第10話 世界 / ルシアン
「どうした?」と、ディオンは怪訝そうに眉をひそめる。
「兄様、今はまだ行けないわ。せめてルシアン様が帰ってくるまで待ちたいの」
「どうして? ルシアン皇子は君を拉致した犯人だろう。フルーラ、まさかルシアン皇子にほだされたのか?」
「ま、まさか!」と、フィオナはとっさに叫んだが、顔が赤くなるのは止められなかった。
「わ、わたしはただ、ルシアン様に黙って出ていくわけにはいかないと思っただけで……。お世話になったし、一言お礼くらいをと……」
「皆、フルーラが一日も早く帰ってくるのを待っているんだよ。心配しているんだ」
ディオンはフィオナをなだめるようにやんわりとした口調で言った。
「……どうせ心配しているのは、わたしのことではなくて、災厄の精霊使いのことでしょう? 五百年前のように、目を離した隙にどこかの国を滅ぼして、他国から恨みを買わないように。それとも、帝国の手先になって西側諸国を滅ぼしたら困るから?」
フィオナは言いながら、涙が頬を伝うのを感じた。
(当たり前のことを言っているはずなのに、どうして涙が出てくるの?)
ルシアンが災厄の精霊の力を欲しているのかどうかはわからない。それでも、フィオナ自身の身体を気遣い、少しでも居心地よく過ごせるように計らってくれた。フィオナの好む本、好む食べ物――フィオナという人間を知ろうとしてくれた。大切に扱ってくれた。
ルシアンに指摘されなくとも、フィオナもアングレシアでの自分の扱いがどういうものかわかっていた。
それこそ国にとって災厄の目となりうるフィオナは、さっさと死んでほしい存在だ。殺すことができない代わりに、少ない食事で日に日に体力を削り、衰弱死させようとしていた。
精霊使いになりたいというフィオナの願いを叶えてくれたのが、たまたま災厄の精霊だっただけのこと。ならば、世界の平和のために死んでいく運命も、進んで受け入れるしかない。最後の日を迎えるまでに、大好きな本を一冊でも多く読めればいい。
それがフィオナにとっての幸せで、満足できる人生だと思っていた。ルシアンが迎えに来るまで、その心に一点の曇りもなかった。
(でも、ここは居心地が良すぎたの)
それが世界を滅ぼすことになってしまうかもしれないと思いながら、ここにいたいと強く願う。そんな相反する心がせめぎあっていた。
(せめてもう一度でいい、ルシアン様に会いたい)
「兄様、ごめんなさい。ルシアン様が戻り次第、わたしは帰るから。今は許して」
フィオナが涙をぬぐって顔を上げると、ディオンが困ったように眉を下げていた。
「フルーラ、待っていても無駄だと思うよ」
「どういう意味?」
「ルシアン皇子は今頃、亡くなっているはずだから」
「そんなの嘘! わたしを連れ戻そうとして、嘘をついているだけでしょう? 同じ騙すにしても、それはひどすぎるわ!」
フィオナは信じたくない一心でディオンを睨んだが、兄は動じた様子もなく、淡々と説明した。
「三日ほど前か、戦場になっている辺りに大雨が降ったんだ。ナザーレ川で土石流が発生して、その一帯が土砂に飲み込まれた。兵たちの大半が行方不明で、ルシアン皇子も見つからないらしい」
アングレシア王国のエーデル湖を源流とするナザーレ川は、ウルフェルト公国とボラッテス王国の国境になる。その川を挟んで帝国軍と西側連合軍の攻防が続いていることは、新聞にも書いてあった。
「ルシアン様が土石流に飲まれた……?」
フィオナは呆然と問い返していた。
「流れ積もった土砂のせいで、戦闘は一時休止。残った兵は、行方不明者の捜索をしている。そろそろこの公国にも援軍要請が来る頃だと思うけど、状況は絶望的だと思っていい」
(ルシアン様が、本当に……? 本当に亡くなったっていうの……?)
フィオナの中にわき上がってくるのは、悲しみより先にディオンに対する怒りだった。
「兄様、それがわかっていて、どうして助けてくれなかったの!? 戦場はアングレシアからなら、一晩もあればたどり着けるわ。地と水の精霊使いたちを派遣すれば、助けられた命もあったでしょう!?」
「フルーラ、君も知っているだろう? 精霊使いは要請があって、初めて派遣される。慈善事業ではないんだ」
「知っているけど……知っているけど、こんなことって……」
フィオナは目の前が真っ暗になって、身体から力が抜けた。その場にひざを落としそうになったところ、ディオンに支えられた。
「本当は君にこのことを知らせないまま、連れて帰ろうと思っていたんだ。短い期間とはいえ、関わりあった人間の訃報はつらいだろう。そういうことだから、一緒に帰ろう」
フィオナは抵抗する気力もなく、ディオンに抱えられるように扉口に向かった。
「申し訳ありませんが、主人の留守中に姫様を勝手にお返しするわけにはまいりません」
フィオナが顔を上げると、ヴィンスが扉の前で一歩も通さないといったように、その両腕を広げていた。
「君も話は聞いていただろう。君の主人はもういない。命令を聞く必要はないんだ。そこをどいてくれ」
ディオンがきつい口調で言っても、ヴィンスは怯むことはなかった。
「いいえ。たとえ主人がこの世にいなくとも、私は下された命令に死ぬまで従います。命令を取り消すのも、変更できるのも、主人だけです」
ヴィンスはそこから微塵も動こうとしない。ディオンは面倒だと言わんばかりに鼻を鳴らすと、空いている左手を掲げた。
「たかが護衛風情が、力づくで俺をどうこうできると思っているのか?」
フィオナが突然の精霊の気配にぶるりと身体を震わせた時、ディオンの腕の上には光が凝縮して、緑色に光る猫が現れた。
「兄様! 精霊の力は……!」
「フルーラ、忘れるな。ルシアン皇子も含め、こいつらはお前を拉致した悪人どもだ。お前を助けるためなら、精霊も喜んで力を貸してくれるさ」
ディオンの言っていることは、間違いではない。そこに悪意があるのかどうか、それはディオンに宿る精霊が決めること。善意と判断されれば、力を使わせる。
うっすらと酷薄な笑みを浮かべるディオンは、フィオナの知っている兄とは全然違った。横柄な物言いも、人を傷つけることにも慣れているように見える。
そんな兄をフィオナは初めて怖いと思った。
ヴィンスがこのまま動かなければ、ディオンは間違いなく精霊の力を振るう。無駄な争い事は避けたかった。
「ヴィンス、そこをどいて。わたしは国に戻るわ。あなたを傷つけたくないの」
(……そうよ、今ならまだ間に合うかもしれないわ)
一刻も早くアングレシアに戻り、国王に頼んで精霊使いたちを派遣してもらう。一生に一度くらい、娘のわがままを聞いてもらってもいいだろう。
土砂に飲まれて三日。絶望的と思わざるを得ない状況ではあるが、あきらめたくなかった。
(希望はまだあるって、信じるわ……!)
「姫様、私は自分の主人に従うまで。あなたを連れていかれるわけにはいきません」
ヴィンスはあくまで道を譲る気はないらしい。
「でも、わたしのお願いは聞いてくれるのでしょう? ルシアン様が生きて戻ったら、伝えてほしいことがあるの」
ヴィンスは怪訝そうな顔をしたが、フィオナは構わず続けた。
「今度こそ、迎えに来てくれるのを待っていると。ルシアン様なら、わたしが何度国に戻っても、さらいに来てくれるでしょう?」
こぼれそうになる涙を抑えながらフィオナが笑顔を向けると、ヴィンスは無言のまま小さく頷き、道を譲ってくれた。
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