夏の思い出

五日野影法師

第1話 夏の思い出

 小学校低学年のころ北九州市門司区大里というところに住んでいた。戸ノ上山の山裾にあった公務員社宅はコンクリート製二階建て六畳一間と四畳半二間の狭い小さなものであったが庭は比較的広く小さな家庭菜園ができた。家族4人がその社宅に住み、一階は四畳半の居間と台所、二階は四畳半を子供部屋、六畳を家族の寝室として使っていた。和室である六畳に全員分の布団を敷きみんな並んで寝るのである。私は一番庭側で庭の向こうは山の裾野の森である。私の隣にガラスの引き戸、ベランダとあり、そこから庭を見下ろせる。

 ある夏の早朝、ざわざわした物音で目が覚めた。カーテン越しではあるが夏は朝から光が入るので比較的早くに目が覚める。その日も光があふれていて少し肌寒かったように思う。物音は庭から聞こえていた。聞き取れないのだが人の話し声と気配だった。それも大勢だ。カーテンを開けたのか開いていたのか覚えていない。ガラス戸の外は真っ白で1m程先にあるベランダの手すりさえ見えない。牛乳をこぼしたような白さだった。恐ろしいとは感じなかった。家族全員が隣にいて夏の早朝で明るかったこともあるだろう。庭を見るために起き上がろうとした。

 腕を掴まれた。隣の母の布団からだった。部屋は明るい。小さな声でやめろ、じっとしていろ、と言われたようだ。その時の母の顔は覚えていないが眼が母の眼とは思えないほど険しかった。突然恐しくなった。庭の先は山裾にある森である。そこに早朝、大勢の人の気配がする。すぐ下の庭に大勢の人の気配が真っ白な中にある。。寝ぼけていた頭はそこで初めてそれを意識した。ガラス戸は開けなかった。息を殺した。それからのことは憶えていない。寝たのかずっと起きていたのか。

 随分経って母に聞いてもそのことを覚えていなかった。その社宅に4年間住んだ。そんな出来事は一度だけだった。近年気になって門司の歴史を調べた。門司は二度、大勢の人が亡くなる惨事があった。一度目は昭和20年6月29日の夜中に空襲に見舞われ55名が亡くなっている。二度目は昭和28年6月25日大雨により山腹崩壊し死者行方不明者143名が出ている。それは戸ノ上山の大里地区でも起きていた。私の体験がその惨禍の日だったのか、同じ場所だったのかはわからない。

 現在、社宅のあった場所は再開発され駐車場になっている。庭の向こう側にあった山裾の森はそのままだった。半世紀近く経っても何も変わっていないように見えた。

 もうあんなことは起きていないのだろうか。

 私の腕をつかんだのは本当に母だったのだろうか。

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夏の思い出 五日野影法師 @fukamachikun

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