04:七月二八日(日)/大柿谷/調査開始
藍ヶ崎市大柿谷で滞在をはじめてから、早三日が経過していた。
七月二五日に栄八丁目の家へ入居した際、着替えや日用品は最低限のものだけを手荷物で持ち込んだ。残りの物品は都内を出る前に宅配便で出して、翌二六日の午前中にダンボールひと箱分のそれが届いた。
そこから二七日までは近所に出掛け、商店街で食材が購入できる店の場所を確認したり、今後の調査の準備を進めたりして過ごした。
差し当たり借りた家の周辺に住む皆さんのところには、極力
……一方ではもちろん、買ってきた肉や野菜を使って料理をしたりだとか、普段の実家暮らしでは不慣れな家事にも苦闘していた。
それと偶然、スマートフォンで単発求人紹介アプリを調べていて気が付いたのだが、ここから徒歩五分で行ける場所には運送会社の倉庫があって、荷物の仕分けバイトができるらしかった。面接や書類審査なしで、日当九〇〇〇円にもならないが、
曽我さんから格安で家を貸してもらっていると言っても、学生の身分だとフィールドワーク中は滞在費で貯金がみるみる目減りしていく。週に一日か二日働くだけでも、出費の足しにはなるからありがたかった。
○ ○ ○
ところで、二七日の夜は就寝中に不気味な夢を
夢の中は静かな夜で、私は身の回りを樹木に囲まれていた。
そうして、無数の樹々と闇、それと静寂に満たされた空間で、ずっと不快感に襲われていた。
どこからかねっとりと肌に張り付くような、怪しい気配を感じる。だが付近に人影はない。
と、しばらくして不快感の正体に気付いた――
「視線」だ。
森の中の離れた位置で、夜闇へ溶け込むようにして立つ樹木。
その物陰を具に見ると、なんと二つの眼球が宙に浮遊している。
皮膚を
やがて不意に眼球の視線と、私のそれが重なった。
そのまま
目を逸らすことができず、喉から声音を発することもかなわない。
――馬鹿げている。これは夢の出来事だろう。
私は息苦しさを覚え、不条理を拒絶した。
暗闇に包まれながらも、強く心に念じる。
――自分は今、単に幻覚を視ているだけだ。
そうするうち、次第に周囲の空間がぼやけていき、夜の森は消失した。
闇の中には、私と眼球だけが取り残される。しかしほどなく眼球も、闇の奥へ引っ込むようにして見えなくなった。
直後に突然、高所から落下するような感覚に襲われる。続けて胸が圧迫され、息も詰まりそうになった。
そこで私は意識を取り戻し、ようやく覚醒した。
我に返ると、周囲は曽我さんから借りた家の和室だった。
壁掛け時計の秒針の進む音だけが、室内に響いている。
時刻は、深夜二時過ぎ。まだ部屋の内も外も真っ暗だ。
私は、床に敷いた布団の上で、上体だけ起こしていた。
冷房が利いているはずだったが、肌は薄く発汗している。息も荒い。
徐々に現実感が回復し、落ち着きを取り戻すと、喉が
水を一杯飲みたくなって、布団から抜け出す。
台所に行こうとして立ち上がり、廊下の方へ踏み出したとき、思わず足元に視線を落とした。
畳の一部がなぜか、少しだけ
微妙に畳の変色した場所が見付かって、やはり
私は、不可思議な体験に首を
○ ○ ○
この日の昼過ぎ、押尾から連絡が来た。
当初はスマートフォンのメッセージアプリでテキストを
押尾は<藍ヶ崎へ来てからの数日で、何か困ったことはあったかい>と、問い
一方でまた、現地調査で手伝えることは助力するから、直近のスケジュールを教えろという。
相変わらず世話好きで、人が
私は、今のところ不便を感じる点はなく、藍ヶ崎の居心地良さを気に入っていると答えた。
もっとも肝心のフィールドワークは、調べてみたい事物に二、三の候補があるものの、どれにいつ当たってみるかはまだ決めていない。それゆえに差し当たり、調査の段取りから練る必要がある、と伝えた。
かくして、まずは押尾にも意見してもらいながら、今後の調査計画を策定することになった。
私の関心に基づくだけでなく、地元の住民である押尾の初見も取り入れようと考えたからだ。
そうすることで、いっそう実のあるフィールドワークになるだろう、という算段があった。
じかに顔を合わせて話し合うため、押尾の側にも予定をたずねてみる。
明日と明後日は時間の空きがない、と電話口から答えが返ってきた。
月曜日の二九日は恋人とデートの先約があり、火曜日の三〇日は例の塾講師のアルバイトだという。
<彼女は大抵、土日が出勤日で、休みの日は月曜か火曜なんだ>
通話だと表情は見えないが、押尾は幾分照れた様子で話しているようだった。
私はそのやり取りで、押尾には年下だが社会人の交際相手がいることを思い出した。
地元の染織工房に勤務する女性だ、と聞かされた記憶がある。製造した染物の営業販売を担当しているらしい。アトリエに併設された店舗で接客したり、新作をギャラリーに展示したり……などといった仕事に
それで、次に会って打ち合わせするのは、月末三一日の火曜日ということになった。
さて、調査の件を確認したあとは、そのまま
再び藍ヶ崎での滞在生活に話題が
そうした会話の流れで、私は昨夜視た不気味な夢の内容を口にしてみた。
悪い夢のことなど、常識的に考えれば、何の足しにもならない
ところが押尾の反応は、いささか意外なものだった。
こちらの話に耳を
やや
<実は君と似たような夢を視たという人物が最近、藍ヶ崎大学の学内にも複数確認されている>
それはあまりにも、予期せず思い掛けない言葉だった。
<しかもね、その中にはこの僕も
押尾の話を聞きながら、私は幾分混乱していた。
――私や押尾の身には今、何が起きているのだろう?
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