15:八月二一日(水)/大柿谷/青年団
大柿谷青年団の会合は、比較的不定期に開かれる。
ただし水曜日は商店街に定休日の店が多いため、普段従業員として働いている人たちが公民館で集まりやすい傾向にあった。そうした場は現地住民と視点を共有するのに絶好の機会なので、無論フィールドワークのためにも積極的な参加が望ましい。
それでこの日は会合が
大柿谷栄の公民館は、八丁目からだと徒歩でおよそ三〇分の距離にあった。
大柿谷中央との境界に近い場所で、市営バスの停留所三つぶん離れている。
ところが曽我さんに借りている家から最寄りのバス停は、早朝や夕方以外だと、公民館の前で停まる車両が二時間に一本しか来ない。地方都市で乗客の少ない公共交通機関にありがちだが、あまり利用する時間帯の融通が利く路線ではなかった。
だから青年団の会合に参加する際は、所定時刻の少し前に都合よく着くバスもない。
そこで仕方なく行きの道については、徒歩で公民館へ向かうことにしていた。
住宅街をすり抜け、商店街や工場の敷地を横目に見ながら、
途中で目に入る光景からは、地域の暮らしが垣間見える場面もあった。目的地まで短い距離ではないが、案外周囲を
よく晴れた空の下では、時折河川沿いのサイクリングロードを走る自転車とすれ違う。ペダルを
やがて野球のグラウンドやテニスコートの
大柿谷公民館だ。それなりに広い駐車場を通り抜け、正面玄関から建物の中へ踏み入った。
ロビーの一角へ目を向けると、見知った三〇代半ばの男性が案内所の脇を歩いていた。挙措には快活な雰囲気があって、ポロシャツとスラックスを着用している。喫煙スペースから出てきたところのように見えた。
この男性は、名前を
青年団の中心人物の一人で、主に地域行事の企画運営に
平時は商店街の飲食店を経営しており、明るい人柄から人望も厚いようだ。
先日の会合を見学させてもらった際、曽我さんから紹介された。
足早に近付いて挨拶すると、韮沢さんもこちらに気付く。
笑顔で振り返って立ち止まり、
「おう、たしか浅葉くんだったっけ。今日はよく来たね」
韮沢さんはハハハと、短く陽気な笑い声を立てた。
「しかし民俗学だか何だか知らないけど、こんな田舎の祭りの調査とは物好きな学生さんもいたもんだ。おまけに準備から手伝ってくれるんだって? まあ何であれ、他所の土地の人に興味を持ってもらえるのは、うちの青年団としても望むところで、ありがたいことだけどさ……」
大柿谷青年団はおよそ一〇年前から、「捌芽祭り」を地域の
そのための施策も毎回企画されていて、近年は少しずつ成果が表れつつあるらしい。
県内外から祭りの日に訪れる見物客が増加したし、
つまり、行事を開催する側に回って参加してみたい、とわざわざ希望する酔狂な余所者が。
韮沢さんのあとに
建物の中には、会議室のような部屋もあるが、青年団の会合では
座敷の出入り口で靴を脱ぎ、長方形の室内へ上がると、すでに出席者の面々が居並んでいた。
室内中央には、ローテーブル数台が縦一列に置かれ、皆はそれを左右から
私は、お辞儀しつつ
韮沢さんは上座に着くと、腕時計を見て時刻をたしかめた。
次いで、室内を見回し、全員集まっているかと呼び掛ける。
出席者の一人が声を上げ、不在者の名前を伝えた。
「いやあニラさん、まだササコー来てないよ。こないだ声掛けたんだがなあ」
「ササコーだったら、どうせ今日も来ねぇだろ。いくら呼んでも無駄だって」
それに反応して、また別の声が上がった。
韮沢さんは、しょうがねぇなあ、と苦笑交じりにつぶやいてから、他に欠席した者がいないかたしかめていた。
それからようやく皆に号令を掛け、本日の会合を開始した。午後二時を五分以上過ぎていた。
今回の会合は「藍ヶ崎捌芽祭り」に関する話し合いとして、本年度最初に
まずは出席者の顔合わせを兼ね、全員がごく簡単な挨拶と自己紹介をすることになった。
何しろ祭りの準備をきっかけとして、この集まりで青年団に初めて名を連ねた新人メンバーが数名いる。あるいは私のように、本来なら局外者にもかかわらず、ここに志願して出席している人間も加わっていた。他に隣接地域である陽乃丘の町内会からも、この場には四、五人ばかり顔を出しているようだった。
まだ学生の私は、出席者の中でも最年少で、自己紹介が最後だった。
普段は都内の文系私大で勉強していること、藍ヶ崎には民俗学のフィールドワークで滞在していること、取り分け捌芽祭りに関心があって参加を希望したことなどを、手短に説明した。
居合わせた他の出席者のうち、半数からは多少物珍しそうな目で見られ、もう半数からは幾分
次に議題は祭りの運営における、今年度の委員会編成や仕事の担当に関する事柄へ移った。
差し当たり実働部隊の責任者として、韮沢さんは順当に委員長を務めることになった。
それから、総務、会計、進行……と、役職が次々に決まっていく。事前の根回しがあるのか、韮沢さんから特定の出席者が指名されると、特段当人が固辞したり、反対意見が出たりもせず、すんなり皆の信任を得る。
主立った役員がひと通り任命されたあとは、行事当日までの準備日程が発表された。
――――――――――――――――――――――
・八月末日 「就任奉告祭」
・九月一日 「蔵出し」
・九月八日 「
・九月一五日 「
・九月一六日 「大会所開き」
・九月二二日 「
・九月二九日 「
――――――――――――――――――――――
各種作業や祭礼手続きの予定が、順番に挙げられていった。
青年団の会合とは異なり、大部分は日曜日に実行されることになっていた。商店街の住民以外にも、手伝いに来る人たちがいるためらしい。そうして今年は一〇月五日、同月六日に捌芽祭りが開催となる旨に関し、改めて全員で合意した。
その上で諸々の仕事を、幹部以外で誰が引き受けるか、青年団の成員の中で割り振りされる。
作業毎の指示役、安全点検の警護役、渉外役から、弁当を手配する係まで、いざこうした場に出席してみると、想像以上に多くの仕事があるものだと、改めて実感せざるを得なかった。
かくして初回の会合は、皆の顔合わせとスケジュールの確認、担当作業の決定で終了した。
「浅葉くんもお疲れさん。わりと遅い時間になったけど、話し合いはつまんなくなかったかね」
韮沢さんが私のところへ来て、帰り際にまた声を掛けてくれた。
いつの間にか時刻は、午後六時五〇分を過ぎていた。途中で休憩時間も挟んだが、実に四時間ほども打ち合わせしていたようだった。出席者も皆、解散時には疲労した様子だった。
私は、伝統行事の運営を立ち上げから拝見できて非常に興味深かったです、と答えた。
もちろん民俗学を学ぶ人間としての本心で、決して皮肉や建前から出た感想ではない。
だが韮沢さんはそれを聞くと、やっぱ物好きだな、と言って笑った。
「まあ今日で嫌になったりしていないのなら、次の集まりでもよろしくな。帰りは気を付けて」
私は今一度、韮沢さんに礼を述べてから、広間を辞去した。
〇 〇 〇
公民館の建物を出ると、すでに屋外は暗かった。
陽の長い夏場と言えど、日の入り時刻は過ぎていたようだ。
目の前の駐車場を斜めに横断し、市道沿いまで少し歩いた。
日中に来た道とは逆方向へ進むと、停留所がある。
帰路には、バスを利用するつもりだった。
行きの道では時間が合わなかったが、今なら午後七時八分の便が利用できる。
標識柱の時刻表で、バスの路線と発着時間を確認してから、そのまま少し待った。
しばらくすると市道の大柿谷中央方面側で、暗がりの中に光が閃いた。
バス車両がやって来たのだ。車のヘッドライトが路面を照らしていた。
大きな箱型の車体は、緩やかに減速しつつ、停留所の前に滑り込んできた。
音もなく停車すると、車両側面の中央で、乗車口のドアがスライドして開く。都バスは前輪部付近の、運転席に近いドアの方が乗り口になっているが、地方都市では勝手が違っていた。
私は発券機から整理券を取り、ステップを上がった。車内を素早く見回す。他には誰も乗客がいなかった。元々乗客が少ない路線で、日没後の時間帯なら、これが普通の利用状況なのだ。
手近な座席に着席すると、バスはゆっくり発車した。
車内は冷房がよく効いていて、夏場の屋外の蒸し暑さは遮断されていた。
ひと息吐いた直後、ピンポーン、という電子音と共に車内放送が流れた。
いつも
私一人しか乗客のいない車両の中で、愛想の良いアナウンスがやけによく響いていた。
運転席でこちらへ背を向けている運転手は、黙ったまま、振り返ろうともしない。
この周辺は街並みからもやや外れていて、車窓の外は
……不意に背後で、奇妙な気配を感じた気がした。
運転手以外には、私一人だけしかいないはずの車内で、なぜか何かが乗り合わせている。
このとき私は、そういった不可思議な存在を、閉鎖的な空間の中に肌感覚で察知していた。
そう、間違いなく車内後方には、得体の知れないあれがいる、と。
嫌な予感を抱きつつも、私は座席に腰掛けたまま、慎重に後ろを振り返った。
そうして、そこでまたしても見てしまった――
大きな二つの眼球だ。
しばしば夢の中に現れ、以前には運送会社の倉庫でも出くわした目玉。
あの不気味な双眸がここでも、こちらへ射抜くような視線を注いでいた。
彼我の間合いは、およそ四メートルといったところだろうか。私が座る席の、五列後方に位置する二人掛けシート付近から、こちらをじっと凝視していた。
ただ今回は、これまでと眼球に対する印象が少し違っていた。
理由は単純で、二つの目玉は暗闇に浮遊しているわけではなかったからだ。
車内は照明で明るく、奇怪な化け物の存在を、より生々しく顕現させていた。
そのおかげでまた、私は新たな知見も得た。
眼球は、それがもし人間のものであれば、視神経へ続くであろう箇所から、触手のようなものが伸びていたのだ。
いや、正しくはむしろ、長い触手の先端に眼球が付いている、と考えるべきだろうか。それが目玉ひとつにつき一本、計二本あった。これまでは宙に浮いているとばかり思っていたのだが、先入観と異なっていたらしかった。
とはいえ、尚も観察してみたものの、触手の根本がどうなっているかはわからなかった。車内後方の座席は、私が腰掛けている場所より一段高くなっていて、丁度それがシートの背もたれに隠れていたせいだ。
また、いっそう
つまり、私が座る場所からは長短一対ずつ、四本の触手が見て取れた。ただし短い二本の触手に関しては、先端部分に眼球が付いていないようであったが。
触手はいずれも、うねるような動作で
私は、思わず席から立ち上がって、短く悲鳴を
「いったいどうしたんですか、お客さん」
私の声を耳にして、運転手が運転席から気怠そうに話し掛けてきた。
もっとも目線は前方へ向けたまま、姿勢正しくハンドルを握っていた。
「座席を立つのは、バスが停車したときにしてくださいよ。危険ですから」
運転手は、まるで異変に気付いていない様子だった。
私は、どうやって車内後方の座席へ注意をうながせばいいのだろう、と困惑して
まさか脇見運転させるわけにはいかず、さりとて即座に状況説明の言葉も出てこない。
眼球の付いた触手は、そうする間にもこちらを怪しく凝視し続けていた。
と、ほどなくバスの車両が停車した。
交差点の手前で、赤信号に引っ掛かったのだ。
運転手が顔だけで振り向き、車内を
「お客さん、次の停留所で降りるんですか? そうじゃないんだったら、きちんと座席に着いてくれませんかねぇ」
車両の内部を
こちらを見る目は、酷く
私は運転手の反応にたじろぎつつも、車内後方を今一度振り返った。
すでにそこには、不気味な眼球や触手の姿形は見当たらなかった。
あの化け物と出くわした際にいつも感じる、怪しい独特な気配も消失していた。
視認できるのは、私以外に乗客がいない、寂しいバスの車内の様子だけだった。
私は、不条理と
それから、元の席へ座り直そうとして、しかしいったん思い止まった。
車両が動き出していないうちに意を決し、そこからさらに四列後方の座席へ歩み寄った。ついいましがたまで、不気味な眼球と二対四本の触手が存在していたはずの場所だ。
そこに化け物の姿は、やはりもうなかった。
だがよく見ると、シートの座面が微妙に変色していた。
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