07:八月二日(金)/大柿谷/倉庫
この日の私は、アルバイトを予定に入れていた。
藍ヶ崎で滞在をはじめて以来、単発求人紹介アプリで申し込んでみようと考えていた仕事だ。
勤務先の倉庫には、所定の時刻より一〇分早く訪れ、建物一階の事務所で待機していた。
いま少し経つと、他にも数名のアルバイトが
始業時間が近付くと、運送会社の男性社員が声を掛けてきた。
そうして、皆を事務所の外へ連れ出し、倉庫内の搬入口付近に集合させる。
アルバイトの人数を確認してから、慣れた調子で仕事内容を説明しはじめた。
任されることになったのは、比較的単純で、かつ機械的な作業だった。
搬入口からトラックで運び込まれてくる荷物を、品目別に分類して、建物内部の各所へ運ぶ。荷物の保管場所では、スチール製の棚が何列にも連なって設置されているから、品物と棚番号を照らし合わせ、収納する箇所をたしかめる。棚と同じ番号のシールを荷物に貼り、該当する位置に並べていく。
それをひたすら、ただ淡々と続けるだけだ。始業は午後一時で、午後六時半に三〇分間の休憩を
簡単な説明が済むと、私たちは荷物にシールを貼り込む機械(※電動
まずは指示通りに搬入口で荷物を仕分けし、大きなケースの中へ分類して入れる。次にそれを台車に積んだら、倉庫の奥にある保管場所まで運搬し、シールを貼って棚の上に置く――……
最初は多少の戸惑いもあったが、何度か一連の流れを繰り返すうち、すぐに慣れた。
以後はとにかく無心で作業し、次々にトラックで運び込まれてくる荷物を、
時間の経過は思いのほか早く、気付けば
休憩時間になると、事務所に隣接した従業員控室が開放される。
給湯器や流し台、自動販売機が設置され、優に一〇人程度がくつろげる空間だ。
アルバイトは皆、一斉に持ち場から引き揚げ、控室で思い思いにひと息入れる。
私は出勤前、商店街で
室内に置かれた長机の前で、椅子に腰掛け、バッグの中からそれらを取り出す。
午後七時以降の仕事に備え、私はおもむろに夕食を取った。
と、そのとき。
同じバイトの男性が一人、こちらへ近付いてきて、長机の隣で別の椅子に腰掛けた。
ぱっと見たところ、三〇代後半ぐらいの年齢で、わりと大柄な人物だった。髪の毛がぼさぼさで、無精髭も伸びている。
「やあ、若いね兄ちゃん。ここのバイトは、今日が初めてかい」
大柄な男性は、自らを「
私のことを、倉庫の仕事で初めて見る顔だったから、物珍しく思ったらしい。
そのためにどうやら、
松井さんは、藍ヶ崎市陽乃丘の出身で、ここでは単発バイトで不定期に働いているという。
かつては高校を卒業したあと、地元の塗装会社に
それからは定職に就かず、日々様々な単発バイトをこなしつつ暮らしているらしい。
ずっと独身で、趣味は競馬やパチンコなどギャンブル全般。取り分け数年前のG1で万馬券を的中させたことを、自らの慧眼によるものだと、
「それで兄ちゃんの方は、どういう事情でここへ働きに来たんだい」
松井さんは、ひと
かくいう行き掛かりで、私は弁当を食べつつ、諸々の経緯を話すことになった。
元々は都内在住の大学生で、藍ヶ崎市に長期滞在していること。民俗学のフィールドワークが目的で、捌芽祭りに関心があるため、大柿谷に家を借りていること。とはいえ金銭的にそれほど余裕があるわけでもないので、滞在中の食費を稼ぎに単発バイトに申し込んだこと、など……。
私が県外から来た大学生だとわかると、松井さんは妙に感心した様子でうなずいた。
ただしフィールドワークに関しては、いまひとつ何を目的とする行為なのか把握しかねていた様子だ。改めて「地域に根差した文化を実地に調査すること」というふうに柔らかく言い換えてみたが、上手く伝わったかは怪しい。
説明を聞いているあいだは、ほとんど何もしゃべらず、缶コーヒーをちびちび飲み続けているだけだった。
「……ふうん。そりゃあ何だか、面倒臭そうなことしてんだなあ」
松井さんはやがて、幾分ぼんやりした口調でつぶやいた。
それは実際のところ、フィールドワークの話題に触れた際、相手が示す反応としてありふれたものだ――
と、私は心の中で考えた。おそらく民俗学に強い関心を持っている層は、ホラーやミステリーに類する小説を愛読する人間が考えているほど多くない。
過去の経験を踏まえても、大抵そういうものだと理解している。
○ ○ ○
午後七時に休憩時間が終了すると、アルバイトは全員元の持ち場に戻る。
このあと再び二時間半ほど仕事を続け、残りの荷物を捌かねばならない。
私は、搬入口から荷物を運び、改めて保管場所の棚に向き直った。
シールを貼り込む機械を構えて、また黙々と流れ作業の歯車となる。
……そうして、仕事を再開してから四、五〇分も経過した頃だったろうか。
周囲に奇妙な気配を感じて、私は思わず作業の手を止めた。
視線を手元から外し、顔を上げる。棚の前から半歩
すでに屋外では陽が落ちていて、倉庫内にも照明が点いていた。
だが広い屋内の隅々まで明るく照らされているわけではなく、荷物の保管場所でも仕分け作業と無関係な区画には、LEDの光が届いていない。
私はこのとき、自分の皮膚が発汗していることに気付いた。べと付くような不快感があった。
おかしい。倉庫の中では、きつくない程度に冷房が効いていたはずだった。少なくとも、つい先程までは、仕事していても肌に汗が
にもかかわらず、なぜかねっとりとして、
またどういうわけか、ほとんど付近で物音が聞こえなくなっていた。自分以外のアルバイトが働いている姿も、気付けば
仕事中だから人声がしないのはともかく、荷物を運ぶ台車の音すら聞こえないのは、明らかに不可解だ。知らぬ間に他の従業員が皆、仕事を切り上げて帰ったとも思えなかった。
私は、本能的に危険なものを察知していた。
自然と息を殺し、その場で静かに身構える。
そのまま心の中で、たっぷり一〇秒数えたように思う。
倉庫の搬入口側へ伸びる通路を
眼球だ。
ふたつの大きな目玉が、薄暗い空間に浮遊している。
周囲に並ぶスチール製の棚の物陰から、それは不意に現れた。
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がって、こちらを凝視してくる。
私はすぐ、悪夢に出てきた眼球と同じものだ、と認識した。
とはいえなぜ、アルバイトの最中に遭遇したかは、まるで理解できなかった。何しろ睡眠時ではなく、私の意識は違いなく覚醒状態にある。だから本当にこれが現実の出来事で、暗闇の中に浮かぶ眼球は実在するものなのかを、自問せずにいられなかった。
本能的に手足の
「――打つか。破るか」
私は再び、自分の常識的な世界が揺さ振られるのを感じた。
低く、
眼球が浮かぶ暗闇の奥から、ゆっくりと発せられたものだった。
「打つか。破るか。打ち割るか……?」
暗闇から耳に届く声は、問い掛けを繰り返す。
しかし何の意図で、何について問われているかがわからない。
ただ得体の知れない存在が、人語を用いて語り掛けてきた――
それ自体はたしかで、いっそう不可思議さに拍車を掛けている。
そのどうしようもない「わからなさ」のせいで、私は肌の粟立つようなおぞましさを覚えずにいられなかった。
「
尚も眼球はこちらを凝視し、低い声で問い掛けてくる。
私は、何と答えるべきか、あるいは何も答えずにいるべきかで
脳裏の片隅には、以前に
「学校の怪談」などには、下手な答えを返すと、取り殺されてしまう化け物が少なくない。
ところがそうするうち、また対峙した事象に変化が兆した。
眼球が宙に浮いたまま、にわかに棚の物陰へ後退するような挙動を取って――
暗闇の中に溶け、私が
唸るような低い声も、もう聞こえてくることはなかった。
おもむろに呼気を
すでに危険な気配は去り、
付近には冷房が効いていて、誰かが作業する物音も聞こえた。
「おぉい浅葉くん。いったい何してんのさ、通路真ん中で固まって」
背後から突然、聞き知った声が私の名前を読んだ。
振り返ると、松井さんが
私は、棚の物陰に妙なものを見たような気がしたので……と、
すると松井さんは、そちらへ目を向けて確認してから、わざとらしく肩を
「どこにも怪しいもんは、見当たらないようだがね」と、薄く笑いを浮かべて言った。
あの不気味な眼球を視認したのは、おそらく私だけだったのだろう。
思わず自らの体験を正直に告げてしまったが、これでは
「しっかりせいよ学生さん。ぼうっとしていたって、ここの仕事は進まんからね」
松井さんは半ば
それから鼻歌混じりに身を翻し、元の持ち場に引き返していく。
私は、仕分け作業に戻ろうとして、直前に今一度、棚の物陰を目だけで見た。
暗い通路の床は、
あまり照明の光が届かない場所でわかり
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