第56話

「おい。シュウ」


 放課後。

 ポツンと孤立していた秀に声をかけたのは昌明だった。相変わらず怖い顔をしている。とは言っても怒っているわけではないだろう。元の作りが強面なのだ。それがキリッとしていてカッコイイ、と女子には人気なのだが。


「ナル?」

「お前このまま部活行く気か?」

「そっすよー。ジャージだから着替えいらず! 楽ちん!」

「その必要はねーよ」


 昌明は何かを秀の机に放り投げた。秀が目を丸くする。


「……バッシュ」

「それじゃ部活もできねーだろ」


 それは、ボロボロになったバスケシューズだった。秀のものなのだろう。汚れ、カッターか何かで所々切り刻まれている。使い物にならないのは明白だ。


「あちゃー。ひどくね? 靴なんてけっこー高いのに」

「無防備にロッカーに突っ込んどくシュウが悪い」

「いけずー。上履きでやるとか」

「滑って危ねーわボケ」

「ですな」


 溜息をついた秀は肩をすくめた。ケラケラと笑う。


「しゃーないから帰るわ。部長には言っといて」

「おー」


 ――何なのだろう。あの空気は。やられていることはもはやいじめだ。器物破損、犯罪だ。

 それなのにやった方もやられた方も飄々としているような……?

 一方、遠巻きに見ていたクラスメイトたちは「うわー」「何あのシューズ。きったね」などとクスクス笑っている。こちらの空気の方が、裕樹の胃もどんよりと重くなる。


「石井……裕樹君?」

「え?」


 モヤモヤしていると、か細い声で呼ばれた。

 振り返る。

 裕樹の袖を控えめにつかんでいたのは、莉緒だった。


「奈良……さん?」

「いきなりごめんね。少し話したくって……時間、あるかな」

「話? 僕に……?」

「うん。……シュウ君のことで」





 少し時間を置いて連れてこられたのは、バスケ部の部室だった。

 裕樹は落ち着かない。完全に部外者だ。勝手に入っていいのだろうか。

 中は案外――男だらけの空間という意味では――キレイに片づけられていた。


「そんなソワソワしなくても……みんなはもう部活に出ているから大丈夫」

「あ、うん……。それで、話って?」

「シュウ君のこと……石井君は信じてるの?」


 裕樹は瞬いた。真っ直ぐに見つめられると、嫌な汗が浮かんでくる。苦手だ。この空気は、苦手だ。


「信じてるっていうか……有馬君がやっているなんて信じられないっていうか……少なくともツブヤイッターの件は偽者だと思ってる、かな。有馬君にはアリバイがあるみたいだし。奈良さんの件は……正直、僕には何とも言えない。逆に教えてほしいんだ。奈良さんと有馬君の間に何があったのか」

「私とシュウ君の間に……?」

「そ、そう。奈良さんは襲われたっていうけど、そもそもどうしてそんなことに……」

「なかったよ」

「え?」

「何もなかった」

「……え?」


 裕樹は理解が遅いのかもしれない。繰り返されても、とっさに意味がつかめなかった。何もなかった、とは。どういうことなのか。

 よほど間抜けな顔をしていたのだろうか。クスリと莉緒が微笑む。


「わかんないかな。襲われたなんてウソ。シュウ君は何もしてないよ」

「だ、だったら何で……!?」

「都合が悪かったから?」


 ニコニコと莉緒は笑っている。それはまるでいつも通りだ。クラスの委員長。しっかり者に見えて、どこかドジな一面もあって、みんなから慕われている委員長。


「石井君の言うとおり、シュウ君にはアリバイあるもんね。あれだけじゃ追いつめるには物足りないかなって。シュウ君が素直に従ってくれればそれで良かったんだけど……シュウ君ってけっこう頑固なところもあるんだね」


 クスクスと莉緒は笑う。

 じり、と裕樹は一歩下がった。


「それでね。石井君に確認したくて。――石井君は、シュウ君のこと、信じてるの?」

「……っ」


 それは同じ質問。

 だが、裕樹はその質問の意図に気づいてしまった。莉緒は言っているのだ。事情を話した上で、「どっちの味方につくの?」と。

 ここで秀を信じれば、莉緒は裕樹を敵とみなすだろう。今までだって邪魔だったはずだ。何せ秀を庇う発言をしているのは、裕樹ばかりだった。

 これは忠告であり、牽制であり――。


「そんなにシュウ君と仲良しでいたいなら……同じ状況にしてあげてもいいんだよ」


 ――脅迫だ。


「で、でも……僕が今までの発言をいきなり撤回したら、それこそ、怪しまれるじゃないか……」

「シュウ君に庇うように脅されてた、って言えばいいじゃない」

「そんなのっ……」


 真逆だ。秀は裕樹が庇うのを拒絶した。それは、きっと、裕樹の立場を考えてくれてのことだ。


「……できないよ……」

「……そう」


 莉緒は、静かにうなずいた。ポケットから取り出したのは――カッターナイフ。

 裕樹は身構えた。どっと動悸が勢いを増す。まさか。いくら何でも刃物を持ち出してくるなんて、そんな――。

 莉緒はカッターを持ったまま、近くのロッカーを蹴り飛ばした。ものすごい勢いで、いくらかへこむ。


「!?」


 それから別のロッカーのものをまき散らす。部員の着替えや私物がぶちまけられる。


「な、何を……」


 そうやって五つほど荒らしたところで、莉緒はカッターを振り上げた。また硬直する裕樹の目の前で――莉緒は、自身のブラウスを切り裂いた。


「な、奈良さん……!?」

「いやあああああっ!!」


 莉緒の絶叫に身がすくむ。

 莉緒はカッターを裕樹に投げて寄越した。部室を飛び出す。バタバタと外から足音と声が聞こえてくる。

 これは。

 ――これは、秀が陥った状況と同じではないか。


「奈良! どうした!」

「い、石井君がっ……助けて!」


 涙を流し、か弱く震える莉緒。

 呆然と立つ裕樹。その足下にはカッターナイフ。

 誰がどう見ても、被害者と加害者の図――。


「てめえ! どういうつもりだ石井!」

「ぼ、僕は……」


 バスケ部だろうか。男になじられ、裕樹は口を開いた。しかし言葉が出てこない。パクパクと開いた口は、何も発することができない。

 心臓が痛かった。息が苦しい。目の前がチカチカする。


「もしかしてまた有馬の仕業か?」

「そういや石井はやけにあいつを庇ってたじゃねーか」

「石井を使って奈良に嫌がらせか!」

「グルなんだろ! 卑怯者!」

「男として情けないと思わないのか!」


 怖い顔で部員が口々に言う。

 裕樹は胸ぐらをつかまれた。壁に押しつけられる。息が詰まる。


「何とか言え!」

「ち、ちが……」


 拳が振り落とされる――!


「きゃあ!」


 ――ふいに割り込んだのは、甲高い女子の声だった。

 とっさにみんなが振り返る。

 口元を押さえてカタカタと震えていたのは――姫川紗希だった。


「姫川……?」

「やだ……乱暴は怖いよ……」


 目を潤ませて、彼女は言う。裕樹を押さえつけていた男の袖をきゅっと握った。


「莉緒ちゃんも怖い目にあったばかりなのに……こんな風に大声出してたらもっと怖いよ。ほら見て、あんなに震えちゃってる」

「あ……奈良、わ、悪い」

「ううん、私は大丈夫……」

「ね。今はまず莉緒ちゃんを安心させてあげることが大事でしょ……?」

「お、おう……」


 するり。男の腕がゆるんだ。

 とたんに足を蹴られる。痛い、と思ったら紗希がじっと見ていた。どうやら蹴ったのは彼女らしい。

 ふい、と彼女が目線を部屋の外へ向ける。


 行け。

 無言のその指示に、裕樹は震える足取りで部屋を出た。部屋を出た後も何度も壁にぶつかってしまう。

 フラフラと学校の外に出たところで――どっと息をついた。心臓がばくばくとうるさい。嫌な汗が止まらない。


「こ、こわかった……」

「情けねえな」

「……鳴瀬君」


 頭上から睨んできたのは昌明だった。そういえば先ほどの集団に彼の姿はなかった。


「部活は……?」

「サボリ」


 簡潔だ。


「どうやら大変なことになっているようだな」

「あれ? 君は……浅葱さん?」


 昌明の隣に立つ、凛とした美少女。浅葱友香。一時は昌明が彼女に惚れ込んだものの、結局は友人止まりの相手だ。


「そこで会った。友香もフラットだからな。ちょうどいいだろ」

「何ができるか分からないが。できることがあれば言ってくれ」

「え、と……?」

「鈍い奴だな。シュウやお前のひでー状況に同情してくれてんだよ」

「同情とは語弊がありそうだが。ただ彼らがそんなひどいことをする輩には思えんから見過ごせないだけだ」

「へーへー」


 耳穴をかっぽじった昌明が顔をしかめる。


「姫川が時間を稼ぐのも限界があるな。とりあえず場所を移すぞ」


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