第12話 漆黒の蝶 / 緑の猫

「大きな理由の一つは、フルーラ、お前だと俺は思っている」


「わたしが原因……?」と、フィオナは問い返した。


「五百年ぶりに災厄の精霊使いが現れた。それが精霊神の意思によるものだったとしたら、世界を滅ぼしたいのが精霊神自身ってことにならないか?」


「五百年前、大陸に大波が押し寄せたのは、起こるべくして起きたことだって言いたいの?」


「そう。その結果、人間は精霊を畏れ、敬うようになった。五百年後の現在、精霊信仰はすでに廃れている。アングレシアは敬虔な信者が訪れるだけで、何の生産性もない弱小国と見なされている。再び精霊神の威光を知らしめ、信仰心を取り戻させるのなら、世界を一回滅ぼすのが手っ取り早い」


「そんなの兄様の憶測だわ! 世界を滅ぼすことが目的だったら、災厄の精霊がわたしを選ぶはずがないもの。わたしは世界の滅びなど、望んだりしないのだから!」


「けど、お前がそう願っても、災厄の精霊の親たる精霊神は? 自分の目的を果たすために、他の精霊たちを使うとは考えられないか?」


 フィオナを試すように、ディオンはゆったりと口角を上げた。


「……まさか、今の精霊使いたちは、人を傷つけることもできるの?」


 フィオナがごくりと息を飲むと、ディオンは「ご名答」と破顔した。


「六年前、お前の幽閉が決まった頃から、俺に宿る精霊が荒ぶるようになった。それこそ、どこかで力を使わなければ、自分の身が危ういと思うくらいに。他の精霊使いたちも然り。どうやらお前が精霊の力を使わない分が、俺たちの方に回されていたらしい。今はもう、望むままに精霊の力を使えるようになっている」


(だったら、どうして災厄の精霊はわたしを選んだの……?)


 精霊神の目的が世界の滅びと再生であるのなら、もっとふさわしい宿り主は他にいくらでもいるだろう。それこそディオンのような野心家の方が、使い勝手がいいのではないか。フィオナのように幽閉され、力を封じることを受け入れる人間を選ぶのは、矛盾している。


 わからないことばかりで、フィオナの頭は混乱していた。それでも一つ、ディオンのやっていることで、承服できないことはある。


「仮に精霊神の意思で、精霊使いたちの破壊行為が可能になったとしても、戦争でどちらか一方に味方をするのは、不公平だわ」


「最終的な目的は変わらないさ。まずは力をつけすぎている帝国を潰す。その次は北側諸国。最後に、今は味方側にいる西側諸国も平定して、大陸すべてを支配する。人知を超えた力を持つ俺たちこそ、新しい国の君主にふさわしいと思わないか?」


 ディオンの瞳は卑しく見えるほど、ギラギラと輝いている。どうやらこれが彼本来の性格だったらしい。


『アングレシアの地では邪な心は浄化される』


 その通りだと、フィオナもようやく認められた気がした。


「その新しい国も、結局は滅ぼすことが精霊神の意思なのでは?」


 フィオナの皮肉も、ディオンには「さあ」と軽くかわされる。


「少なくとも精霊の恩恵を感じている者が支配する国は、精霊神も喜んで祝福するかもしれないぞ」


 本気なのかどうか、ディオンはおどけたように答えた。


 フィオナはディオンを睨んだまま、束の間言葉が出てこなかったが、毅然と顔を上げて告げた。


「兄様、馬車を止めて。わたしはリヴォルティア公国には行かない。アングレシアに戻るわ」


「おいおい、フルーラ。アングレシアに戻って、死ぬのを待つだけの毎日を送るのか?」


「兄様が世界を征服したいというのなら、好きにすればいいわ。わたしは人殺しに加担するくらいなら、早死にする方がマシよ」


「それは困るな」と、ディオンは険しい表情を浮かべた。


「どうして? ルシアン様がさらいに来なかったら、わたしはずっとアングレシアにいたのよ。前と何も変わりないでしょう?」


「せっかくこうしてアングレシアから出てきてくれたとなれば、お前にはできるだけ長く生きていてもらいたいと思うだろう?」


「災厄の精霊の力を横流ししてもらえるから? ずいぶん都合のいい話ね。精霊神に洗脳されるのが嫌で、兄様自ら迎えに来ることもなかったのに」


「だから、ルシアン皇子には感謝しているよ。おかげで、こうしてお前が手に入ったんだからな」


 フィオナの手は無意識のうちにディオンの頬を張っていた。


「その口でルシアン様のことを語らないで! 兄様が殺したのよ! ルシアン様を返して!」


 ルシアンはもう生きていない。フィオナの心の奥底で、こびりついて消すことのできなかった事実を口にしたせいで、これまで張りつめていた心が一気に緩んでしまった。


 胸が焼けたようにカッと熱くなる。両手で顔を覆うと、涙がほとばしるように流れ落ちた。子どもの頃のように、わあわあ声を上げて泣きたかった。もう、誰彼かまわず八つ当たりしたかった。


「フルーラ、落ち着け! 力を抑えろ!」


 ディオンの切羽詰まった声が聞こえて手をのけると、涙でかすむ視界の中、数えきれない漆黒の蝶が彼の周りを取り巻いていた。


 こんな風に精霊の力が黒い蝶として顕現するのは、六年前、フィオナが精霊使いと発覚した日以来だった。


 バラ園でひらりと飛んだ蝶は、場所が場所なだけに、最初は花の蜜を吸いに来た普通の蝶だと思ったことを覚えている。


(そういえば、あの日って――)


 ディオンがわめきながら、苦しそうにもがき暴れていることに気づいて、フィオナははっと我に返った。


 右手を蝶の群れにかざし、「戻って」と命じる。


 黒い蝶が手の中にすべて吸い込まれても、ディオンの悲鳴だけが続いていた。


 やがて、彼も蝶がいなくなったことに気づいたのか、こわごわといったように目を開いて座り直した。みっともない姿をさらしたせいか、バツの悪そうな顔をしている。


「何をした?」


 聞かれて、フィオナは何を口走ったのか思い出してみた。


「たぶん……兄様とはルシアン様の話ができなくなる呪いがかかったと思うわ」


「くだらない呪いだ」と、ディオンは強がっているのか、フンと鼻で笑った。


「わたしは誰かの死を願うような呪いをかけたりしないわ。兄様をどんなに恨んでも、殺したりしない。その代わり、わたしにはもう関わらないで」


「そういう態度なら、無理やりにでも連れて行くぞ」


 ディオンのひざ元に緑色の猫が現れるのと同時に、フィオナも「消して」と漆黒の蝶を放った。


 一度、精霊の力を使ったことでタガが外れてしまったのか、フィオナの心の赴くままに、災厄の精霊はその力を貸してくれる。


 ディオンの時とは違い、蝶の群れに囲まれた猫は、瞬時にその姿を消した。


「それは所詮、災厄の精霊からの借り物の力でしょう。わたしに敵うはずがないわ」


 ディオンは無言のまま悔しそうに舌を鳴らした。


「兄様、もう一度言うわ。馬車を止めて。わたしは降りる――」


 フィオナが口にした途端、馬のいななきが聞こえ、前につんのめるようにして馬車が止まった。

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