第13話 死の救い / 生の呪い

「止めろと言った覚えはない!」


 ディオンが御者のいる前方に向かって怒鳴り声を上げた。


(今なら逃げられるわ!)


 フィオナはドアを開けようとしたが、窓の外から護衛の騎士が顔を覗かせていた。


「ディオン様、大変です! 囲まれました!」


「なに!?」


 振り返るディオンと同時に、フィオナも後ろの窓から外を覗いた。


 辺りが薄闇に染まる中、見える範囲でも、百頭からの馬に囲まれている。その背に乗ったガラの悪い男たちは、銃剣を肩に構え、その銃口をまっすぐ馬車に向けていた。


 こちらの馬車の護衛はたった六人。発砲されたら、全員ハチの巣になってしまう。


「面倒な奴らだな!」と、ディオンは苛立ったように拳を窓に打ち付けた。


「もしかして、盗賊なの!?」


「フルーラ、そこを動くな。俺が片付ける」


 ディオンはドアを開けると、ひらりと外に飛び降りた。


(ど、どうしよう……。わたし、このまま捕らえられて、どこかに売られるの? でも、こんな貧相な娘では売り物にならないって、殺される!? ……て、ダメダメダメ! 精霊使いわたしが殺されたら、世界が滅亡してしまうわ!)


 フィオナも無我夢中でディオンの後を追って、馬車を飛び出していた。


「中にいろと言っただろう!?」と、ディオンに激しく睨まれた。


「だ、だって……」


 ディオンは何匹もの光輝く緑の猫を現しては、敵に向かって飛ばしていた。猫の姿が次々と空気に溶けるように崩れ、代わりにその場に竜巻がいくつも起こる。激しい風の渦は馬と人間を飲み込み、空高く飛ばしていった。


「いくら盗賊相手でも、精霊の力で人を殺さないで!」


 フィオナの激情に呼応するように、無数の漆黒の蝶がディオンと竜巻に向かって羽ばたいていく。


「くそっ。お前の力は厄介だな!」


 ディオンの掲げた手からは、もう猫は現れない。どうやら、フィオナの知らない間に、『呪い』をかけてしまったらしい。


 ディオンは忌々し気にフィオナを睨むと、新たに緑の猫を足元に一匹顕現させた。その猫は飛び上がったかと思うと、ディオンの背で一対の鳥のような大きな羽に変化した。


 緑に輝くその羽がぶわりとはためき、ディオンの身体は風に乗るようにすいっと宙に浮かんだ。


「フルーラ、必ず迎えに来るからな。それまで生きていろ!」


 ディオンはそう言い残して、夕陽に向かって飛んで行ってしまった。


「え、ちょっと、兄様!? わたしをこんなところに置き去りにして、生きていろですって!? あっという間に殺されてしまうわよ!」


 フィオナはディオンに向かって叫んだが、その姿はすでに豆粒のように小さくなっていた。どう考えても、声が届いたとは思えない。


 その直後、背後から抱きすくめられて、フィオナは「きゃあぁぁぁ!」と、悲鳴を上げていた。


「お願い、殺さないで! わたしを殺したら、大変なことに……!」


 フィオナは逃れようと懸命にもがいたが、簡単に拘束は解けない。それどころか、さらにきつく締め付けられるようだった。


「フィオナ姫、お迎えに来ました。あなたからの伝言、ヴィンスから確かに受け取りましたよ」


 聞き覚えのある低い声が耳元でささやかれて、フィオナはぴたりと動きを止めた。ゆっくりと肩口を振り返ると、濡れたように艶やかな黒髪が縁取る端正な顔が目に入ってくる。その薄紫の双眸と視線がぶつかって、夢を見ているのかと思った。


「ルシアン様……?」


「ああ、よかった。無事で」と、彼はほんのりと目を細めて、形の良い唇に甘やかな笑みを浮かべた。


「ルシアン様こそ、無事で……て、嘘!? 本物!? 土石流に飲まれて行方不明だって……」


「あなたのおかげで、また救われましたね」


 ルシアンはそう言って微笑むが、フィオナは意味もわからず首を傾げた。


「わたしのおかげ? 何もしていませんけど……。誰かを呪って不幸にすることはあれ、誰かを救うことはありませんから」


「そうですか? しかし、もう死にたいと思っている人間に対して、『生きろ』と言うのもまた、呪いではないでしょうか?」


「それって、もしかして……」


 六年前、フィオナがルシアンに告げた言葉――『お元気で過ごされますように』


「あの時、黒い蝶が一匹、僕たちの目の前を舞ったのを覚えていませんか?」


 抱きしめられる腕が緩んで、フィオナが振り返ると、目の前にはルシアンのまぶしいくらい麗しい笑顔があった。かあっと顔が火照って、思わず目をそらしてしまう。


「お、覚えていますけど……」


 フィオナはそう答えつつ、あの時一緒にいた人がルシアンだったことは、実はついさっきまで忘れていた。


 あの後すぐに、フィオナが精霊使いに選ばれたことが確認され、五百年ぶりの災厄の精霊使いの出現に、王宮は大混乱になったのだ。ルシアンと社交辞令のように交わした約束など、頭からすっ飛んでしまってもおかしくない状況だった。


「あれ以来、僕が危ない目に遭いそうになると、いつも黒い蝶が現れるのです。まるで死なせないと言わんばかりに。今回の土石流もそうでした」


 ルシアンの話によると、戦場で激しい雨が降った翌朝、晴れたと同時に戦闘を再開する予定だったという。しかしその時、ルシアンの目の前に黒い蝶が現れ、森の中の洞窟にいざなわれた。


 以前に伝染病が蔓延した時、ルシアンは父である前皇帝の危篤の知らせを聞いて、帝都に向かおうとしていた。しかし、それを止めるように黒い蝶が現れ、ルシアンは行くのをやめたのだ。なんて薄情な皇子だと周りからは非難されたものの、臨終の床に駆けつけた他の皇子たちは皆、感染してその後亡くなった。


 だから、今回もルシアンは蝶に導かれるまま、自軍を洞窟まで退却させた。そのわずか後のこと、土石流が発生して、帝国軍が陣営にしていた場所か完全に飲み込まれてしまった。


「洞窟の穴がふさがってしまい、脱出するのに少々時間がかかりましたが、こうして無事にあなたを迎えに来ることができました」


 溌剌とした顔でニコリと笑うルシアンを間近で見て、フィオナは流した涙を返してほしいと、心の片隅でほんの少し思ってしまった。

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