第6話

 後頭部がじりじりと熱い。右手首を押さえながら、祐樹はひたすら足を動かした。長袖のワイシャツは周りから浮いていて、余計に周りの目が気になってしまう。吹き出る汗がしみを作っていくのが自分でも不快だ。


「ゆっうきくーん!」


 背後から明るい声が突き刺さり、祐樹はビクリと身を竦ませた。声以上の勢いでバシンと背中が叩かれる。


「おっはよ!」

「……おはよう」


 案の定とでも言うべきか、正体は秀だった。じっとりとした暑さを気にした様子もなく爽やかな風をまき散らしている。近くにいる同じ制服の生徒がちらちらと視線を送ってくる。声が大きいせいもあるだろう。それから存在感がやかましい。ただの登校中にもこれほどの視線を集めるだなんて。


「なになに、裕樹君どうしちゃったの。こんなあちーのに長袖なんてさ?」


 覗き込まれ、祐樹はとっさに腕を背中に隠した。


「……別に……気分っていうか……」

「ありゃ? 裕樹君ってばマゾヒスト?」

「失礼だな!? 違うよ!」

「あっ、分かった! 日焼け防止! 美白目指してんでしょ!」

「なんかやだよ。そうじゃなくて……、半袖全部汚しちゃって、これしかなかったんだよ」

「じゃあ捲った方が良くね? 暑いっしょ?」

「有馬君!」


 手を伸ばしてきた彼を、思わずきつく呼び止める。

 ぴたりと動きを止めた彼は不思議そうに祐樹を見てきた。悪気はなさそうなその顔に、多少の罪悪感が込み上げる。


「……それより、君のワイフォンなんだけど」

「ああ! ごめんな! 勢い任せで頼んじゃった後忘れてて。大丈夫だった?」

「一応動くようにはなった、けど」

「マジで!? スゲー! サンキューいじりー!」

「それやめてって言ったよね!?」

「あははっ。可愛いのに」

「そう思うなら有馬君のセンスは壊滅的だね」

「辛辣!」


 イライラと毒づいても、彼にはのれんに腕、糠に釘だった。ヘラヘラとした笑いであっさりかわされてしまう。

 しまった、うっかり。思わず漏れ出た本音にそう思いかけたが、問題はなさそうで祐樹はホッと息をついた。

 秀は嬉々としてワイフォンを受け取る。そのまま彼は、流れるように電源を入れた。そして。


 ブーブーブーブー


 相変わらずの通知音だった。うわ、と秀も声を上げる。


「……すごいよね?」

「あー。ここんとこずっとな。ツブヤイッターなんだケドさ」

「ああ……」

「なんかめっちゃコメント送ってくる奴がいて。やべーの。見てこれ」


 全く深刻ではなさそうな態度でケラケラ笑うものだから、はあ、と祐樹は曖昧に返した。

 しかし秀はずいずいとワイフォンを見せてくる。仕方なく受け取り、眺め――ぎょっとした。


「せ、千単位……!?」

「うはははヤベーっすな!」

「笑い事かな!?」


 秀に対するコメントの一覧は、ある一人の執念深いまでの返事で埋め尽くされていた。しかもどれも意味が怪しい。中には本当にただの英数字の羅列まであるほどだ。未読が二千八百三十二件。今話している間にも一気に四十ほど増えた。尋常ではない。

 送り主のアイコンは目玉をモチーフとしたヘアゴムのようだった。不気味だが、こういう変わったものが好きな女子はいるのかもしれない。センスがいいとは、祐樹にはあまり思えないけれど。

 呆然としていると、秀のワイフォンが震えた。見ると、コメントの数がさらに増えている。


「……これ、いわゆるネットストーカー?」


 何だか「すごいね」だけで終わらせるのも薄情な気がして苦笑すると、「そうそう」と秀は鞄を背負い直しながら軽く頷いた。「よーっすシュウはよー」「おはー」などと背後から走ってきた生徒と挨拶するのを忘れずに。


「そいつとちょっと話したことはあったんすよ。でもみんなの呟きが多すぎて全然読むの追いつかねーじゃん? だからちょっと休んでたんだケド、そしたらこんなことに?」

「へえ。人気者も大変なんだね」

「いやあー人気者だなんてー祐樹君ってばお上手ぅ」

「いや君ってばどこからどう見ても人気者でしょ」

「やだ照れちゃう! きゃっ」

「それよりこれなんだけど」

「スルーはつらい!」


 ふざけたように声を上げる秀だが、祐樹は取り合わなかった。相変わらず彼の声は大きい。近くを歩いている数人がこちらを見ている気がする。恥ずかしい。そもそも自分は、早くここから去りたいのだ。こんな人の目をホイホイするような相手の傍にいるのは気が気でない。

 だが、ストーカー被害に遭っているらしいクラスメイトを無視するのも良心が痛む。ぐっと堪えて会話を続ける。


「それより。このストーカーに『特定した』とか言われてるよ? 大丈夫なの?」

「写メ載せたのがまずかったんすかね。近所の世界に一つしかないお地蔵さん撮ったんだケド」

「地蔵を載せるセンスが分からないし危機管理ガバガバだな!?」


 思わずツッコむと、いやあ、と秀は照れたように笑った。なぜ照れるのかも笑うのかも分からない。


「とりあえず……」


 溜息をついて、祐樹は彼のワイフォンを操作した。

 特に秀は止めてこない。興味深そうに横から画面を眺めている。


「――はい」

「なになに、何してくれちゃったの祐樹君」

「相手をブロックして、運営に通報。僕の方からもやっとくよ。これで相手は君の呟きを見ることも、君にコメントを送ることもできなくなる。上手くいけばアカウント停止にまで持ち込めると思う。ブロックのやり方はヘルプ見れば書いてあるから後で見ときなよ」

「……! 祐樹君スゲー!」

「だから君がガバガバすぎるんだって!」


 再三のツッコミに、秀は弾けたように笑った。

 珍しくも声を張り上げてしまっている自分に気づき、祐樹は彼から目を逸らす。すっかり彼のペースで話してしまった。

 ぎゅっと右手首を押さえる。――こんな訳の分からない状態でなければ、もう少しくらい話してみてもいいと思えたかもしれないのに。


「なんかお礼したいし、そーだ、連絡先交換しようぜ?」

「はっ?」


 連絡先交換?

 祐樹は目を点にする。何だその儀式は。自分とはまるで縁がない。得体が知れなくていっそ恐ろしい。


「いえそんなお気になさらず」

「何でいきなり敬語? ダメ?」

「個人情報を握られるのはちょっと」

「連絡先だけなのに!?」

「――シュウ坊」

「わっ」


 ふいに、横から大人の女性が秀の腕に飛びついてきた。金髪が目立つ、いやに顔の整った存在感の強い女性だ。

 どぎまぎする祐樹を後目に、秀と彼女の間で軽快な会話が繰り広げられる。祐樹にはまず無理な芸当だ。

 女性がぐいぐいと秀を引っ張っていく。笑い、たしなめた秀はそれにつられるように足を進めた。こちらを振り返った彼は無邪気に手を振ってくる。


「悪い! 祐樹君また後でなー!」

「……あ、ああ……」


 人気者は、取り巻く人物もまた格別らしい。そんなぼんやりした思考のまま祐樹は彼らの背中を見送り――ぎょっとした。


(……獣の、耳?)


 目がおかしくなったのだろうか。金髪美女の頭には、ふさふさとした獣の耳があるように見えた。さらには、尻からは大きな尾が揺らめいて見える。

 目をこすると、それらは消えていた。ただ秀と、彼に胸を押しつけるほど近く腕を組んだ美女が楽しげに離れていくのが見えるだけだ。

 祐樹はぎゅっと、シャツの上から手首を押さえた。自分はどうしてしまったのだろう。

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