第2話 麗しの青年 / 拉致犯

 アングレシア王国は精霊神と人間との間に生まれた子が創った国とされ、このハルスワナ大陸では最古の王国になる。その国土はおおよそ大陸の中心に位置し、大きなエーデル湖を囲むように、四方は険しい山脈に囲まれている。人口千人程度の小さな国だ。


 精霊は草木や水、炎や石など、万物に宿っている目には見えない存在。アングレシアの地はその精霊たちの恩恵を受けて、一年中温暖な気候で程よく雨が降り、樹木や作物がよく育つ。地上の楽園とも言われている。


 すべての精霊たちの親となる精霊神は、エーデル湖の真ん中にある小島に生えるトネリコの巨木に宿っている。その島が精霊信仰の中心――聖地であり、その巨木を囲むように、白い石造りの神殿群が並ぶ。


 フィオナにあてがわれた部屋は、神殿群の中でも一番西側の、精霊廟と呼ばれる一番小さな建物の中にある。ここはもともとめったに扉が開かれることはなく、参拝者が訪れることもない。


 室内には白い棺がいくつも並んでいるだけの、いわゆる遺体安置所。フィオナを世間から隠して住まわせるにはちょうど良いと、奥にある物置だった小部屋が改築されたのだ。


 そこにいたフィオナをさらうとなると、まず精霊廟の鍵を開けなければならない。その鍵があるのは、中央大神殿にある神官長室で、許可なく持ち出すことはできない。鍵を壊したのなら、それ相応の音が聞こえてもいいところだが、ノックの音が聞こえるまで、フィオナの耳には何も届かなかった。


 日暮れと同時に橋の門は閉ざされ、湖の真ん中にある小島への出入りはできなくなる。フィオナを拉致した犯人は、舟を使ったのか、それとも昼間からこの島に潜伏していたのか。


 いずれにせよ、フィオナをさらうのは、容易なことではない。


 そもそもアングレシアの地では、人間の悪意は精霊たちに浄化されると古くから伝えられている。外から来る人間も、邪な心を持つ者は、一年中山を覆う『迷いの霧』と呼ばれる白い霧にまかれて、入国できないらしい。


 現にフィオナが知る限り、窃盗や誘拐、殺人など、大きな事件が起こったことは一度もなかった。アングレシアはいつも平和で平穏。特別な事件は決して起こらない。だからこそ、現実では起こりえない事件が物語となるミステリーが面白いのだ。


(でも、そんなの結局、おとぎ話だったのね……)


 思い込み、もしくは迷信。


 精霊信仰心が篤いアングレシアでは、誰も疑わなかっただけなのかもしれない。外から来る人間も同様に、山を越える時に霧の中で迷った人が、そんな話を吹聴しただけのことなのだろう。


(みんな、平和ボケしていたせいで、こんな拉致事件なんて起こったんだわ)


 夢うつつの中、フィオナが取り留めのないことを考えていたところ、ゴトンと身体が跳ね上がるように揺れた。


 はっと目を開いて起き上がると、そこは座り心地のいいソファの上だった。さらわれたというのに、手足は縛られていない。ゴトゴトとかすかな揺れを感じることから、馬車の中ということはすぐにわかる。しかも、王侯貴族が使うような豪奢な内装の馬車だ。


 窓の外は白い霧がかかった常緑の木々が流れていく。霧のせいで日差しは見えないが、夜はすでに明けているらしい。


「目が覚めましたか?」


 艶やかな声に振り返ると、間近に麗しい青年の顔が迫っていた。隣に座っている彼との距離を鑑みると、どうやらひざ枕をしてもらっていたらしい。


 フィオナはカアッと顔が赤くなるのを感じて、慌てて顔をそむけた。


「い、いったい、どういうつもりでわたしをさらったの!? 何をさせようとしているの!?」


「さらったのではなく、迎えに来ただけですよ。約束したでしょう?」


「約束……?」


 フィオナが眉根を寄せて改めて青年を見ると、彼はフィオナの右手を取った。


「六年前、アングレシア王宮のバラ園で――」


 優雅な仕草で指先に口付けられて、フィオナは反射的に「ひえっ」と、その手を払いのけていた。


(こういうことは、恋愛小説の中だけの話ではないの!?)


「す、すみません! ええと、お名前は……? 失礼ですけど、記憶になくて……」


 六年前に王宮で会ったとなると、フィオナが幽閉される直前ということになる。


 当時は外国の王侯貴族の訪問があると、同じ年頃の子女は主にフィオナが案内していた。年に四回花を咲かせるバラ園は、王宮の中でも自慢の名所で、必ず見せる場所の一つだった。


(……でも、六年前とはいえ、こんな男の子を案内した覚えはないのだけど)


 青年は束の間ショックを受けたように絶句したが、気を取り直したのか、ニコリと笑みを見せた。


「ルシアン・ディル・ラグナータ、ラグナータ帝国の第八皇子です。記憶にありませんか?」


 言われて初めて、フィオナの記憶も呼び起こされた。


 もとは南の海に面した小さな王国だったラグナータ帝国は、このハルスワナ大陸の小国を次々と平定し、その勢力圏を広げている。


 帝国は海を隔てた他の大陸との交易が盛んで、海外からの人の出入りも多い。そんな大陸外人がもたらしたのは、物資だけでなく、唯一神フェルトラ信仰も入っていた。アングレシア王国を中心とする精霊信仰は、帝国では少数派になっている。


 この六年、フィオナが公務に関わることはなかったが、あの当時でさえラグナータ帝国から訪れる客は珍しかった。


 三つ年上のルシアンは、生まれた時から身体が弱く、生死をさまようことも多かったと言っていた。アングレシアには半ばあきらめの境地で精霊の加護を求め、巡礼に来ていたのだ。


(バラ園で交わした約束って、確か――)


『国に戻られても、わたし、ルシアン様のために毎日精霊たちにお祈りしますからね。お元気で過ごされますようにと』

『では六年後、もしも僕が生きていたら、お迎えに上がってもよろしいですか?』

『はい。お待ちしております』


(……ええ、確かに約束したわ。でも、でも、ただの社交辞令で、本気ではなかったのよ!)


 アングレシアの地がいくら精霊たちに祝福されているとはいえ、その土地の大半は湖。国民が飢えることのない量の作物が取れる農園と、巡礼者を迎え入れる宿泊施設や飲食店があるだけ。物を作り出す技術もなければ、特別な産業もない。アングレシアは建国以来二千年ほど、時が止まっている。


 その間にも周辺諸国はどんどん発展して、便利な道具や設備が使われるようになり、生活は豊かになっていった。自国でそういう物を作れないアングレシアは、すべて輸入に頼らなければならない。


 差し出せるものと言えば、まずは王族の姫、つまり政略結婚。通例として、相手は君主か太子に限られる。ラグナータ帝国の第八皇子、皇太子でもないルシアンとの婚姻がまずありえないことは、十歳のフィオナでもわかっていた。


「約束したことは思い出しましたけど――」


「思い出してくれましたか?」と、青年はぱあっと顔を輝かせた。


「あなた、本当にルシアン様ですか? わたしの記憶にある姿と、ずいぶん違うようですけど」


 フィオナは不信感全開で青年を眺め回した。

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