第21話
「冷てぇ!?」
被せられたものは単に水のようだった。右手で前髪をかき上げるが、水滴がぼたぼたと垂れてくる。
誰だと周囲を睨みつけると、ヘラヘラと毒気の抜ける笑顔がこちらを見ていた。その隣にはもう一人、男子生徒がおどおどと顔を青くしている。
「シュウ! あと石井てめえ!」
「どうどう。鳴瀬君落ち着け?」
「人に水ぶっかけといて落ち着けも何も……!」
「鏡見た?」
「あ?」
「顔。スゲーことになってるケド」
「何言って……!」
苛々と窓ガラスに視線を走らせる。
そこに映る姿にぎょっとした。
どす黒い皮膚は硬く強張っている。大きくむき出しになった、血走った目。裂けそうに突き出した大きな口に鋭い牙、確かに在る禍々しいツノ。
もう、何度か見た姿ではある。
しかし、今まで目の錯覚だと思っていたその姿はいつまでも消えなかった。震える手で顔に触れれば――いつもとは違う感触。ザラザラ、ゴツゴツしていて、まるで人間のものとは思えなかった。
脳が揺さぶられる。思考が乱れる。
「何だよこれ……!」
「鬼っすなぁ」
「はあ!?」
緊張感のない秀の声。
友香と裕樹が戸惑っている中で、彼だけがこの場の空気から奇妙に浮いている。
「鳴瀬君さぁ、
「ふぐる……何だって?」
「文車妖妃。つくも神の一種なんだケド」
近寄ってきて友香を庇う位置に立った彼は、陽気な笑みを向けてきた。
「文車ってのは……えーと、昔、手紙とか書物とかを運ぶのに使ってた車のことな。そんで文車妖妃は恋文にこもった怨念やら執念やらが妖怪化したって言われてんすよねぇ」
「妖怪だぁ?」
「こんな昔話もあるんすよ。むかーしむかし、とある寺に美少年がいました。美少年は大層おモテになったワケで、恋文もたっくさん来たそうな。だけどつれない美少年はその恋文を焼き捨てちまった。するとあら不思議! 恋文にこもった強い執念が美少年を鬼に変えてしまいました」
「ふざけてんのかシュウ」
「いつの時代も恋心ってのは怖いもんっすね」
調子を変えないまま、秀は緩やかに首を傾げた。
「鳴瀬君は誰の恋心を捨てちまったのかなーと?」
「はあ? 誰って……」
――思い当たるのなんて、一人しかいない。
思い返してみる。鬼が見え始めたのは、いつからだったか。元カノの連絡先を削除し、一切連絡を取らなくなってからではなかったか。
馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、ただの戯言だと切り捨てられない。今の自分の現状の方がもっと現実離れして馬鹿馬鹿しいのだ。
「おい、鳴瀬……」
恐る恐る、友香が指を差してくる。昌明の指までが変質していた。どす黒く膨らんだ手に、鋭利に伸びた爪。このまま蝕まれ鬼になるというのか。そんなの。
「何だよ! くそ! 俺は悪くねぇぞ!」
「まあまあ鳴瀬君落ち着いて。今アプリで……」
「別れるっつったのにしつこかったのはあいつじゃねぇか! しかもあいつ、あんな……!」
「マサ……」
唐突に。
か細い声と共にフラリと現れる影があった。
「なっ……!」
俯く少女は、制服がこの学校のものとは異なった。色が鮮やかなその制服は男女共に可愛いと評判で、昌明も他校との練習試合で興味を持っていたのを覚えている。普段は休日のデートが多かったので、彼女の制服姿を見るのは初めて会った日以来だった。
「マサ、ひどいよ……何で連絡くれないの? 私のことブロックするの? 私そんなにひどいことした? マサに会いたかっただけなのに。マサが好きなだけなのに。ねえマサ私ずっと待ってたんだよ。この前だって会いに行ったのにマサが部活にいなかったのは何で? 私が来たから? だから逃げたの? 私はこんなにマサに会いたかったのに? 別れるって何で? 他に好きな人ができたの? そいつ? その女がマサを
ブツブツと呟いていた彼女は、顔を上げた。虚ろな目が友香を捉える。わずかに、口角が上がった。手を振り上げる。
とっさに昌明は手を伸ばした。思い切り友香を引き寄せる。
空振った彼女の手に光るのは――彫刻刀。
「マサ! どうして! 私は……」
「うるせえ! 友香は関係ねぇよ! 俺がお前に嫌気が差したんだよ!」
「どうして……!」
「人の都合気にしないでしつけぇからだよ! あげくには子供ができただぁ? どうせ嘘だろうが! そうまでして引き留めようっつー魂胆が興醒めなんだよ!」
「ひどい」
震えた彼女が強く強く彫刻刀を握り――。
「いやあ分かるよ?」
空気をぶち壊す軽さで唐突に割り込んだのは、案の定と言うべきか、秀だった。ひょいと軽い身のこなしで間に立った秀はヘラリと笑う。
「こいつほんとひどい男だからさぁ」
「お、おい、シュウ」
「彼女さんは寂しかったんだよな? 無視は嫌だったんだよな?」
「……わたし……」
「こいつ女の子には優しいし? 調子いいし? まあイケメンだからモテるし? そりゃ不安になるよな。だからつい束縛しようとしてしつこく連絡取ったりしちゃったんだよな」
「……私、は……」
「でも、ほんとはこんなことしたかったワケじゃないっしょ。止められなくなっちゃっただけで。本当はちゃんと話し合いたかったんだろ? だからこの前も、今だってわざわざ来てくれたんだよな」
震えた彼女が、彫刻刀を取り落とす。彼女は静かに顔を覆った。
「私、ほんとに、好きで……」
「うん」
「とにかく話、聞いてほしくて……」
「うん」
「子供は……確かに、嘘なの……でも、……でも……」
「嘘は良くないケド。苦しかったんだよな」
わっ、と彼女が泣き崩れる。
ヘラリと笑った秀がよしよしと彼女の頭を撫でてやる。そのまま彼は、遠巻きに眺めていた裕樹に視線を送った。
「祐樹君」
「はい!?」
「アプリ頼んだ~」
「ええええ」
情けない声を上げた裕樹は、それでも渋々ワイフォンを取り出した。何かを起動させたのだろう。ワイフォンのカメラを昌明たちに向け、手をすいすいと動かし――。
「……お?」
昌明の異変が治まった。一回り以上大きく異質になっていた手は、元の色や形を取り戻す。窓ガラスに映った顔も、強張っているものの、いつもの見慣れた顔だった。
戻った。治った。
そう高揚した昌明の眼前に一人の少女がふわりと現れ――そして消えていった。
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