02:自己紹介

 ところで、「泥の死」事件を巡る報告へ移る前に一応、私の身の上を説示しておこう。

 ただし氏名に関して本稿では本名ではなく、「浅葉あさば晴市せいいち」という仮名を名乗らせて頂きたい。

 インターネット上で無用のトラブルを避けるためなので、閲覧者諸兄にはご理解をう。


 再度言及するが、当時は都内の私立文系大学文学部人文社会学科に在籍する三年生だった。

 あれから四年が経過した現在は、中小企業で会社員として勤務している。仮名を用いる理由と同じく個人情報につき、企業名や業種、業務内容などに関しては、秘匿ひとくさせてもらう。

「身元が明らかではないから、信用ならない」ということであれば、残念だがいたし方ない。


 学生時代にゼミで学んでいた専門分野は、民俗学だ。

 日本各地の地域毎で、異なる習俗や俗信などに関心を向け、しばしば独自に調査していた。

 尚、民俗学に惹かれたそもそものきっかけは、京極きょうごく夏彦なつひこのミステリー小説だ。古い民間伝承や怪異の説話をあつかう学問と知り、それが入り口になった。


 実際の民俗学がもっと広範な領域を扱っていて、現代的な事物も研究する分野と知ったのは、大学で本格的に勉強をはじめて以後のことである。

 とはいえ私と同じような学生だった人間は、案外多いらしい。



 私の出身大学では、ゼミ参加の学習が三年次からはじまる。

 同時に民俗学ゼミでは、多くのゼミ生がフィールドワークに取り組むようになるのが慣例だ。

 それで私も例にれず、昨年の夏季休暇が来ると、地方都市の民俗調査に乗り出した。


 民俗学における本格的なフィールドワークでは、しばしば研究対象地域にまとまった期間滞在する必要がある。そうすることで現地に在住する人々の価値観に共感し、彼らと同じ視点を獲得することが重要だからだ。


 そうして、私が当時滞在先として選んだ地域こそ、S県藍ヶ崎市だった。



 藍ヶ崎を民俗調査の対象に決めた理由には、かつて友人だった大学生の存在が挙げられる――

 友人は「泥の死」事件で、最初の犠牲者となる人物だ。

 彼を以下の文中では、私と同様に仮名で「押尾おしおさとる」と呼ぶことにしよう。このとき押尾は私と同学年で、藍ヶ崎大学社会学部比較文化学科に在籍する三年生だった。


 私と押尾は最初、民俗学の話題がきっかけで、SNSを通じて知り合った。

 その後、関西の著名な民俗学者が都内で講演した際、会場で顔を合わせて、面識を持つようになった。実は押尾もまた、ミステリーやホラーに類する小説に影響されて、民俗学の世界へ足を踏み入れた青年だった。近しい趣味の持ち主だったから、私と打ち解けるまでも早かった。


 あるとき私が「フィールドワークの対象地域にどこを選ぼうかで迷っている」と、相談を持ち掛けたところ、押尾から彼が住む藍ヶ崎はどうかと勧められ、気軽に従うことを決めた。


 結果から見れば、この何気ない決定によって、私は「泥の死」事件に深く関わることになったわけだ。

 無論だからと言って、押尾聡を恨むつもりは一切ない。藍ヶ崎を調査対象として選定したのは、あくまで自らの意思に基づく結果である。

 それにまた押尾には、短い交友の中ではあったものの、公私にわたって大いに世話になった。

 彼に対しては、感謝や追悼の念こそあれ、どうして恨むところなどあるものだろうか? 




     ○  ○  ○




 さて、次のページからは、いよいよ私が藍ヶ崎市で滞在していた当時の記録を投稿していく。


 そこで本稿の人名表記に関し、念のために一点だけお断りしておかねばならない。

「泥の死」事件の関係者は少なからず、マスコミの報道などで「都内在住の二〇代男性」というような、匿名での紹介しかされていない。

 それゆえ押尾聡しかり、実名がすでに公表されている例外を除いて、登場人物は基本的に仮名で記述している。本稿で私が浅葉晴市と名乗っていることと、同様の事情に即した措置だ。

 もちろんインターネットで検索すれば、実名報道のあった人物を特定することは可能だろうが、いちいちそれが誰かも触れたりしていない。

 これは本稿の目的が、あくまで事件の真相を伝えることにあり、事件関係者を批難することにはないためだ。


 ただし一方で、この事件の根幹に関与していたとある企業と代表取締役社長についてだけは、マスコミ報道で取り上げられていないものの、実名で記述することとした。これはかなり悩んだ末の決断だが、その理由も本稿終盤で言及する。


 どうかそれらの点をよくご理解頂いた上で、本編を読み進めてもらいたい――……

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