第36話
私、マーク・ジェンキンスは深呼吸を繰り返しながら、地下文明の中枢へと続く長い廊下を歩いていた。壁面に埋め込まれた光パネルが、私の歩みに合わせてゆっくりと明滅している。その光が作り出す幻想的な陰影が、私の心の中の混沌を映し出しているかのようだ。
数時間前、私はナオキたちと別れ、レイナからの指示通りに地下文明へと戻ってきた。しかし、その過程で何が起こったのか、私の記憶は断片的で曖昧なものでしかない。まるで霧の中を手探りで進むように、私は自分の意識の中を彷徨っていた。
官僚機構の執務室の前に立つと、ドアが静かに開いた。中から漏れ出る柔らかな光に導かれるように、私は中に入った。
「ジェンキンス」
レイナの声が、部屋の奥から聞こえてきた。彼女は大きな半円形のデスクの向こうに座っており、その姿は威厳に満ちていた。壁一面を覆う巨大なホログラフィック・ディスプレイには、地上の様々な風景が映し出されている。砂漠、海、森林...かつての地球の姿だ。
「レイナ...」
私は彼女の名を呼んだ瞬間、激しい頭痛に襲われた。それは、長い間閉ざされていた扉が一気に開かれたかのような感覚だった。記憶が、洪水のように私の意識を満たしていく。
「ああ...」
私は膝をつき、頭を抱えた。目の前で、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。
私が地上に送り込まれたこと。 ナオキたちとの出会いが計画されたものだったこと。 そして、これら全てがレイナの描いたシナリオの一部だったこと。
私の意識が徐々に現実世界へと引き戻されていく。まるで深い眠りから目覚めるように、記憶の断片が次々と結びつき、やがて一つの大きな絵として私の脳裏に浮かび上がる。目を開けると、そこは地下文明の中枢、官僚機構の最上階にあるレイナの執務室だった。
「お帰りなさい、ジェンキンス」
レイナの声が、柔らかくも威厳を持って響く。彼女は大きな窓の前に立っていた。窓の向こうには、地下文明の壮大な景色が広がっている。数千メートルにも及ぶ巨大な地下空洞。その中に、まるで逆さまの摩天楼のように、無数の建造物が吊り下げられている。青白い人工の光が、この地下都市を昼のように照らしだしていた。
「レイナ...」私は言葉を絞り出す。「これは一体...」
「思い出したようね」レイナが振り返る。その瞳に、勝利の色が浮かんでいるのが見て取れた。
私は深く息を吐き出す。そう、全てを思い出した。ナオキとの出会い、『硫黄の楽園』での生活、そしてアリストとの交渉。全ては綿密に計画されたシナリオだったのだ。
「見事な芝居でした」私は苦笑いを浮かべる。「まさか、ここまで大掛かりな計画だとは」
レイナは優雅に微笑んだ。「ありがとう。でも、これはほんの序章に過ぎないわ」
彼女は大きく腕を広げ、窓の外を指し示す。「見て、ジェンキンス。これが私たちの築き上げた世界よ。そして今、私たちはこの世界を地上へ、そして宇宙へと広げようとしているの」
私は思わず息を呑む。レイナの言葉は、かつての記憶を伺わせる。数十世紀前、人類が地下へと逃げ込んだ時の屈辱。そして、その後の長い歳月。
「マキャベリは言ったわ」レイナが静かに語り始める。「『賢明な君主は、常に偉大な人物の行動を模倣すべきである』と。私たちは今、かつての偉大な征服者たちの足跡をなぞろうとしている」
「しかし」私は疑問を口にする。「なぜそこまでして...」
「文明が地上に戻った後も、私たち官僚機構の権力を維持するため?」レイナが私の言葉を遮る。「そう、その通りよ。でも、それだけじゃない」
彼女は再び窓の外を見やる。その目には、遥か彼方を見つめるような光が宿っていた。
「私たちには責任があるの。人類を導く責任が。『創世記』にこうある。『地を従わせよ』と。私たちは今、まさにその使命を果たそうとしているのよ」
私は黙って聞いていた。レイナの言葉には、狂気とも取れる熱情が滲んでいる。しかし同時に、その論理の明晰さに圧倒されていた。
「火星のプロジェクトのことは」私は恐る恐る尋ねる。「本当に...」
「ああ、あれね」レイナが軽く笑う。「あれは完全なブラフよ。でも、効果は抜群だったでしょう?」
「驚きました」私は正直に告白する。「そんなこと、許されるのでしょうか」
レイナは肩をすくめる。「結果に繋がれば問題ないのよ。そもそも、同じようにして地下文明にかつての地球の生物種を持ち込んだのは私なのだから」
私は再び息を呑む。レイナの存在が、改めて巨大に感じられた。数十世紀もの間、意識の連続性を保ち続けてきた彼女。その経験と知恵の深さは、私の想像を遥かに超えている。
「さて」レイナが私に向き直る。「あなたの役目はまだ終わっていないわ。これからが本番よ」
「本番...ですか?」
「そう」レイナの目が鋭く光る。「人類を再び地上へ、そして宇宙へ。その壮大な物語の、重要な役者になってもらうわ」
私は深く息を吐き出す。かつての屈辱を晴らし、人類の新たな時代を築く。その壮大な計画の一端を担うことになるのだ。
「覚悟はできています」私は静かに、しかし力強く答えた。
レイナは満足げに頷く。「良いわ。では、新たな『劇場』の準備を始めましょう」
窓の外では、地下文明の灯りが煌めいていた。それはまるで、宇宙に散りばめられた無数の星のようだった。私たちの野望は、その星々をも飲み込もうとしている。
人類の新たな章が、今まさに幕を開けようとしていた。
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親愛なる不毛の地 @uyuris
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