしかった。

 ある程度まとまった人数になったところで、本殿の裏に建つ倉庫まで移動した。


 本日実施される「蔵出し」と呼ばれる作業では、ここから曳山ひきやま山車だし)の部品を運び出さねばならない。

 捌芽祭りにおいて、曳山は例祭の花形だ。木造の大型運搬台車で、中央に立てた支柱の周りを、提灯ちょうちんや人形、植物や織物で飾り、地域の道を皆で引き歩く。

 毎年、祭りの準備期間に組み立てられ、例祭が終了すると解体される。曳山は元来祭りの期間に神が一時的に降臨する場所で、これを神事ののちに壊すことにより、邪気がはらわれるらしい。その際に主要な部品は回収され、神社の倉庫で保管する。それを翌年再利用し、次年度の曳山の土台としているわけだ。


 祭りの協力者は皆、倉庫の中へ踏み入ると、積んで置かれている部品を順に持ち出していく。

 曳山の車輪、心棒、化粧板けしょういた、槍と呼ばれる頑強な丸太、などなど。大きくて重いものは、成人男性が数人でかつぎ、手分けして運搬する。


 拝殿の脇にある広場まで移動すると、地面に敷かれたブルーシートの上へ個々の部品を並べていく。運び出されてきた物品は、担当者がひとつずつ念入りに点検し、破損や数の不足がないかをたしかめていた。


 尚、私も途中で作業に加わり、何点か運搬に協力させてもらった。古い木材は、間近で触れると独特な匂いがして、趣深い。貴重な体験に気分は高揚したが、しかし非力な身ゆえ、どこまで青年団の皆さんにとって役に立てたかは疑問だった。

 また一方では、宮司さんに許可を得て、作業中の様子を持参したデジタルカメラで撮影させて頂いた。資料になり得る写真の確保も、フィールドワークの大切な成果だ。



 それから正午を回ったところで、いったん休憩になった。

 午後からは部品を組み立て、曳山の土台部分を作る。

 韮沢さんは拝殿内部に皆を呼び寄せて、弁当係に昼食を配らせた。

 手渡されたのは、地元弁当店から提供された、地鶏唐揚じどりからあげ弁当だ。


 ありがたく受け取り、屋内の隅に座って、おかずをはしで口の中へ放り込む。

 肉の食感を味わっていると、青年団の一人が韮沢さんに声を掛けていた。


「なあニラさんよぉ、やっぱり今日もササコーのやつは来ねぇみたいだなあ」


「……ああん? マジでササコー来てねぇの? しょうもねぇなあ、あいつ」


 韮沢さんは、呆れたような声を上げ、立ち上がって拝殿の中をぐるりと見回した。

 その場に「ササコー」なる人物が不在であることを確認すると、軽く舌打ちする。



 少し気になって、今名前が挙がったのはどういう人物なのか、と韮沢さんにたずねてみた。


「あー。ササコーってのは、本名を佐々岡ささおか公介こうすけって言ってさ。一応は大柿谷青年団の一員、ってことになっている男なんだよ。たしか年は、二八、九歳だったかな。栄五丁目の端にある、酒屋の息子なんだ」


 韮沢さんは、髪の毛を片手でき回しながら教えてくれた。


 ササコーこと佐々岡公介氏は、元々あまり人付き合いが得意な人物ではないようだ。

 中高生の頃から親しい友達は少なく、周囲と関わりを持つことに消極的だと知さられた。

 やがて地元から逃げるようにして、県外の大学へ進学し、一度は都内で就職したらしい。

 しかし数年前に藍ヶ崎市へ戻ってきて、その後は実家暮らしだという。ただし現時点で実家の仕事を手伝ったりすることはなく、機械部品工場で働いているのだった。


「だがまあ、いずれササコーも酒屋を継ぐんだと思うんだけどさ。そんなら何にしたって、あの人付き合いの悪さじゃうまくねぇよな。大柿谷みたいな土地じゃあ、やっぱり地元の人間同士で結びつきが強いからな。贔屓ひいきにしてくれる馴染み客を、ちゃんと捕まえておかねぇと商売なんて長続きしねぇだろうよ……」


 それで韮沢さんは、ササコー氏のご両親から「息子を大柿谷青年団に入れて、面倒見てやってくれないか」と、頼み込まれているらしかった。


 以前に青年団で耳にした話だが、最近は大柿谷と陽乃丘の隣接地域に全国展開している郊外型商業施設が開店したという。

「捌芽祭り」のような伝統行事には、そういった大手資本の小売業に対抗するため、地元商店をいとなむ事業者が地縁の維持や補強を求めて、開催に協力している一面もあるようだった。青年団の成員に商店街関係者が多い理由も、基本的にはそこにあるのだろう。


 こうした現代的な経済圏の地方への波及と、古い文化がその影響から地域住民の暮らしを保護している状況に関しては、またひとつの民俗テーマとして研究の余地がありそうだ――

 と、私は密かに考えた。



 それから皆は昼食を済ませると、引き続き曳山の土台を組み立てる作業に取り掛かった。

 午後の作業は、日没時間の少し前まで続き、化粧板で台車部分の外枠ができたところで、この日は差し当たり中断することになった。

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