小学生最後の夏に

大田康湖

小学生最後の夏に

 令和六年八月。僕、たちばな功輝こうきにとっては小学生最後の夏休みだ。隅田川すみだがわ河川敷の台東たいとう区少年野球場では、僕たちの野球クラブ『浅草橋あさくさばしブリッジス』と江東こうとう区の『亀戸かめいどドアーズ』との交流試合が行われていた。熱中症予防のため、午後三時から試合を行っている。

 試合は1対2で後攻の『亀戸ドアーズ』がリードしている。9回表2アウト、2番の榎本えのもと由羽ゆうがヒットで出塁し、3番の僕に打順が回ってきた。

「後は俺に任せとけ」

 ネクストバッターズサークルに向かう4番の小森こもり耕介こうすけが、僕の背中を叩く。センターを守っており、僕の親友でもある。

「精一杯やってこい」

 ベンチからメガホンで叫ぶ松中まつなか公夫きみお監督の声を聞きながら、僕は打席に入った。一塁では榎本がリードしながら盗塁の隙をうかがっている。榎本はチーム唯一の女子だが、ファーストを任されており、盗塁も得意だ。

 マウンドには『亀戸ドアーズ』のエースピッチャーが立っている。これまでの打席では打ち取られていることもあり、なんとしても打ち返してやりたいが、球の勢いは少しも衰えていない。

 2ストライクとなったところで、榎本がピッチャーの隙をうかがい、二塁に滑り込んだ。

(よし、今だ!)

 僕はバットのグリップを握りしめる。球の出所を見抜こうとピッチャーを見つめ、そのままボールに向かってスイングした。

 ピッチャーの日焼けした浅黒い腕から繰り出される速球が、瞬く間にミットに吸い込まれていく。

「ストライーク! バッターアウト」

 審判のコールが耳に響いた。


 試合は『浅草橋ブリッジス』の敗戦で終わった。松中監督が呼びかける。

「みんな、よく頑張ったな。まずはしっかりクールダウンするんだぞ」

 僕たち選手は用具の後片付けをした後、ストレッチをしていた。ベンチ前では、選手の父母が冷たい麦茶やスポーツドリンクを準備している。

「折角盗塁までしたのに、ホームに返せなくてごめん」

 僕は榎本由羽に謝った。榎本は汗で濡れたショートカットの髪を拭きながら答える。

「橘君は精一杯やったんだから、謝らなくていいよ」

「ありがとう」

 いつも大らかな榎本だが、今日はいつもと雰囲気が違うように感じる。この夏で6年生はチームを引退し、一緒にプレイできるのもあとわずかだからだろうか。

「ところでさ、橘君は中学でも野球するの?」

 榎本の問いに僕はストレッチの手を止めた。

「うん、小森と中学の野球部に入ろうと思ってるよ」

「あたしは悩んでるんだ。女子で野球やってるのは周りにいないし、中学になったら別のスポーツをやってみようかなって」

「そうか。榎本ならきっとうまくいくよ」

 僕は榎本にそれしか言えず、ストレッチを続けることしかできなかった。


 家に帰った僕はシャワーを浴び、双子の妹の桃美ももみと共におやつを食べていた。マンガ家の母、梨里子りりこは外出中、祖父の高橋たかはし周央すおうと祖母の椿つばきは階下の店舗『ファッション・カイドウ』にいる。

「このコーヒーゼリー、私がママと一緒に作ったんだよ」

 桃美が誇らしげに言うのを聞きながら、僕はさっきの榎本の言葉について考えていた。

「なあ、桃美は榎本由羽と同じクラスだったよな」

「そうだけど、何かあったの」

 僕の問いに桃美は不思議そうに尋ねる。

「中学生になったら野球以外のスポーツをするって言ってたんだ。何か他に得意なスポーツがあるのかなって」

「もちろん、50メートル走は速いし、バスケもうまいよ。でも私、由羽さんにはもっとして欲しいことがあるんだ」

「なんだい?」

 桃美の目が輝いている。何かを企んでいるサインだ。

「夏休みの自由研究でコスプレ衣装を作るつもりなんだけど、由羽さん、『キラぼしファイティングガール』のカグヤちゃんに似てるから、モデルになって欲しいなって」

 『キラ星ファイティングガール』というのは桃美や父の美津則みつのりがよく見ている女の子の格闘技アニメだ。カグヤは黒髪ショートカットのキャラクターだということくらいしか僕は知らない。

「桃美の趣味に無理矢理つきあわせるなよ」

「功輝こそ、もしかして由羽さんのことが気になるの?」

 桃美の問いに僕は反射的に言い返した。

「このおせっかい」

 僕たちの間に不穏な空気が流れそうになったが、父が食洗機の皿を片付けながら呼びかけてきた。

「二人とも、今日の夕飯は外の店に行くから、おやつはほどほどにな」

「外食?」

 桃美が父に顔を向ける。

「ママが今、マンガの取材に行っている亀戸の『Ronろん』ってお店に行くんだ。オリジナルハンバーガーが名物だってさ」

「亀戸か」

 桃美はすっかり機嫌良くなったが、今日の親善試合での三振を思い出した僕は、悔しさがこみ上げてきた。

(榎本が納得して引退できるよう、次の試合では絶対勝たないとな)


 18時半過ぎ、僕たちは店番の祖父母に見送られ、総武そうぶ線の電車に乗って亀戸駅に向かった。

「どうして車で行かないの?」

 桃美が父に尋ねる。

「お店に駐車場がないし、僕もお酒が飲みたいからね。ママが席を予約して待ってるよ」

 夕闇の車窓に見えるスカイツリーの明かりに目をやりながら、僕は桃美に言われた言葉を思い出していた。

(確かに榎本はいい奴だ。でも野球クラブ以外の榎本さんは知らないし、きっと僕のこともチームメイトとしか思ってないよな)


 駅から少し離れたビルの地下に、『ダイニングバー Ron』はあった。階段を降りて店に入ると、入り口近くのテーブルにいた母の梨里子が出迎える。

「みんな、わざわざありがとう」

 カウンターからメニューと水の入ったグラスを持って、蝶ネクタイにベストスーツ姿の老人がやってきた。母が紹介する。

「こちらが丹後たんごろんさん。お店のオーナーで、横澤よこざわさんのお友達よ」

 大叔父の横澤康史郎こうしろうさんは去年亡くなっている。母のマンガの登場人物のモデルになっているので、子ども時代の学生服姿の印象が強い。

「大叔父さんのことや、昔のお店の話を色々聞かせていただいたの。本当にありがとうございます」

「いえ、こちらこそ懐かしい話を久しぶりにできて良かったです。うちのお酒と料理もぜひ味わってください」

 丹後さんが頭を下げると、早速桃美が声を上げた。

「じゃあ、私名物のハンバーガーがいいな」

 その時、店の奥の扉が開き、男の子が入ってきた。僕は思わず声を上げる。

「君は!」

 着替えてこそいるが、浅黒い顔立ちの男の子は、さっきまで対戦していた『亀戸ドアーズ』のピッチャーだ。

「ひ孫の大河たいがです。店の跡継ぎになる孫夫婦と同居してまして。橘さんの息子さんのチームと今日試合をすると分かったんで呼んだんです」

「先に話すとお互い気にすると思ったんで隠してたの。ごめんなさいね」

 丹後さんと母の説明に僕はうなずいた。

「俺は丹後大河。今日は楽しかった。君は中学でも野球を続けるのかい」

 大河に尋ねられ、僕は胸を張って答えた。

「そのつもりだよ」

「俺もだ。今度は都大会で対決しよう」

「ああ。今度はきっと打ってみせるよ」

 思いがけない再会に、僕は新たなライバルができたように感じた。


 桃美のリクエスト通り、ハンバーガーとフライドポテトの盛り合わせがテーブルに運ばれてきた。パンに分厚いビーフパテとレタス、トマトが挟んであり、とても一口ではかぶりつけない。その横で母と父は、丹後さんがシェイクしたカクテルを飲みながら僕の今日の試合について話していた。

「そう、試合は負けてしまったのね」

「もう一息だったんだけどね。ま、ピッチャーの丹後君が良かったから仕方ないよ」

「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 僕は思い切って父と母に呼びかけた。

「チームメイトの榎本さんが、『今年野球クラブを引退したら別のスポーツをしたい』って言ってたんだ。確かに女子が野球を続けるのは大変だし、榎本の気持ちが一番だと思うけど、ずっと一緒にやってきたから寂しい気持ちもあるし。もしパパやママにそんな友達がいたらどうする?」

 僕の問いかけに、ママはグラスを置くと笑顔で答えた。

「そうね、私にとってはパパがそうだったな」

「パパが?」

「そう。パパは高校のマンガ研究会の先輩で、会誌を一緒に作ってたの。ただ、パパは大学受験をする時に『マンガを描くのは休む』と言って、そのまま引退しちゃった。私はパパの描く話が好きだったから残念だったけど」

 父はポテトをつまみながら言った。

「ママのマンガを見て、あきらめがついたんだ。僕はとてもかなわないってね。それにママは雑誌のコンテストにも入選して、編集者からスカウトされていた。ママはマンガ家としてきっと成功すると思ってたし、そのためならアシスタントも手伝うって言ったんだ」

 母は父を見ながら話を続けた。

「私はパパともっとマンガの話がしたかったし、もしかしたらまた描きたくなるかもと思って、大学生になったパパにアシスタントをお願いしたの。結局そのまま結婚して、パパはうちのお店を継いでくれたのよ」

「『ファッション・カイドウ』の三代目になって、パパは後悔してない?」

 いつの間にか話を聞いていたらしい桃美が割り込んできた。

「もちろん。コスプレショップとか、新しいお得意さんもできたしね。ママのマンガの公認グッズも作ったし、これからも浅草橋を盛り上げるためにがんばるつもりだよ。パパのマンガ家になりたいという夢は叶わなかったけど、今はママのマンガを応援できることが嬉しいんだ」

「そっか、ママはパパの推しなんだね。私もお店の四代目になれるようがんばろうっと」

 残りのハンバーガーを食べにかかる桃美を見ながら、僕は父と母の結婚したきっかけについて考えていた。父が僕に話しかける。

「功輝、夢をずっと持つのは大事なことだけど、いろんな理由で諦めなくてはいけないこともある。でもそれで終わりじゃない。また新しい夢を持つことはできるし、それを応援するのも、友達だからこそできることだと思うよ。いつか功輝が悩むことがあったら、いつでもパパやママに相談して欲しいんだ」

(僕にはパパとママがいるけど、榎本さんには誰もいないかもしれない。僕は榎本さんの味方になって新しいチャレンジを応援しよう)

 そう思った僕は、父と母に答えた。

「うん。俺も榎本さんが新しいことを始めたら応援するよ」


 翌週の土曜日、桃美に呼び出された僕が『ファッション・カイドウ』に入ると、意外な客が店内にいた。榎本由羽だ。

「橘君、こないだは後押ししてくれてありがとう」

「もしかして桃美に頼まれたのか」

 榎本の代わりに答えたのは桃美だった。買い物かごに入った布地やリボンを抱えている。

「由羽さんにコスプレの話をしたら、『キラ星ファイティングガール』を見てるって言って、喜んで引き受けてくれたんだ。中学に入ったら格闘技の部活に入ろうと思ってるんだって」

「そっか、新しいスポーツって格闘技だったのか。応援してるよ」

 そう呼びかけた僕に、榎本は笑って答えた。

「もちろん、野球も引退するまでは精一杯やるよ」

「ああ、今度はきっと勝とう」

 僕は自分の胸を叩く。僕たちの小学生最後の夏は、もう少し続きそうだ。


おわり

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