第11話

 誰もいない教室は、世界から切り離されたように静まりかえっている。窓から差し込む光はいくらか赤みがかってきた。どこか調子が外れたメロディーは吹奏楽部のものだろうか。グラウンドでは、野球部のカスカスになった掛け声が聞こえてくる。

 祐樹は、ひしひしと感じる視線を押しのけ、教室の奥へと進んだ。

 奥の、窓際。前から五番目。半端な位置の、しかし不思議と目立つ気がしてしまうその空間。

 それは、その席が有馬秀のものだからだろう。彼の周りにはいつだって人がいる。賑やかで、楽しげで、いつだってピカピカと明るい。

 直前の、秀とのやり取りが脳裏をよぎる。


『とりあえず祐樹君には、オレの私物を盗んでもらおうと思うワケ』

『僕が、有馬君の私物を? 何でわざわざ……』


 祐樹は空気の塊を一つ飲み込んで、机の中に手を入れた。ほとんど空だと思ったが――カタリと何かが手に触れる。ゆっくり引っ張り出すと、それは奇妙な形のストラップだった。いわゆる「ゆるキャラ」だ。愛嬌があると言えば聞こえがいいが、どうにも間抜け面にしか見えない。そういえば女子と彼が「これ秀君にめっちゃ似てる! ウケるからあげるー」「似てる!? これ喜んでいいやつじゃないよな!?」「やだーかわいいよ、喜んで喜んで」「わぁい! ちくしょう!」「あはは」だなんてやり取りをしていた。祐樹にはまず無理なやり取りだ。


(これが、有馬君の……)


 震える手で見つめ、――意を決し、祐樹はそれをズボンの後ろポケットに突っ込んだ。


 途端に、ぶわり。

 湿った臭いが押し寄せ、纏わりつく。

 腕に痛みが走った。ぶつぶつと大きな目玉が浮き出てくる。両の手の甲に、手首に、腕に、肩に、足に――その目玉が一斉に祐樹を見る。観る。視る。射抜いてしまわんとばかりに。

 叫び出さなかったのは奇跡だろうか。単に声すら恐怖に奪われてしまったのかもしれない。

 その目玉から黒い煙のような靄が吹き出て、祐樹の前で一つの形を取った。ずんぐりとした、黒くて、たくさん目玉のついた、大きな――怪物だった。控えめに言ったとしても。

 その怪物が、大きく口を開ける。あんぐぁ、と奇っ怪な音を立てての開口。


『ミぃた、ぞぉ』

「――!」


 祐樹は転がるように教室を飛び出した。ドアを開けて右手の階段を駆け上がる。

 ちらと振り返れば――追ってきている!


(視聴覚室は……!)


 ここは一階だ。視聴覚室は四階。運動部でもない自分には荷が重い。切れる息も惜しくぜぇぜぇと階段を駆け上がる。祐樹はそこを逃げ場に指定した秀を恨んだ。何だってこんな。

 もつれる足は自分が思うようには進んでくれず、二階から三階へ行く途中、足を滑らせた。


「いっ……!」

『ミぃ、た、ぞぉ』


 ぞわぞわと背筋を這うような声が追ってくる。慌てて立ち上がろうした瞬間、足を引っ張られた。ぬめりとした手が祐樹の左足首を掴んでいる。


「放せ!」

『ぬすんだ、ぬすんだ、お前は――』


 ずり、と引きずられる。段差に膝を打った。


「放せって言ってんだろ!」


 祐樹は先ほどポケットに入れたストラップを引っ張り出した。怪物めがけてぶん投げる。目玉の一つのど真ん中にぶち当たったストラップは、不思議な弾力でめり込みそうになる。

 しかし、それを受けた怪物の反応は劇的だった。もんどり打った怪物はたまらず祐樹から手を放す。低い呻き声を上げている。

 祐樹は再び駆け出した。

 三階。不思議と人はいない。

 四階。やはり人の気配はない。こんなにも静かだったろうか。自分の動悸だけがいやに大きく響いてくる。


『待て……』


 声が、追ってくる。目玉が、迫ってくる。怒ったのだろうか、先ほどよりもずっと速い。

 祐樹は奥へ奥へと走った。伸びてきた黒い腕のようなものが視界の隅に見え、とっさに頭を傾ける。通り過ぎていったその先端はくるりと向きを変えて戻ってきた。その先端にも目玉。目が合い、思い切り横に避ける。むちゃくちゃだ。捕まったらどうなってしまうのか。

 突き当たりの角、扉に手をかける。いやに重く感じた。それでも振り切るように――思い切り開ける!

 中に踏み込むと同時に怪物が追いつき、祐樹に覆い被さってきた。たまらず倒れ込み――消える視界。

 怪物に視界を覆われてしまったのかと思った。しかし重みが消え、後方から呻き声が聞こえてくる。どうやら暗闇に怯えているらしい。

 祐樹は這うようにその呻き声から離れていった。

 パ、と祐樹の目の前で小さな光が灯る。

 ワイフォンを手にした秀がにっこりと立っていた。


「祐樹君、お疲れちゃん!」

「あ、有馬君」


 緊迫した空気を砕いて塵や埃にしそうな、そんな能天気な笑みだ。

 彼はその調子のまま、奥で呻いている怪物に声を掛ける。


「ちーっす百々目鬼さん」


 そんな、世間話でもするかのように。


「百々目鬼さんのその目ね、うんまあスゲーっすよね? 目薬の消費量ハンパなさそう。近頃ドライアイとか大変ですしね! お気持ち察しますよ! かくいうオレもブルーライトカットの眼鏡買っちゃいましたもん。視力はいーんすケドやっぱ負担は大きいですよね、でも百々目鬼さんじゃ眼鏡かけんのも難しそうっすね?」

「あ、有馬君、何の話かな」

「あーごめんごめん。つい色々喋っちまう。えーと、そんなスゲー量の目の話。まるで鳥目ちょうもくみたいって話。で、あはは、洒落なんすかねぇ。その目玉は極度の鳥目とりめっつー話。暗闇じゃろくに動けないとか何とか?」


 ペラペラと笑いながら話す秀。

 祐樹はヒヤヒヤした。暗闇が苦手だということで、視聴覚室を逃げ場にすることを提案してきたのは秀だ。しかし、こうして追いつめたところで何か策はあるのか。

 秀がワイフォンを掲げる。彼はそれを百々目鬼に向けた。何か操作しようというのか、手が動き――突如、百々目鬼が低い呻き声を発す。百々目鬼は祐樹から離れた。秀の持つワイフォンの光めがけて迫っていく。祐樹はたまらず横へ避ける。


「有馬君!」

「おわ!?」


 百々目鬼が飛びかかり、秀の手からワイフォンが落ちる。人の倒れる音。衝撃でライトが消えたのか、一気に暗闇が増してしまう。


「有馬君!」

「ワイフォン取って!」


 暗闇から届いたのは、いくらか焦りを帯びた声。

 祐樹はとっさに周りを見回した。

 ワイフォンは画面が床に伏せられて、かなりうすらぼんやりとした光だ。そのすぐ傍には、化け物と秀。

 ためらいは、一瞬。祐樹は震えを抑え込みワイフォンに手を伸ばした。


「アプリ、開いたまんまだから……!」

「え!?」

「それでこいつを撮るんだ!」


 叫ぶように秀が言う。困惑しながら祐樹はワイフォンを百々目鬼にかざした。

 しかしよく見てみると、単なる撮影機能ではない。

 どちらかというと――QRコードを読み込むのに近いような?

 気づいた百々目鬼が腕を伸ばすようにして祐樹めがけて振り下ろしてくる。

 どこだ。どこに焦点を当てれば。距離が良くないのかブレているのか。いや待て、こうも暗いと撮れるものも撮れない。まずはライトだ。

 ライトをつけると、眩しい一筋の光が百々目鬼を直撃した。さすがに暗闇からの直射は反動が激しかったのだろう。百々目鬼が大きく後退する。

 祐樹は再びワイフォンを掲げた。しかしなかなか読み込めない。ゆらゆらとワイフォンを動かし傾ける。

 いきり立った百々目鬼の腕が祐樹の頭上まで伸び――

 ピコン! と、間の抜ける音がした。途端にしゅわしゅわと百々目鬼の体が縮んでいく。徐々に小さく、大人しくなっていく。

 そして。


「何なのよー!」

「……え?」


 ワイフォンが照らす光の先。

 祐樹の前には、ぷるぷると震え、泣きそうになっている女の子がいた。


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