滝雨
角居 宗弥
滝雨
橋を渡れば天王山のすぐ麓である。自分の被っている麦藁帽が小さすぎたと気づいたのはついさっきのことだ。いくら木々の間といえ、木陰の隙を突く日の光に耐える辛抱はない。いくつの足がそこを通って行ったのだろう、と思うほどの小さな跡が無数に付いている。
風が強いのに頓着しないで川を見ようと下をのぞいたら、かの麦藁帽は見事に吹き飛んでいった。顎ひもは運悪く切れていた。もっとも、十余年前に切れたままであるが、そのまま放っておいた結果だった。目で追い切れなかったので、見当をつけて坂を駆け下り、茂みの中に手を突っ込んで、ごそりごそりと探した。
場所を変えて適当に探していたら、やわな感触が指先にあって、勢いよくつかんで上げてみる。手の中にあったのは皮のだらしない真っ黒の猫だった。体に反してなかなか良くキリリとした顔をしている。こやつが突然こんなことをぬかした。
「おい、その手を離せ、意外と痛いんだ」
人生で一番驚いた。咄嗟に手の力が抜けて、頼りなく腰からすとんと座ってしまった。
「おい、いきなり離すんじゃない、顔から落ちてしまうだろ」
「じゃあそっちはいきなり話すんじゃないよ、心臓に悪いだろ」
「趣味の悪い帽子をかぶっていたな」
「趣味が悪いとは失礼なやつだな、まずなぜそんな
「僕がしゃべって何か悪いのか」
自分は平行線の議論を好まない
「君、俺の帽子を知ってるか」
「それよりも僕に言うことがあるんじゃないか」
「何を言うんだ。俺は君に会ったばかりなんだぞ、とにかく帽子を返せ、しらないなら知らぬでそれでいいぞ」
そうかあ、とため息混じりに呟く猫を見て、少し腹が立ってきた。
「知らないのか、じゃあ俺は帰る」
「へえ、しゃべる猫にはもう飽きたかい」
「うーん、だって可愛げがないんだもの、帽子を早く返してほしいね」
奇妙な黒猫は自分をキリリと見た。睨まれていると思って目を細めて睨み返してやった。そうしたら、ぼそっと一言、はあ、負けたよ、と言ってどこかに去ってしまった。
ああは言ったものの、人の言葉を、よりによって日本語を話す動物は結構物珍しかったので、あやつが消えて行った先を静かに除いていくことにした。するとそこには無くしたはずの麦藁帽があった。しかし結構土にまみれて汚れている。心なしか張りがより無くなってしわしわになっていた。結局かの猫は見失ってしまった。
それから滝のような雨が降ってきたのはまもなくである。近くに住む年寄の口は、天王山の雨は怖いと言った。そのとおりだと思った。案外大粒の水滴が速度を増して体当りしてくる。
自分はやにわに走り始めながら、土を
泥土を滑るように駆け下っていった。足を運ぶごとに一足分は滑っているに違いない。
小さな石が落ちてきた。最も、そのときの自分はこれを知らなかった。麦藁の
一刻も経ずに、静かに大きな石が頭の上に落ちてきた。気がつけば自分は、橋の真ん中で滑りながら走り続けている。
滝雨 角居 宗弥 @grus
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