第52話

 會央病院へ着いた頃には、日が傾きかけていた。

 それでもまだ暑さは拭えない。もう少し夏は続きそうだ。

 病院はキレイだった。塗装は新しく、至るところに緑が植えられている。


「来たはいいものの……」


 ぽつんと立ち尽くす。あてがあるわけではない。秀とは連絡も取れないのだ。そもそも、今日もここにいるとは限らない。いても、病室の中ならお手上げだ。部屋を一つ一つ覗けるはずもない。


「早まったかなぁ……」


 我ながら弱り切った声だ。

 仕方ない。

 裕樹はぐるりと病院を回ってみることにした。せめてどんなところかだけでも確認しておこう。

 入り口の左側には、緑に囲まれた道ができている。散歩コースだろうか。話し声が聞こえる。

 いきなり中に突撃するのも気が引け、まずはそちらを覗くことにした。

 そろり、そろりと進んでいく。


「……あ……」


 広い場所に出たところで、裕樹は足を止めた。

 話し声が鮮明に聞こえる。それも、聞き慣れた声の。


「そんでさぁー、じいちゃんにも聞かせてやりたかったよ。いや、でもビックリしちゃうかもな? ほんとにすごかったんだぜ」

「有馬君!」

「え」


 果たして振り返ったのは――案の定、有馬秀で。

 裕樹は駆け寄りかけ、踏みとどまった。

 彼はゆっくりと車椅子を押していた。乗っているのは老人だ。背が高く、枯れた木のようにひょろりとしている。顔や身体に刻まれたシワが随分と痛々しい。


「裕樹君? うはは、ビビった。何でこんなとこにいんの」

「あ、と……ちょっと、有馬君を探してて。その人はええと……有馬君の、おじいさん?」

「ん、そう。じいちゃーん、オレのクラスメイトだぜ。石井裕樹君。分かる?」


 秀の祖父は、反応しなかった。眠っているのだろうか。目が開いているのかも定かでない。

 秀が苦笑する。


「ムリかー。今日は調子悪そうだな」

「あの……」

「ちょっと待ってな。――大友さん、すいませーん」


 近くにいた看護師に秀が声をかける。随分と気さくだった。いつもといえば、そうなのだけれど。


「あら秀君。お友達が来たの?」

「そうなんすよー。この子ってばちょっと心配性でー」

「そんなこと言って。イイコじゃない」

「まあオレにはもったいないくらいっすかね! てなワケで大友さん、ちょっとじいちゃんのこと頼んでいーっすか」

「ええ。そろそろ戻る時間だったし大丈夫」

「あざーっす!」

「秀君もあんまり無理しないでね。ここのところ大変だったでしょ」

「やだ大友さん優しい。白衣の天使。いやもう女神!」

「ハイハイ」


 流れるような親しげな会話。

 大友と呼ばれた看護師が車椅子を受け取り、押していく。

 それを見送った秀が、くるりと振り返った。


「そんじゃちょっと、場所変えよっか」





 ガコン。自動販売機から落ちてくる。オレンジジュースと、カフェオレ。

 ん、と秀に差し出され、裕樹はカフェオレを受け取った。

 すぐ側のベンチに腰掛ける。


「お金払うよ」

「いーよこれくらい。むしろサーセン。結局外だけどいい?」

「いいよ。気にしなくて」

「サンキュ。中はちょっとなー。個室じゃないからあんま好き勝手には話せないし」


 肩をすくめて秀も隣に腰掛ける。

 さっきいた場所より五十メートルほど離れた場所だった。少し奥になっただけだが、時間帯のせいもあるのか、人は少ない。


 裕樹はちらと秀を眺めた。

 腕に痣がある。昨日はなかったはずだ。昨日の騒動の後も、頭に血が上った誰かにやられたのだろうか。

 いつものはつらつとした気配は薄い。疲労の色が滲み見える。


「おじいさんが、ここに入院してるの……?」

「そっすよ。つっても、何から説明したもんかね」


 カシュッ。

 缶を開け、秀がジュースをあおる。裕樹もそれにならった。思ったより甘ったるい。コーヒーの風味がほんのり――本当にほんのり――口に広がる。

 んー……と珍しく言葉を選んだ様子で、缶をもてあそびながら彼は口を開いた。


「オレが小学生のときにばあちゃんが死んで、じいちゃん一人になっちゃうからってオレたちと住み始めて……で、オレが中学のときに調子悪くなったんだよな」

「そのときから、ずっと入院してるんだ?」

「いや? 初めはそこまでひどくなかったし。家で見てたよ。でも去年くらいに急に悪化しちまって……それから、かな」

「もしかして今日休んだのも、おじいさんが関係してたり……?」

「あはー。まあ、ここんとこ調子ガタガタでさ。他に来てくれる人もいねーし、オレも気になってしゃーないし」

「え、でも……ご両親は?」

「オレんち離婚してんだよね」

「えっ」


 さらりと告げられた言葉に二の句が継げない。まずいことを聞いてしまった。今更かもしれないが。

 裕樹の居たたまれなさに気づいたのだろう。

 秀は笑ってヒラヒラと手を振った。


「うははだいじょーぶ。別に珍しくないっしょ、離婚なんて」

「いや、でも……」

「じいちゃんが悪化したとき、妹……あ、三つ下なんだケド、これがまたチョー天使なんだわ。スッゲかわいいの。素直で賢くて、オレと血がつながってるのが信じらんねーくらい!」

「有馬君がそんなにシスコンだとは知らなかったよ。……その妹さんがどうしたの?」

「あー、うん。じいちゃんがな、何を思ったか、妹ちゃんに襲いかかりまして」

「え」

「正気じゃなかったんだろうなー。まあ、身体弱ってたからオレでも止めることはできたんすケド。ただやっぱ、心配じゃん? 母さんも、そりゃもー、自分の娘が……ってなったら、いてもたってもいられねーじゃん? しかもじいちゃん、父方だしな。ずっと面倒見てた母さんもそこでプツンと切れちゃって。ぜってー妹ちゃんをじいちゃんに近づけさせない、って感じで……結果、オレは父さんに、妹ちゃんは母さんに引き取られたワケなんすケド」


 ごくり。秀はオレンジジュースを口に含んだ。すっぱ、と笑う。


「父さん、仕事人間でチョー忙しいんだわ。昔からなんすケドね。だから今面倒見れんのがオレくらいしかいねーの。つっても限界はあるからさっくり病院に入院してもらうことになったんすケド」


 秀の言葉はサラサラと流れていく。本当に軽く。まるで何でもないことのように。

 しかし、困惑は隠せない。

 裕樹の思い描く「有馬秀」というイメージからはほど遠い境遇だ。


「じいちゃんはさっき見た通り。元から無口な人だったんすケドね。反応鈍いし、オレのことわかってんのかもちょっと怪しいんじゃねーかな。ほんっとたまに調子悪くなると暴れ出すから、そのときよりはマシなんだろうケドさ。あ、でもほんとたまにだぜ! だからこうやって少し外に出ることもできるし。でもこないだいきなり怒り出したのはちょっとビビったわ。それでオレのワイフォン壊れちまったんすもん。そろそろ個室じゃなきゃムリかなー」


 ペラペラと話していた秀が顔を上げる。

 ぶは、と吹き出した。


「何て顔してんの」

「いや、だって。そんな大変だったなんて」

「だからフツーフツー。両親が離婚してんのも、身内が精神病患ってんのも、今日日珍しくも何ともないっしょ?」


 そうなのかもしれない。裕樹にはそれぞれの確率なんて分からない。

 しかし、だからといってその大変さがなかったことになるわけではないだろう。

 それに、今までの彼からは、そんな様子をまるで感じられなかったから。

 今だって、あまりにも軽く言ってのけるものだから。

 かえって、裕樹には不自然に感じられて仕方ないのだ。


「……ムリ、しなくていいんだよ……?」


 秀は瞬いた。

 笑う。どこか、疲れを滲ませて。


「ムリ……してるワケじゃないんだケドな……」


 そのとき。

 いきなり二人の間を黒い影が横切った。

 その勢いに裕樹はたまらずひっくり返る。ビリ、と腕に走る痛み。見ればうっすらと血が滲んでいた。


「な、何……!?」

「……妖怪、かも」

「何の!?」


 立ち上がった秀がじっと一点を見つめている。おそるおそる裕樹もそれにならった。

 しかし、見えるのは黒い靄。

 姿形が分からない。ただ、こちらを威嚇しているのは感じ取れる。


「まいったな……悪いモンくっつきすぎてて正体が見えねーわ」

「は、はは……でも、有馬君なら知り合いかもしれないわけだよね……対話とかは」

「あれだけ悪いモンくっついてたら、まずは引きはがさないことにはムリゲーっすね」

「じゃあいつものアプリで……あっ」


 そうだ。秀のワイフォンは、今、修理中なのだ。

 黒い靄が飛びかかってくる。

 硬直していると、秀に突き飛ばされた。たたらを踏む。心臓が飛び出しそうに震えている。


「裕樹君は逃げろ! 早く!」

「で、でも、それじゃ有馬君が……」

「いーから! 何とかすっから!」

「僕のワイフォンにも『妖怪に用かい』はダウンロードしてるよ! それで……わあ!?」


 慌てるあまり手が震えた。ワイフォンを落としそうになる。そうしている間にも靄は足のような何かを揺らし助走をつけている。秀が舌打ちした。裕樹の方に駆けてくる。


 間に合わない――!


 どこからともなく。

 本当にそう表現するしかなかった。裕樹が瞬いた次の瞬間には、目の前に二つの影が立ちはだかっていた。


 一人はどしりとした存在感。背が高く、揃えられた黒髪を風になびかせて。凛とした佇まいの山伏姿が妙な迫力を帯びている。

 もう一人は目を奪うほどの華美な十二単。女としての余すことなく魅力的な肉体をたおやかに包み込んでいる。黄金色の髪がなびく様は、息を飲むほど。


 どちらも見覚えがあった。

 一人は普天間孝徳。秀の叔父が経営している骨董屋の店員であり――天狗、だという。

 もう一人も見たことはある。名前は知らない。よく秀と懇意にしている――彼女もまた妖怪だ。その証拠でもある獣の尾は相変わらず輝かしい。


「テンさん! コン姉!」


 いきなりの登場に相手もたじろいでいるのだろう。警戒している。襲ってこない。

 女性――コン姉と呼ばれていた――が裕樹の手を引いた。


「え」

「あたしは彼を。テンさんはシュウ坊を頼んだよ」

「御意」


 会話は一瞬。

 裕樹は思い切り抱え込まれた。


「ひぃっ……」


 ちょうど顔に柔らかいものが当たる。密着されると息が苦しい。すべすべしていて柔軟に形を変えるソレは、容赦なく鼻を塞いでくる。呼吸が可能だったところで、裕樹の精神がその行為を許したかどうか怪しいが――。

 たまらず目を閉じると、風を感じた。同時に浮遊感。合間合間に落ちる感覚。まるでジェットコースターだ。

 恐る恐る目を開ける。が、きめ細やかな肌色でいっぱいだった。多感な裕樹には刺激が強すぎる。

 もう考えることもできなかった。

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