第9話 第二王子 / 国からの使者
その日の午後も、フィオナはテラスのイスにゆったりと座って本を開いていたのだが、どうも話の内容が頭に入ってこない。決してつまらないわけではないのに、のめりこむほどに集中力がわいてこなかった。
(……もしかして、わたし、ルシアン様のことを心配しているの?)
ルシアンがどんなに戦術に長けていても、『天災』相手では勝ち目はない。前皇太子のように、否応なくその力に飲み込まれて、命を落としてしまう可能性はある。
そんなことを思うと、胸がキュッと締め付けられたように苦しくなった。
(どうして……? わたしはルシアン様に会えなくなるのが嫌なの?)
「理由なんてどうでもいいわ。ルシアン様、とにかく無事に戻ってきて」
日が傾き始めた西の空に向かって、フィオナは小さくつぶやいた。
その直後、不意に空気の質が変わったことに気づき、さっと辺りを見回した。
間違いなく精霊の強い気配を感じる。ここへ来てから精霊の力の薄い環境にすっかり慣れてしまっていたせいで、それは頬を殴られたくらいの衝撃があった。
「ニャア」
鳴き声が聞こえて、フィオナが足元を見ると、宝石のような緑に輝く猫が座っていた。
(この猫って……ディオン兄様!?)
間違いなく七歳年上の兄、アングレシア第二王子ディオンに宿る風の精霊だ。小さい頃に何度も見たので、見間違えるはずがない。
ディオンが近くにいるのかと思って辺りを見回したが、その姿は見当たらなかった。
「もしかして、わたしを探して……?」
猫は「ニャア」ともう一度鳴いた後、空気に溶けるようにその姿を消した。消える寸前、かすかに目を細めた表情は、ニヤリと笑ったように見えた。まるで『見つけたよ』と言わんばかりに――。
フィオナが精霊廟からいなくなって、アングレシアがそれを放置しておいたとは思えない。国内で見つからなければ、当然その捜索の範囲は他国にも及ぶ。
王女がさらわれたとなれば、一大事件になるところ、実際はただの下級神官でしかない。国を挙げて捜索したら、フィオナがどういう人物なのかと、諸外国に勘ぐられる。災厄の精霊使いの存在を秘匿し続けるために、それだけは避けるだろう。
極秘裏にフィオナを探すとなると、精霊使いの中でも、特に風の精霊を宿す者が役に立つ。空気の伝達を使って、精霊の力を広範囲で探知できるのだ。フィオナの身体から漏れ出る精霊の気配を見つけられないはずがない。
それでも、フィオナがさらわれて十日以上は経っている。それだけに大陸は広く、精霊使い一人を探すのは困難だったと思われる。
(ここが見つかった以上、誰かが迎えに来るのも時間の問題ね……)
それまでにルシアンは戻ってくるだろうか。留守の間にフィオナがいなくなっていたら、ルシアンは落胆するだろうか。
(そのまま死のうとしたりしない? それとも、またアングレシアまでさらいに来る?)
さらいに来てほしい、と願う自分に気づいて、フィオナは驚いていた。
それから三日後の昼過ぎ、アングレシア王国からの使者がこのバーナムの屋敷にやってきた。応接室に通されたとのことで、フィオナはメイドのエマに連れられて一階に下りて行った。
先導するエマも、護衛として付き従うヴィンスも、緊張した面持ちで口を閉ざしている。
ルシアンを除く使用人たちは、フィオナの存在を疎ましく思う以前に、怖がっている。
フィオナを怒らせたら。気に障るようなことをしてしまったら。災厄の精霊が不幸を起こすのではないか――
彼らがそんなことを心配しているのは、フィオナは重々承知していた。
アングレシアから迎えが来たのなら、それこそ「どうぞ、連れ帰ってください」と言いたいところだろう。
一方で、ルシアンの留守中に、フィオナを勝手に国に帰すわけにもいかない。フィオナの見る限り、皆ルシアンに忠誠心を持っている。主君を裏切るようなことはできないだろう。
使者を屋敷に入れるのか、それとも追い返すのか、そこでもおそらくひと悶着があったと想像できる。
ひと際大きな扉が開かれると、そこには広々とした部屋が広がっていた。庭につながる掃き出し窓からは、燦々と輝く日が差しこんでいる。シャンデリアのクリスタルもきらきらと虹色に輝いて、光沢のある家具をさらに豪奢なものに見せていた。
そんな華やかな部屋の真ん中にあるソファに座っていたのは、亜麻色のくせ毛をゆったりと束ねた青年だった。フィオナの二番目の兄、ディオン。物静かで近寄りがたかった上の兄クレイグとは違い、明るく活発的な兄で、歳の離れた
六年前、最後に会った時の彼は十七歳だった。その頃に比べると、少し大人びた雰囲気になっている。それでも、生き生きとした緑の瞳は、やんちゃだったあの頃と変わっていないようだ。
「フルーラ!」
ディオンはフィオナの姿を認めるや否や、満面の笑顔で立ち上がり、大股で近寄ってくる。
「ああ、君が無事でよかった。こんなにやつれた顔をして。無理やりさらわれて、さぞかし怖かっただろう。もう安心していいからな」
ディオンはフィオナの無事を確かめるように、両手で頬を挟んでゴシゴシとこする。
(この顔は神殿にいた時から、あまり変わっていないと思うのだけど……)
むしろこちらに来てからの方が、健康的な生活をしているので、肌艶が良くなったと思う。
この六年、他の兄や姉たちとは手紙のやりとりがあったものの、ディオンとは完全に音信不通だった。精霊使いとして神殿にも出入りしていたはずなのに、フィオナが沐浴のために中央神殿を往復する時も、姿を見かけたことがなかった。
(わたしのことなんて、忘れていたのではないの?)
そのせいで、ディオンがこのように手放しに喜ぶ顔を見せても、フィオナは気味が悪いだけだった。久しぶりに兄に会えてうれしいという感情がわいてこない。どこかわざとらしさの方を感じてしまう。だいたい、気取ったような『君』という呼び方も、ディオンらしくない。いつも『お前』呼びだったのだ。
「お使者はディオン兄様だったのね。てっきり、神殿の誰かかと思っていたわ」
フィオナは一歩後ずさって、ディオンの抱擁から逃れた。
「まさか。相手はラグナータ帝国の皇太子だよ。神官風情が出てきたところで、門前払いがいいところだ」
「それは確かに……」
使用人たちも隣国の王子が訪問してきたとあれば、無碍には扱えなかっただろうと想像できる。
「本来なら、クレイグ兄上が来るのが正解なんだろうけど、うちの国には護衛できるような軍がないだろう? 皇太子の兄上が危険にさらされるくらいなら、私が迎えに来るのが一番だという話になったんだ」
そうでなくても、アングレシアでは王族が婚姻以外で国外に出ることはまずない。その例外の一人が、精霊使いのディオンだ。
「危険なのは、ディオン兄様も同じことだと思うけど。精霊使いの力は、武力にはならないでしょう」
「武力にはならないけど、精霊使いは殺せない。この大陸でそのことを知らない人間はいないよ」
ディオンはニコリと笑って片目をつぶって見せた。
「……そうだったわ」
『精霊使いを傷つけてはならない』――アングレシア王国創世記に記される戒めの一つだ。
精霊使いは、いわば精霊の依り代。その身体を傷つけられたとなれば、精霊が許さない。もしも殺されるようなことがあれば、殺した者を含め、大いなる災厄がもたらされる――と言われてきた。
それは長らく形骸化した戒律だったが、五百年前、その禁を犯して災厄の精霊使いを処刑したことで、事実だと証明された。
以降、他国からの要請で精霊使いが派遣されることがあっても、その身は丁重に守られ、危険にさらされることは一度もなかった。
「さあ、フルーラ、こんなところに長居するのもなんだから、お暇しようか」
ディオンが手を伸ばしてきたが、フィオナはその手を取れなかった。
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