Cheek to Cheek を口ずさみ

御新香ころりん

第一話 思い出のレコード

 第一話 『思い出のレコード』


 春の柔らかな陽射しが街を包み込む中、古びたレコード店の扉が静かに開いた。店前を掃除していた神経質そうな眉毛を持った瘦身長駆のまだ若い男が店内に入ってきた。どうやら店主らしい男は掃除用具を片付けながらもハンディモップで商品を拭くことも同時にこなしている。綺麗に清掃された店内には、どこか懐かしいメロディが流れ、時代がかったレコードやCD、カセットテープが整然と並んでいる。店主の度会茂雄わたらいしげおは、今日も一人で店を切り盛りしていた。

 サブスクリプション全盛の昨今、近隣のレンタルショップや大手CDショップは軒並み潰れ、現在ではレコードとCDを取り扱うのはこの『度会レコードショツプ』のみとなっていた。経営は苦しいが先代以来のお得意様や実物音源にこだわる常連客、カセットテープやビデオテープ、LDやMDなどレトロなものの相談にも応じる多角営業により満足度の高いお店として近隣住民や音楽ファン、熱狂的デスメタラー達に愛され、ほそぼそと店の看板を守っていた。

 あるお客の少ない昼下がり、見慣れない若い女性が店におずおずと入ってきた。派手さはないが気品と凛とした雰囲気を持つ彼女の名前は石上雪いしかみゆき。彼女は、音楽愛好家であった祖父・健一が大切にしていたレコードを探しているのだという。祖父が亡くなった後、雪は母と祖父の遺品を整理しているうちに、彼が愛してやまなかった音楽に興味を持つようになったのだ。そのうち、幼い頃祖父がよく聞かせてくれていた大好きなレコードの一枚が見当たらないことに気づいた。名前もおぼろげなその一枚をなんとか見つけようと近隣のレコード店をインターネットで調べるうち、一部の音楽愛好家達の間で熱狂的人気を持つ『度会レコードショツプ』を知り、訪ねて来たのだという。

「こんにちは。何かお探しですか?」

 始めて入るレコードショップの雰囲気に飲まれ、目を白黒させながら右往左往する雪に、度会が笑顔で優しく声をかける。

「はい、祖父がよく聴いていたレコードを探しているんです。でもそのレコードの内容を覚えていなくて…」

雪が不安そうに目を伏せる。

「『うぇん うぇあぅ とぅげざー だんしんぐ ちーく とぅ ちーく?』ってフレーズがある曲なのですが…」

雪はおぼろげに覚えている曲のフレーズを口にした後、少し恥ずかしそうに頬を染めて答えた。

 度会は少し考え込んだ後、店の奥にある棚から一枚のレコードを取り出してきた。

「『Cheek to Cheek』が収録されたアルバムは何枚かあるのですが、お祖父様のご愛用のレコードはこれかもしれませんね。『ELLA&LOUIS』というアルバムです。確認のため、よろしければご試聴なさってください。」

 雪はそのレコードをマジマジと眺めながら手に取り、感謝の気持ちを込めて微笑んだ。

「ありがとうございます。たしかこのジャケットだったような気がします。もしこのレコードなら、祖父との思い出に触れることができます。」

 度会は店内試聴室のTechnicsのレコードプレーヤーに『ELLA&LOUIS』を丁寧にセットし、LUXMANのプリメインアンプの電源を入れてしばらく待つ。アンプの真空管が徐々に温まって来たことを確認し、レコードプレーヤーの針をゆっくりと下ろす。雪は度会の一挙手一投足をキラキラとしたその瞳で興味深そうに眺める。大型のJBLのスピーカーから流れてきたエラとアームストロングの歌唱とバンドの音の粒を雪は全身で浴びる。どれも祖父の膝の上で聴いたジャズの名曲達である。雪は十年ぶりの名曲との再開を最高の音楽再生環境で楽しむことができた。エラとアームストロングが祖父と自分の眼の前で歌ってくれているかのような臨場感を雪は感じていた。一度も行くことができなかった祖父とのジャズのコンサートに今こうして行けたように感じ、雪は涙を堪えるのに努力しなければならなかった。

 度会がレコードをひっくり返し再び針を下ろしてからの三曲目。自分も一番好きで、祖父も一番好きだった曲、『Cheek to Cheek』が流れ始めた。


 Heaven, I’m in heaven(まるで天国にいるみたい)

 And my heart beats so that I can hardly speak(息もできないほど心臓がドキドキするの)

 And I seem to find the happiness I seek(そう、これが私が探していたしあわせなの)

 When we’re out together dancing cheek to cheek(一緒にお出かけして頬と頬をよせて踊る至福のとき)


 雪は幼い頃に聴き覚えた『ちーく とぅ ちーく』を思い出しながら、そして小さく口ずさみながら、祖父との思い出の曲をしっかりと聴いた。とめどなく溢れてくる涙を止めることは雪にはできなかった。ただ涙を拭い嗚咽をこらえながら、浮かび上がる祖父の面影を必死に見つめ続けていた。

「度会さん、本当にありがとうございました。私一人じゃ思い出のレコードも見つけられなかったと思います。」

視聴後、雪は思い出のレコードとレコード用の保守用品などを度会に教わりながら一式購入した。

「いえいえ、お役に立てたのなら何よりです。」

 レコードはレコードへの愛情と手間と保守用品とお金と時間が欠かせないコスパの非常に悪いものなのだ。雪がレコード愛好家になってくれるのであれば、継続的にこの店にも通ってくれることだろう。度会はニコニコと愛想良く雪に品物の入ったビニール袋を渡しながら、内心小躍りしていた。サービスとしてエアダスターや鹿革クロス、新品の内袋などをサービスしても全く痛くないのである。雪はまだ二十歳前後(度会予測)なので、末永くこの店を支えてくれる常連客になってくれるだろう。その分、自分も雪のために最大限協力するつもりである。お客様は神様であり、店に利益をもたらす福の神でもあるのだ。

 雪は度会のそのような内心などつゆとも知らず、度会の音楽とレコードの知識の精妙さと親切さに心から信頼をおいた。

「雪様、ご購入ありがとうございました。お待ちしております。」

 度会の胡散臭い接客用笑顔とお辞儀に、雪はその底意に気づかず恐縮しながらお礼を返すのだった。

「こちらこそ、こんなにいろいろ教えていただいたり、サービスまでしてもらっちゃいまして…本当にありがとうございました!またわからないことや、他の祖父のレコードについて知りたいとき、またお邪魔させていただきますね。」

 こうして今にも潰れそうな古い看板のレコード店『度会レコードショツプ』にまた一人、常連客が誕生したのであった。当の雪は全く気づいていないのだが。

 その夜、雪は祖父の古いYAMAHAのレコードプレーヤーを軽く掃除した後、買ってきた思い出のレコードに針を下ろした。懐かしいメロディと歌唱が部屋に響き渡り、雪と母は祖父との思い出に再び浸った。音楽は、時を超えて人々の心を繋ぐ力があるのだと、雪は改めて感じるのであった。

 そして、またあのレコード店に行きたいな、と思うのだった。

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