第3話 励ましの言葉 / 嘘の約束
フィオナの知るルシアンは、小柄でガリガリにやせ細った少年だった。血の気のない薄ら青い顔で、今にも死にそうなほど生気が感じられなかった。
しかし今、目の前にいる青年は肌艶もよく、健康そのもので、非の打ち所のない美丈夫。黒髪に薄紫の瞳は記憶にあるルシアンと同じだが、よくて兄弟。悪ければ、ルシアンに成りすました別人としか思えない。
「まさか、そこを疑われるとは……。僕が僕であることを、どうやって証明したらいいのか」
青年は困ったようにきれいな眉を寄せた。
「仮にも帝国の皇子を名乗る者なら、それ相応の手続きの上で
「手荒な真似をしてしまったことは謝ります。他に方法がなかったもので」
「他の方法……て、あら?」
フィオナもそこでようやく、自分が置かれている状況に頭が巡ってきた。
「正式に婚姻を申し込みたくても、フィオナ姫、あなたは死んだことになっています。『フルーラ神官』も生涯幽閉。外部の者が近づくことすらできないのに、ましてや国外に連れ出すことは許されないでしょう」
青年に淡々と説明されて、フィオナは「ですよね」と、乾いた笑いを漏らしていた。
「そういうわけで、六年前の約束を果たすには、あなたを盗むしかなかったのです」
「なるほど……と、納得していい話ではありません! たかが子どもの頃の口約束で、拉致まで企てていいわけがないでしょう!?」
「てっきりフィオナ姫も僕を待っていてくれると思っていたのですが……すっかり忘れられてしまったようで、残念です」
しょんぼりと項垂れる青年を見て、さすがのフィオナも後ろめたく思う。
あの時はただ励ましたかっただけなのだ。未来に何の希望も抱いていない、いつ死んでもかまわないと虚ろな目をしていた少年を。
そういう彼だったからこそ、『第八皇子では結婚することはできません』などと、現実を突きつけてプロポーズを断ることができなかった。六年後の約束をすることで、少しでもそれが生きる希望になればいいと、つい口から出てしまった結婚の承諾だった。
(それが嘘の約束をしたことになってしまうの……?)
「あなたが本当にルシアン様でしたら、約束通りに迎えに来てくださったこと、お礼申し上げます。でも、あの頃とは状況が違います。わたしは国を離れるわけにはいかないのです。どうかわたしのことは忘れてください」
精一杯の誠意を込めて、フィオナはペコリと頭を下げた。
居心地の悪い沈黙が続くので、フィオナがちらりと青年を覗き見ると――死んだ魚のような光のない目をしていた。
(こ、この暗い目、間違いなくルシアン様だわ!)
「この六年、僕はこの日のために生きてきました。あなたが手に入らないとなれば――」
カチャ、と金属音が聞こえて見下ろすと、ルシアンは腰から銃を抜こうとしていた。
「待って、待って、待って! 早まらないで!」
フィオナは必死の形相で彼の手に飛びついていた。
「では、僕と結婚していただけますか?」
ここできっぱり『無理です』と答えたら、ルシアンはそのまま自分を撃って、目の前で死んでしまう。
「……じ、時間をもらえませんか!? 六年前に会っているとはいえ、数日のことですし……結婚を考える前に、お互いを知った方が良いと思うのです!」
まずは時間の猶予が必要だ。その間にルシアンを説得して、あきらめてもらえばいい。
それが今、フィオナがここで選べる最善の策だったはずなのだが――
これがいけなかった。
「やはり、あなたはやさしい人ですね」
最初からこれを狙っていたのではないかと思うほど、ルシアンは満足そうに微笑んでいた。
馬車は話している間にも走り続け、不意に眩しい光がフィオナの目を刺してきた。霧のかかった薄暗い山道を抜けたようだ。窓の外には初夏の陽光が降り注ぐ青空が広がっている。
精霊廟に幽閉されてから、フィオナが中央神殿を往復するのは、日が完全に落ちてから。部屋にも高い位置に小さい窓があるだけだった。こんな風に昼の日差しを見るのは久しぶりだ。
(うんざりするほど、いいお天気だわ……)
この六年、日の当たらない生活が当たり前だったフィオナには、まぶしすぎる。
窓の向こうは山麓に広がる牧場、果てが見えないほど広い畑と、次々と景色を変えていく。
「目的地が見えてきましたよ」
ルシアンの指さす前方を見ると、行く手には城壁に囲まれた町と、高台の上に尖塔のある宮殿のような大きな建造物が見えた。
「もう帝都に着くのですか?」
ハルスワナ大陸中央にあるアングレシア王国から、南端のラグナータ帝国の都グナルタンまでどれくらいの距離があるのか。少なくとも『遠い』ということは感覚的にわかる。眠らされている間に、どれだけの時間が経ってしまったのか。
「いえ。バーナムにしばらく滞在する予定です」
「思ったより近いところだったのですね」
アングレシア王国と南の山脈を挟んだ麓にある国、ウルフェルト公国。バーナムはその都になる。ラグナータ帝国の支配下に置かれて、二十年ほどが経つ小さな国だ。
(そういえば、ルシアン様のお母様がウルフェルトの方だったはず……)
生まれた時に母親を亡くしたルシアンは、帝都ではなく、母方の実家のあるバーナムで暮らしていると言っていた。身体が弱いこともあって、静養も兼ねていたのだろう。六年前にアングレシアに巡礼に来たのも、祖父にあたるウルフェルト公主が半強制的に手配したものだったとか。
今はどうかわからないが、当時はアングレシアと国境を挟む国だけあって、精霊信仰がまだまだ根付いている国の一つだった。
「山を越えれば、すぐに帰れると思っているのですか?」
ルシアンがいたずらっぽく目を光らせるので、フィオナはフンと鼻を鳴らした。
「さすがにそのようなことは思いません。歩ける距離ならまだしも、わたしの足で山を越えられるはずがないでしょう。それとも、帰りたいと言ったら、馬車を用意してくれるのですか?」
「簡単に帰すつもりなら、今頃この馬車は逆方向に向かっていますね」
ルシアンは窓枠に肘をついて、魅惑的な眼差しを向けてくる。
「そうでしょうとも」
フィオナはぷいっと顔をそむけた。
バーナムの城門を通り過ぎ、街の中を抜けて馬車が止まったのは、きれいに整えられた庭付きの大きな屋敷だった。高台にある宮殿ではない。
「さあ、着きましたよ」
馬車のドアが開かれたと同時に、フィオナの身体はふわりと抱き上げられた。
「ふ、ひゃ、は!?」
ルシアンのしっかりした体つきをじかに感じて、フィオナは裏返った変な声を出していた。恥ずかしさと恐怖が一緒くたに襲ってきて、無意識のうちにじたばたと暴れてしまう。
「いやあぁぁぁ! 離して! 下ろして!」
「裸足のまま歩かせるわけにはいかないでしょう」
「誰のせいで靴を履いていないと!?」
「僕のせいなので、責任を取って部屋まで運ばせてください」
「そんな責任は取らなくていいです! 裸足で結構です!」
「あまり騒ぐと、その口をふさいでしまいますよ」
「口をふさぐって……?」
「両手はふさがっているので、唇で、になりますが」
ルシアンの顔が触れそうなほど近くにあることに気づいて、フィオナの頭は再び爆発しそうになっていた。
「閉じます! もう騒ぎません!」
フィオナがキュッと唇を閉じると、クスクス笑うルシアンの顔は離れていった。
「ルシアン様、お帰りなさいませ」と、使用人たちに出迎えられる中、フィオナはおとなしく部屋まで運ばれるしかなかった。
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