12:八月一四日(水)/大柿谷/実地調査

 八月に入ってからの半月は、主に大柿谷栄の公民館へ通う日々を過ごしていた。

 押尾の死は無論、しらせを聞いてから一週間足らずだったし、まだ私の心に暗い影を落としていた。

 しかし私は本来フィールドワークが目的で藍ヶ崎を訪れており、それをあだおろそかにするわけにもいかなかった。


 そこで公民館では、曽我さんの口利きもあり、まずは青年団の会合にお邪魔させてもらった。

 地元商店街で働く人々が中心に参加し、町興まちおこしのために知恵を出し合う様子を見学して、非常に勉強になった。

 それ以外の機会にも顔を出してみれば、昼間から主婦や高齢者の皆さんが、様々な団体を立ち上げて精力的に活動していた。そのいずれにも少なからず、私の興味を引く要素があった。

 例えば、郷土料理の研究継承に注力するサークルをはじめとし、舞踊や民謡などといった郷土芸能の修練にはげむグループ、小中学生を対象とした学習ボランティア、など。

 大柿谷の公民館は盆休みの期間中も通常開館を続けており、地域に密着した公共施設として、地元住民が大変活発に利用しているようだった。


 前述した通りにフィールドワークでは、地域住民の中に溶け込み、同じ目線を共有することが肝心になる。

 この点から言えば、ここまでの調査はまず上首尾で進んでいると言って良かった。



 実地の調査が進まない日には、JR藍ヶ崎駅に程近い市立図書館で、郷土史をまとめた書籍を借りることもできた。藍ヶ崎大学の教授や地元の郷土史家らが編纂へんさんしたもので、小規模出版社や地方新聞社から複数冊刊行されているのがありがたい。

 そのうちの一冊は、調査の有用な資料として、期待が持てそうだった。上下巻のハードカバーで、一冊ずつが五〇〇頁を超える厚さだが、少しずつ読み進め、毎晩要点をノートに書いて整理するようになった。

 図書館も盆休みの休館日は二日だけで、利用する側にとっては都合が良い。藍ヶ崎市内の公共施設は、連休中も押し並べて稼働率が高いように思われた。


 尚、例によって単発バイトにも申し込んでいたが、運送会社の倉庫には行かなくなっていた。

 また暗がりで一人になったとき、得体の知れない存在が出現するのではないかと、不安だったからだ。

 それで勤務先が少し遠いものの、縫製会社の下請け工場で、ハンカチや靴下のパック詰め作業をするようになった。賃金は休日出勤でも相変わらず安く、従業員には中高年の女性が多いが、人間関係に居心地悪さはない。

 正規雇用の女性工員の中には、地元の染織工芸にくわしい人物もいて、藍染めの話を聞ける機会があったことも、僥倖ぎょうこうと言えそうだった。




     ○  ○  ○




 それから、あの暗がりに出現した存在――

 暗闇に浮かぶ眼球のようなものについても、また一応言及しておこう。


 倉庫で遭遇した夜のように意識が覚醒している状態なら、例の不気味な視線を感じたことは、ここまでのところあれ以来なかった。

 もっとも就寝中にはやはり、しばしば夢の中に出てくる場合があった。

 倉庫でバイトした八月三日以降だと、二、三度、夢に現れた覚えがある。しかしまだ何が原因で夢にることがあるのかは、依然としてわかっていなかった。


 悪夢から覚めたあとは部屋の床を見ると、やはり毎回うっすらと湿しめっていた。


 それと倉庫で初めて聞こえた声も、あれからは悪夢の中でよみがえることがあった。


 ――打つか。

 ――破るか。

 ――めるか。

 ――打ち割るか……? 


 暗闇の奥から語り掛ける言葉も、この時点では何をうったえようとしているのか不明だった。

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