1. ばら色





  1995年、その年は実に多くの日本人にとって忘れ難い年となった。

1月には阪神・淡路大震災が起こり、6500人近くの命が失われ、続く3月には東京で地下鉄サリン事件が発生、13人もの命が失われた。


 その日の夜はよく晴れていて、月がとても美しかった。

2月の満月の夜に私は生まれた。

〝さくら〟と名付けられたのは、両親が結婚する前によくデートに行っていた名勝地に因む。


 他愛ない、平凡な家庭に生まれた。

父は大手ゼネコン勤務の若手社員、母は専業主婦。

母は実家へ里帰り出産をしていたが、父は1ヶ月前の震災の復興のため大阪にいた。

なので、私が父に会えたのは生まれてから3日後のことだった。

その時の記憶なんてあるはずはないが、きっと楽しい人生が幕を開けたと信じていたに違いない。


 実際、人生は楽しかった。

3年後に弟が生まれたが、母はよくフィルムの一眼レフを持ち出して私たち姉弟の写真を撮っていた。

残っている写真はどれも幸せそうな笑顔ばかり。

父と赤ん坊の頃の私が湯船に浸かっている写真、家族で公園へ行ってブランコに乗りながらカメラを持った母に眩しいばかりの笑顔を向ける写真、3歳の誕生日に母にチョコレートケーキをねだって、作ってもらってご満悦の写真。


 私の記憶では、私はちょっと意地悪で横暴な姉だったが、実際は違って面倒見の良い姉だったらしい。

幼いながらもよく弟の面倒を見ていたそうだ。

弟はよく私の後を

「ねぇね、待ってー!」

とついて来る可愛い子だった。


 私の最初の将来の夢は魔法使いでも美少女戦士でもなく、お花屋さんだった。

幼稚園児の頃は花の名前なんて知りもしないくせに、お花に囲まれて花の妖精のように仕事ができると夢を見ていた。

これは二十歳近くになって知ったことだが、花屋は結構な重労働とのことだ。

現在も花は好きで、花屋を夢見ていたあの頃より植物には随分と詳しくなった。

花屋になるのも悪くはなかったと今では思う。


 そして一番古い記憶は、弟がまだ母のお腹にいる時に父の転勤先で近所のお姉さんたち(と言っても幼稚園児)と遊んでもらっている時の記憶。

確か、坂道で転んで母に抱っこして慰めてもらっていた記憶だ。

幼少期の私はとても愛されており家族の愛に囲まれて育った、疑いたくない思い出。


 その頃の私は人生とは幸せなもので、二度と立ち上がれないくらいの苦悩の存在など想像もしなかっただろう。

そう信じて疑うことなどなかった。

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火の鳥を探して 佐藤 かえで @cerisier77

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