第55話

 ぬらりひょん。

 日本の妖怪。俗説ながらも、妖怪の総大将として知られている。

 家の者が忙しくしている夕方時などに、どこからともなく家に入ってくる。そして茶やタバコを飲んだり、自分の家のように好き勝手に振る舞うのだ。しかし目撃した人も不思議とぬらりひょんを家主だと思ってしまう。そのため追い出すこともできない。もしくは存在に気づかない。


 なんでも珠美いわく、ぬらりひょんはネットなどの現代化に反対しているという。自然に逆らうなんてけしからん、助長する奴は痛い目に遭わせてやると息巻いていることは、妖怪の間ではそれなりに噂になっているらしい。

 そんなぬらりひょんにとって、ネットを介し多くの妖怪とも繋がっている秀は格好の敵なのだろう。


『ぬらりひょんにネットが使いこなせるかは怪しいから、実際に炎上させたのは仲間や手下だろうけどね……主犯はあいつだと思うのさ』


 珠美はそう言って、形のいい眉を跳ね上げていた。





 翌朝。


「うう……」


 ぬらりひょんのことを調べていたら、寝るのが遅くなってしまった。

 あくびをかみ殺しながら、裕樹は教室へ向かう。体が鉛のように重い。結局昨日、暗くなってきたため珠美に帰され、秀と会うことはできなかった。

 今日は果たして、秀は来るのか。


「あ。裕樹君、オハヨ」

「有馬君!」

「ぶは。なになに、スゲー大声」


 教室の手前で声をかけられ、裕樹は慌てふためいた。だというのに、秀はケロリとしている。いつものように軽口と共に笑ってすらいる。

 少しホッとした。

 昨日、立ち入ったことまで聞いてしまって、どうしていいか分からなかったから。


「あの、あのさ有馬君」

「裕樹君、昨日はごめんな。変なことに巻き込んじまったな」

「え、いや、大丈夫だよ。ケガも何もないし。それより今野さんに聞いたんだ。犯人はぬらりひょんかもしれないって」


 裕樹は意気込む。勢いで秀の両肩をつかむ。

 昨日、調べながらもずっと考えていたことだ。


「犯人が分かっていれば、何とかなるかもしれない。何とかしよう。このまま濡れ衣なんて、有馬君だってたまったもんじゃないだろう?」

「……」

「有馬君?」


 ヘラリと秀は笑った。どこか困ったように。

 しかしそれも一瞬で、ペラペラと言葉がなだれ込んでくる。


「大丈夫大丈夫。オレのことは気にしなくていいから。つーか余計なことしないでマジで。な。約束!」

「え。……え?」


 余計なことって。

 呆然。その間に、秀は裕樹の手を振り払った。


「オレのこと庇ったら、そっちまで変な目で見られるっすよ」

「で、でも、有馬君は悪いことしてないのに……!」

「石井君」


 裕樹、ではなく石井と。

 彼は呼んだ。


「いいから」


 それは分かりやすい拒絶。


「……何で……」


 何で。そんな、諦めた風に笑うのか。

 秀は裕樹を追い抜いた。教室のドアを開ける。

 とたん。

 水の塊がぶちまけられた。

 きゃあ、と教室の中から女子の悲鳴が聞こえる。うわ、ひっで、といった男子の小声も聞こえる。

 ぽたぽたと、秀の髪から水滴が滴った。

 バケツを持っていたのは、一人の男子だ。近くに二人、いつもつるんでいる男子もいる。

 委員長である莉緒に好意を寄せているメンバーでもあった。好意といっても、恋だの愛だのといったレベルではないかもしれないが。


「平気な顔して来るなんて、頭おかしいんじゃねぇの! これで冷やしとけよ!」

「今川君……」

「莉緒が傷ついたのはこんな程度じゃねーぞっ」


 そうだ、とつるんでいる一人が言う。それにつられて、莉緒を庇うように立っていた女子も確かにとうなずく。

 びしょ濡れになった秀は――顔を上げて笑った。


「いや、いやいや、ちょ……ぶは、まさかこんなあからさまなんてビビったっすわ! こういうの少女マンガとかで読んだことあるんすケド! ウソだろマジで。やべー。ぶはは大胆ね今川君。つーかやべえこれ、水もしたたるイイオトコってやつじゃね? どうしよ魅力増し増し? 秀照れちゃう! なーんて」

「な、なっ……頭おかしいんじゃねーのマジで!??」

「それほどでも~」

「褒めてねえよ!」

「ごめん知ってる!」


 ケタケタと笑い声は止まらない。

 相手にもされなかった今川の顔が赤くなる。茹でダコみたいだ、と裕樹は思った。

 秀はひょいと前へ進む。自分の席に鞄を置いた。中を確認。教科書を取り出し、「お、セーフ」などと呟いている。


「有馬」


 ふいにドアから新たな声がした。担任の先生だ。今川たちが慌ててバケツを隠す。


「あ、センセ。おはざまっす」

「ちょっと職員室に来い」

「うぃーっす。着替えてからでもいいです? あ、むしろそっちで着替えていいっすか?」

「……そうだな」

「あざーっす」


 軽い返事と共に秀はナイロン袋をひっつかんだ。中にジャージが入っているのだろう。体育のときに見た覚えがある。

 ドアですれ違いざま――秀はこちらを見なかった。先生に軽口を叩きながら笑って出ていく。


 行ってしまった。

 教室がざわざわとうるさい。

 今川たちは――「ビビった」と笑い合っている。

 ざまあねえな。やりすぎじゃん。むしろ足りなくね。スカッとした。もっとやれ。もうやめなよー。

 無責任な笑い声。嘲笑。野次馬。好奇。


「……ひ、ひどいよ」


 震える声を、裕樹は懸命に絞り出した。

 いつもなら聞き逃されていたかもしれない言葉だ。地味な裕樹なんて、気づいてもらうことの方が少なかった。

 それでも、今、このときばかりは、妙に響いて。

 しんと空気が凍った気がした。

 ゴクリ。唾を飲む。拳を握る。


「ひどい、よ。有馬君が本当に何かしたかなんて、まだ分からないじゃないか。ツブヤイッターの件だって、有馬君じゃない可能性が高いんだ。それなのにあんな……」

「じゃあ石井は、莉緒が嘘ついてるとでも言うのかよ」


 今川がふんと鼻を鳴らす。その眼光に目をそらしたくなった。


「それは……分からないけど……有馬君は何もしてないって……」

「だから莉緒が襲われたっつってんじゃねーか! 鳥頭かよ! なあ!」


 振り返られた莉緒が、ビクリと身を震わせる。彼女は小動物さながらのオドオドした様子で縮こまった。


「う、うん……でも、いいの。結果的に無事だったわけだし、シュウ君も動揺していたんじゃないかな……」

「動揺したって女襲う奴にロクな奴がいるもんかよ! そんなの免罪符にもなんねーよ」


 そうだ、と一人の女子が同意する。ほんとよね、とまた一人が語気を強める。


「こんなに震えちゃってかわいそう」

「怖いよね」

「あんなことあったら、トラウマだよ。顔見るのも嫌なんじゃない?」

「みんな……ごめんね、ありがとう……」

「いいんだよ! 委員長にはいつもお世話になってるんだし!」

「俺らは奈良の味方だぜ!」


 ――だめだ。

 裕樹は完全にアウェイだ。

 この空気も、勢いも、覆せそうにない。

 しばらくして、別のクラスメイトが小走りに中へ入ってきた。


「なあ、なあ! 有馬の奴、停学だって!」

「!?」


 サァ、と血の気が引いた。気がした。みんなの声が、どこか遠い。


「今先生と話してんの通りがかりに聞いてさ!」

「とかいって盗み聞きしてたんだろ」

「バレたか。だって気になったんだよ」

「やっぱ他にも色々やべーことやってたんだろ。ザマァ」

「水ぶっかけてやって正解じゃん!」

「むしろあれじゃ物足りなかったんじゃないの?」

「それなら莉緒ちゃんも安心だね!」


 教室が熱気に包まれる。裕樹を置き去りにしていく。


 ――ガラリ


 遮るようにドアが開いた。入ってきたのは、担任の先生と――有馬秀だ。ジャージに着替えている。


「おい、みんな席につけ」


 先生の一言で盛り上がっていたみんなが慌てて戻っていく。

 オロオロと裕樹は声をかけた。


「あ、有馬君……その、停学って……」

「へ?」


 聞かれた秀は、ヒラヒラと手を振った。興味薄そうに。


「いやいや。証拠もなしに停学とかないない。ただあれこれ確認されたのと、事実だったら停学とか退学にだってなりうるんだぞーって忠告されたんすよ。そんだけ」

「そんだけって」


 それだって十分、濡れ衣なら不本意な話ではないか。

 秀の声は元より大きい。他のみんなにも聞こえている。停学だと早とちりしたクラスメイトがバツが悪そうに顔をしかめていた。

 莉緒は――うつむいていて、表情が見えない。

 秀は話は終わったとばかりに裕樹から離れていく。

 石井、と先生に声をかけられ、裕樹もあたふたと席に向かった。


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