【七月の記録】

03:七月二五日(木)/大柿谷/現地入り

 都内を下り列車で離れ、県境を越えてS県へ入る。

 藍ヶ崎市までたどり着くには、いったんJR星澄ほしずみ駅で乗り換えねばならない。

 そこから別の路線で尚も一時間余り揺られると、目的地の駅に到着する。

 S県藍ヶ崎市北部に位置する地域、大柿谷おおがきだにだ。


 今回のフィールドワークに際し、ここを私は調査中の拠点とすることにしていた。

 藍ヶ崎には、五月の連休中にも一度、友人の案内で予備調査に訪れている。

 そのときに今夏の長期滞在に関する算段を、事前に練り上げていた。



 大柿谷駅は、古い木造の駅舎で、小ぢんまりとしている。

 無人駅でこそないが、平日の昼間に利用者は少ないらしく、構内も比較的静かだ。

 だから改札を抜けると、こちらへ小走りに近寄ってきた人の姿にも、すぐ気付いた。


 眼鏡を掛けた黒髪の青年だ。

 柔和な面立ちで、中肉中背。水色のシャツと、ベージュのスラックスを着用していた。

 この青年が押尾聡だった。藍ヶ崎大学三年生で、私と同じく民俗学を勉強する学生だ。


 押尾には、かねてからフィールドワークの件で相談に乗ってもらってきた。

 何しろ「五月の予備調査に協力してくれた友人」というのも、他ならぬ彼なのだ。

 いつも穏やかだが、世話好きで、同世代の友人の中でも取り分け頼りになる。

 時折PCのリモート通話で連絡を取り合っているが、直接会うのは連休以来だった。


「やあ、よく来たね浅葉くん」


 柔らかな物腰で、挨拶あいさつ寄越よこしてくる。

 出迎えに礼を述べると、押尾は少しはにかんで笑った。

 次いで早速、私を駅の外へ連れ出そうとする。


「向こうの駐車場に車を停めてあるんだ。まずはそれで、曽我そがさんの家へ行こう」


 うながされるまま屋外へ出ると、駅舎の横にせまい駐車場があった。

 日中の今駐車しているのは、青い軽自動車一台だけで、それが押尾の愛車なのだった。

 押尾が運転席に座るのをたしかめてから、私も車内の助手席へ身体をすべり込ませる。



 軽自動車を発進させると、車窓の外で緩やかに景色が流れていく。

 駅前にはビルや商店が立ち並び、道行く人が見て取れたものの、それもわずかなあいだだった。

 車を五分も走らせると、辺りは人気が少なくなり、豊かな緑や田畑が視野を占領してくる。


「大柿谷から陽乃丘ひのおかの半ばぐらいに掛けては、だいたいこういう景観ばかりさ」


 押尾は、こちらの心を読み取ったような口振りで言った。


「まだ地域の端の方に行けば、好事家こうずかが喜びそうな古民家も建っているからね。ただもちろん、市の中心部とか、鐘羽かねば新委住あらいずみの界隈はもっと都市化されているよ」


 押尾の話に相槌あいづち打ちながら、私は密かに宮本みやもと常一つねいちの著作を思い出していた。

 田園の中に伸びる畦道あぜみちを見れば、軽トラックが停まっている。遠方へ目を向けてみると、工場らしき建物があった。

 地方都市の典型的な郊外とはいえ、大柿谷は民俗学の古典で語られるような風景ではない。

 しかし昭和の半ば頃までは、ここが貧しい村落だったとしても、不思議ではない気がした。



 それから私と押尾はしばらく、互いの近況などについてやり取りし、車内で盛り上がった。


 押尾は今年度から、学習塾でアルバイトをはじめている。この夏も夏期講習で、中学生を対象に社会科講師として受験対策講座を担当しているようだった。来月の中旬には、企業が所有する保養施設で、合宿の指導も勤めねばならないという。

 そうして今年のうちに目一杯資金を調達し、来年は関西地方を回遊する計画らしい。

 もちろん目的は民俗学のフィールドワークで、その際に卒業論文の題材も探すそうだ。


 友人の私には藍ヶ崎を調査地域に薦めながら、当人は他地域を見て回る、というのもおかしな話に思える。

 しかし押尾としては、地元生まれの地元育ちゆえ、藍ヶ崎には新味を感じず心惹こころひかれないのだという。

 ちなみに付け加えると、押尾は就職活動したりせず、大学院に進む予定なのだ。それで私よりも腰を据えて、じっくり二年掛かりでフィールドワークに取り組む算段である。少しうらやましい。


「僕にとって塾でのバイトは、研究の面からも有益なんだ」


 押尾は車を運転しながら、アルバイトについての持論を唱える。


「中学生ぐらいだと、まだ辛うじて『学校の怪談』みたいな話に興味がある年頃だからね。授業の合間にそれとなく話題にして、情報収集するのに都合がいいんだ。最近はどういう都市伝説が流行っているのかってさ……」


 押尾は以前から、民間伝承の中でも、特に「現代怪異譚」に対する関心が強かった。

 三年次からは所属のゼミで、いわゆるネットロアや都市伝説のたぐいを研究している。



 田舎道を軽自動車で二〇分ほど進むと、やがて立派な家屋が間近に迫ってきた。

 田園の中には、他にもまばらに住居は建っているが、前方のそれはひと際大きな一戸建てだ。

 車を敷地の前に停めて、私と押尾は家屋の玄関へ歩み寄った。出入り口の引き戸には、上部に「曽我」と彫られた表札が掲げられていた。

 押尾は、インターフォンのチャイムを鳴らす。

 内部からの応答に返事すると、ほどなく引き戸が開かれた。


 家屋の中から出てきたのは、六〇代半ばと思しき男性だった。

 細身でやや背が曲がり、頭髪は薄くなっているものの、挙措には活力がある。

 この男性は、曽我きよしさんだ。大柿谷町内会で、長年町内会長を務めている。

 今回のフィールドワークでは、あらかじめ滞在場所に関する協力を依頼していた人物だ。


「おお、久し振りだなあ押尾くん。それから浅葉くんは今日もまた、ようこんな田舎の土地まで来てくださった」


 曽我さんは、細い目をさらに細めて、私と押尾を歓迎してくれた。


「二人共、今すぐさかえ八丁目の家に向かう予定かね? ――そうか。よし、わかった。じゃあ少し待っとくれ」


 こちらの意思を確認してから、曽我さんはいったん自宅の中へ引き返す。

 それから再び玄関口に姿を現わすと、小脇にハンドバッグを抱えていた。

 庭の隅に駐車してあるセダンへ歩み寄って、「あんたがたも車で付いておいで」と声を掛けてくる。私と押尾は急いで軽自動車に乗り込み、エンジンを掛けた。



 藍ヶ崎市の市街地方面へ伸びる市道を、二台の車は法定速度で真っ直ぐ進む。

 曽我さんのセダンを追って、押尾が運転する軽自動車は大柿谷栄八丁目に到着した。

 田園地帯の大柿谷中央と比べ、小規模ながら商店街があり、集合住宅も建っている。

 付近の工場で働く人々が、家族で暮らしている地域のようだった。


 市道を途中で右折して、住宅街へ入る。

 曽我さんのセダンは、ある建家のかたわらまで来ると停車し、押尾の軽自動車もそれにならった。

 荷物を持って車から下り、一軒家の玄関前に立つ。曽我さんはハンドバッグの中から鍵を取り出して、玄関ドアの鍵穴に挿し入れた。がちゃりと鈍い金属音が鳴って、家屋は私たちのことを迎え入れてくれる。


「一応、わしが昨日も来て、家の中は簡単に掃除したり、あちこち点検したりしておいたがね。どこか不都合な箇所があったら、遠慮なくおっしゃってください」


 曽我さんは、率先して家の中に上がりながら言った。

 私は、お気遣きづかいありがとうございます、と謝意を伝える。

 親切が身に染みて、ひたすら恐縮するばかりだ。



 藍ヶ崎でフィールドワークしようと決めた際、最初の障害になると思われたのは、宿泊場所の問題だった。数ヶ月にわたって滞在するとなれば、一般的な賃貸住宅へ入居した場合、それなりの賃借料がかさむ。然程さほど経済的に余裕がない学生にとって、応分の金銭は厳しい出費だ。


 そこで押尾に相談したところ、なんと彼は自らが参加するゼミの指導教員――

 藍ヶ崎大学社会学部の石塚いしづか准教授に事情を伝えて、どこかによい宿泊先はないかと問いただしたらしい。

 すると石塚先生は、驚くべきことに「押尾くんの友人だし、真面目に勉強しているようだから協力しましょう」と言って、曽我さんを紹介してくださった。先生も過去にフィールドワークで大柿谷を訪れたとき、曽我さんから調査の過程で便宜をはかってもらったことがあり、以来相互に親交が続いているそうだ。


 そうして曽我さんは丁度、三年前から自宅の他に空き家を一軒管理していた。

 かつて空き家には娘夫婦が暮らしていたそうだが、あるとき義理の息子が仕事の都合で転勤になった。以後は曽我さんがたまに手入れに訪れるだけで、誰も住んでいない家だ。

 石塚先生はそれを知っていたので、遊ばせておくぐらいなら安く貸してみてはどうか……と、曽我さんに掛け合ったそうだった。


 曽我さんの側も「先生の紹介なら、きっと信用できる学生さんなのでしょう」と、幸いにして二つ返事で応じてくれた。

 提示された賃料は、三ヶ月半で四万円。月割換算すると、ひと月約一万一七〇〇円弱だから、水道光熱費は含まれないにしろも、破格と言えよう(ましてや一戸建てだ!)。

 さらに冷蔵庫や洗濯機といった家電、寝具の類も無償貸与してもらえるという厚遇だ。


 五月に予備調査でひと通り内見したあと、その場で滞在中にお世話になろうと決めた。

 尚、曽我さんと石塚先生には、その際に最初にご挨拶させて頂いたのだが、菓子折りを贈って平身低頭する他なかった。



「まあ数年空き家だったからって、何か化けて出たりすることはないと思うがね」


 改めて皆で家屋の状態を確認してから、曽我さんが冗談めかして言った。


「別にちまたでよく聞く、事故物件ちゅうやつじゃありませんから」


「むしろ化けて出るようなものと出くわせるなら、僕がここを研究対象にしますよ」


 現代怪異が専門の押尾は、肩をすくめて応じた。

 私も調子を合わせて、ちいさく笑ってみせた。

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