まだ夜は明けないが、第5話

 目覚めは最悪だ。


 感じたことのないような吐き気と、刺すような全身の痛みが少年を襲う。

 少し頭を動かそうとしただけでも、鈍器で殴られたみたいだ。


 薬品のツンとした匂いに、繋がれた点滴。白いパジャマに、白い天井、白いベッド。

 朦朧とした意識で、ぼうっと宙を見つめる。

 随分と長い夢を、見ていたような気がする。


 ふっと息を吐く。声は掠れている。内臓が、呼吸に合わせて、ズキズキ脈打った。


 レースカーテンの向こうには、朝日。

 外はいい天気らしい。突き抜けるような青い空に、薄い雲が静かに浮かんでいた。


 自分の心臓がトクトクと音を立てるのが聞こえ、自然と気持ちが溢れてしまう。


 生きているのだ、と。


 

 絶対致死量だったとおもうんだけどなあ。

 苦笑した。笑うと振動が肋骨に響く。


 息をするだけで吐きそうだし、体がベッドに固定されて動けないし、とにかく空腹で仕方がない。世界は慈悲も涙もなく、新しい一日をご提供しやがるし、なんなんだ一体。 


 少年が思いつけるだけの悪態をついていると、彼の横たわるベッドに突っ伏すようにして、地べたに座り込んで眠っている母親に気づいた。


 来ていたんだ、とどきっとする。

 首を少しだけ起こし、その様子を見る。

 おろしたままの髪には、白髪があった。

 その肩は、いつもの快活な母とは思えないほど小さい。

 随分歳を取って見え、こんなにも短い間で、人はこれほど衰弱するものかと目を疑った。

 足元に未開封の菓子パンがいくつか転がっている。この様子だとどうやら、何も食べていないようだった。


 自分のせいだ、と思うと、お腹の底が、ひゅっと冷たくなる。

 恐る恐る、震える手をゆっくり伸ばして、その肩に乗せる。


 伝わってきたのは、温かい体温と、いつもの母の匂い。

 強張った力が抜けて、途端、視界が滲んだ。

 頬をつたい、生ぬるい涙がポタポタとシーツに染みをつくる。心から安堵したのだ。


 親不孝な息子でごめんなさいと、謝ったら、許してほしい。

 何事もなかったように、愛してほしい。

 ……でも無理なのかな、もうそれは。

 少年は、目を閉じて、また、夢の世界に身を傾ける。


 あと少ししたら、母が起きるだろう。

 そしたら、また、忙しくなるだろう。

 病室にナースコールが響いて、意識が戻ったことを確認されたら、少年のことを全部知ったかのような口ぶりの大人たちがやってきて、希死念慮など持たない「正しい」人間に矯正してもらうのだ。 

 怒られたくないなあ。

 でも、怒られるんだろうなあ。

 そんな小さなことをうじうじ考えながら、少年はうっすら目を開ける。


 病室からの眺めはよく、街全体が一望できた。

 どこもかしこも息苦しさばかりが蔓延していて、居場所など何一つなかったが、朝日に照らされ、朱鷺色に染まる街は、確かに美しかった。


 駅前のパン屋では、店主のおじさんが、今日も朝早くからパンをこねている。

 あそこの道はきっと、金木犀の匂いでいっぱい。

 思い出せるこの街の好きなところと言えば、他愛無いことばかりだ。


 でも、きっとそれでいい。

 あのお店の新作スイーツが食べたいから、

 あの漫画の新刊が読みたいから、

 怠惰にゴロゴロする一日を過ごしたいから、

 いつかデートしてみたいから、

 っていうかそもそもモテたいから、

 だから、もう少し頑張ってみよう。

 生きる意味なんて、それでいいのだ。

 


 世界は刻一刻と色を変えていく。 

 それに追いつける人と、置いて行かれた人。

 二人の声が交わることはない。

 けれど、どうか、気づいてほしい。

 追いつけることだけが、正義じゃないと。

 あなたの正しさだけで、誰かの価値を決めないでほしいと。 

 何も知らずに、真っ直ぐ生きているあなたにも。

 息苦しいこの社会から、排他されたあなたにも。 



 強い眠気に襲われて、少年はまた、優しい夢を見る。

 まだうまく息はできないが、そんなこと問題じゃない。

 明けない夜のその先で、今日を迎える準備はできている。

 

 

 

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ひかれものの小唄 @Kopfkino

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