【八月の記録】

06:八月一日(木)/新委住/打ち合わせ

 この時点で、まだ私はフィールドワークの明確な調査対象とテーマを決めていなかった。

 とはいえ決して何ひとつ当てもなく、観光気分で藍ヶ崎を訪問していたわけではない。


 藍ヶ崎で長期滞在しはじめる以前から、あらかじめ私が関心を寄せていた事物を項目別に取り上げとすれば、概ね以下の通りになる。




     *  *  *



[調査対象1-捌芽はつめ祭り]


 まず私が調査してみたいと考えていたのは、何と言っても「藍ヶ崎捌芽祭り」だった。

 毎年一〇月第一土曜日及び第一日曜日に開催されており、今年は一〇月五日と同月六日が当日に当たる。


 藍ヶ崎でもかなり古くから実施されている行事で、収穫祭の一種である。大柿谷の耶泉やいずみ神社と、陽乃丘の雨柳うりゅう神社という、二つの社にまたがってもよおされる点が特徴のひとつとされていた。

 取り分け祭祀における最大の見所なのは、開催両日にわたる「曳山ひきやま送り」だろう。地元の参加者によって引かれた曳山(山車だし)が神輿みこしと共に耶泉神社を出発し、初日のうちに雨柳神社まで運ばれ、翌日引き返してくるというイベントだ。

 私が借家の件で曽我さんのお世話になろうと考えた理由のひとつは、耶泉神社が大柿谷にあることと無関係ではない。


 そうして可能ならば、捌芽祭りには是非準備段階から、行事を手伝うかたちで参加してみたいと考えていた。

 民俗学のフィールドワークにおいては、ごく基本的な調査方法だが、出来得る限り現地住民の輪の中へ加わり、同じ目線で相手の文化を尊重する態度が重要だからだ。

 藍ヶ崎で祭りに関わる人々と価値観を共有し、仲間の一員として現地に溶け込む――

 そうすることにより現地の方々から、調査対象に対する本質的な言葉を聞き取ることができるし、そこにより深い文化への理解が生まれるわけだ。調査が長期滞在を前提とする理由も、そこにある。



[調査対象2-特産品の藍染め]


 次いで、新委住で盛んだという藍染めも、興味を引かれる文化のひとつだった。

 藍ヶ崎という地名の由来にもなった工芸品で、江戸時代に阿波あわ藩(徳島とくしま県)から移住してきた職人の手により、技術が当地に広まったという。

 こちらは地域の染織事業者が、藍染めの体験会などを定期的にもよおしているようなので、そこへ参加するところから調査をはじめるのが良いだろう。


 押尾の恋人は、奇遇にも新委住の染織工房で働いている。彼女は染物職人ではないそうだが、伝手つてを使って頼めば、多少はフィールドワークのために便宜を図ってもらえるかもしれない。



[調査対象3-名所旧跡や博物館]


 他にも藍ヶ崎には、然程さほど有名ではないものの、名所旧跡や博物館などが点在している。

 それらを丁寧に見て回り、各所で常駐している学芸員から、詳しく話を聞かせてもらいたいと考えていた。



     *  *  *




 ……ただいずれにしろ、積極的に行動するところからしか、現地調査ははじまらない。


 そこで、地元民である押尾の見識を頼りつつ、私はいっそう具体的なフィールドワークの計画を練りはじめた。

 七月三一日から八月一日に跨る二日間、午前中は二人で新委住駅前の喫茶店に居座った。

 そうして捌芽祭りの準備日程を調べ、どうすれば主催側に近い位置で参加可能かを検討した。

 また行事や伝統工芸に造詣ぞうけいが深い人物と接した際には、どのような質問を投げ掛けるべきか、差し当たり思い付く事柄を手控えていった。


 店内の一隅いちぐうでテーブルを占拠し、軽食とコーヒー数杯で長時間過ごす客は、きっと歓迎されていなかったと思う。だが店員は少なくとも表面上、誰一人嫌な顔を見せなかった。

 テーブルの上に筆記用具やノート、スマートフォンなどのデジタル端末を並べ、賢明に知恵をしぼり、うなり続ける。

 そうした作業に押尾は、終始親身に付き合ってくれ、私は密かに気恥ずかしくなるような友情を感じていた。



 尚、一両日共に午後になると、喫茶店を出て、押尾の車で市内を移動した。

 まだ藍ヶ崎の土地勘に乏しい私のため、押尾は市内各地域を簡単に案内してくれたのだ。

 七月三一日は新委住や鐘羽を中心に巡り、八月一日は陽乃丘や大柿谷を見て回った。

 おかげで藍ヶ崎大学のキャンパスをはじめ、耶泉神社と雨柳神社のある場所、染織工房が立ち並ぶ界隈なども実地にたしかめることができて、大変助かった。


 しばらくして陽が落ちると、JR藍ヶ崎駅前のファミリーレストランで夕食を取った。

 思い思いに料理を食べつつ、私と押尾はひとときフィールドワークについて忘れ、身近な話題でやり取りした。

 そのうちのいくつかは、例えば押尾が恋人とデートしたときのこととか、曽我さんから借りた家の住み心地に関すること、またはS県内で発達している藍ヶ崎以外の都市のことなどだ。



 もっとも二人で歓談し続けるにつれて、いつしか会話の内容は、再び「暗闇から凝視してくる眼球」の悪夢の件に移っていた。別段強く意識しなくとも、複数人が共有した夢の謎について、自然と関心が向いてしまう。


 しかも押尾はこのとき、殊更ことさらに思い掛けない事実を伝えてきた。


「あの悪夢の件なんだけどね、昨日新たな発見があったよ。藍ヶ崎大学の関係者で、学生以外でも同じような夢をたという人物の存在が確認されたんだ。さあ、誰だと思う?」


 押尾は、いったん食事の手を止めて言った。


「なんと石塚先生なのさ。――これは昨日のことなのだけれど、塾講師のアルバイトに出勤する前に大学へ寄ってみたんだ。まだ夏季休暇がはじまって日が浅いからか、たまさか先生も研究室にいらっしゃった。そこで雑談ついでに何気なく、例の不気味な夢のことを話題にしたんだよね。都市伝説みたいな面もある事案だし、先生も現代怪異譚の一種として関心があるかもしれないと思ってさ……」


 それが石塚准教授から、意外な反応を引き出したそうだ。

 先生も最初は純粋に興味を引かれた様子で、じっと話に耳をかたむけていたという。

 しかし押尾が先を続けるにつれ、次第に思案気な面持ちになっていったらしい。

 その後も考え込むような素振りを見せていたが、ほどなく当惑気味に口を開いた――

「実は私も数日前、非常に似た夢を視た覚えがある」と。



 改めて言及するまでもないだろうが、石塚先生は押尾が所属するゼミの担当講師であるだけでなく、私にとっても曽我さんを紹介して頂いた恩人である。

 面識があるぶん、私としては余計に驚きがちいさくなかった。先生は温厚で、かつ誠実そうな人柄でもあり、あまり諧謔に虚言をろうするような方ではない。


 だから先生が我々と同じ悪夢を視たという話も、誇張なき事実ととらえていいだろう。

 しからば、あの悪夢はどうやら、別段学生の身分に限って視てしまうものでもないらしかった。

 たしか先生は四〇代半ばで、学者としては若いが、私や押尾から見れば父親の年齢に近い。


「いったい僕らも先生も、何が原因で同じ悪夢を視てしまったんだろうね。知らず知らずのうちにどこかで、集団催眠のようなものに掛けられでもしたのかな。まるで身に覚えはないけれど」



 押尾は溜め息きつつ、首をひねっていた。

 それから、「浅葉くんはもう、夜中にうなされたりしていないかい」と問いただしてくる。

 このとき私は幸いにして、あれ以来取り立てて不気味な夢を視ていなかった。その旨を伝えると、押尾は「そうか。それなら良かったよ」と言ったのち、しかし自分は再び視てしまった、と付け足す。

 昨夜から今朝に掛けて、二度目の悪夢に見舞われたというのだ。


「昨日の夜中も夢の中で、あの眼球がこちらを凝視してきたよ。それに今回は何となく、最初に視たときより、こちらを見詰めている相手の――何というか、存在感? そういったようなものが、以前より余計に生々しく感じられたと思う。というのは、眼球が浮かぶ暗闇の中に何か……ちょっとつかみどころのない、大きな物体がうごめいている気がしたからさ。もしかすると、あの闇の中には眼球の持ち主がいたのかな。わからないけれど……」


 記憶を手繰たぐるようにして、押尾は訥々とつとつと語っていた。声音が暗く、顔色も悪い。


「それと以前に君から夢の話を聞いたとき、たしか目を覚ますと部屋の畳が濡れていたと言っていたよね? 今回は僕も似たような出来事を目の当たりにしたよ。朝方に自室の隅を見たら、床が少し湿っていたんだ。あれはどういう現象なんだろう。個人的には『消えるヒッチハイカー』を思い出すけど……いや、『タクシー幽霊』かな」



「消えるヒッチハイカー」とは、アメリカを中心に世界中で語り伝えられる現代怪異譚だ。

 夜中にヒッチハイクしている人を車で拾ったら、いつの間にか姿が消えている、という怪談のたぐいである。

 そのエピソードが日本では変容し、しばしば「タクシー幽霊」として語られていた。こちらは夜中にタクシーの乗客を目的地まで運ぶと、やはり座席から姿が消えているという話だ。

 そうして、この怪異譚では乗客が消えたあと、なぜか座席がれている場合があるらしい。

 おそらく「幽霊の存在は虚構ではなかった」ということを、暗にほのめかすための演出だろう。


 押尾は我々が視た悪夢にも、同様な要素が含まれると主張しているわけだった。

 その連想はいかにも、所属のゼミでもっぱら現代怪異譚の調査を好んでいる彼らしい。



「まったくなんでまた、急にこんな悪夢に悩まされるようになっちゃったんだろうな。君も僕も、石塚先生も……」


 押尾は、苦笑交じりに言って、コップの水を喉へ流し込んでいた。

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