第4話 「いってらっしゃい、気をつけて」
眠い頭を支えた右手が力を失い、椅子から崩れ落ちそうになって初めて、自分がうつらうつらしていたことに気づく。
やはり寝不足は身体に堪える。
うたた寝なんて、いつぶりだろうか。
きょう未明、男は一人、埃を被った本を開いた。『案内人の心得』と書かれた、辞書のように分厚い本だ。
『案内人心得基本原則 少年課
一 案内人は、訪問者が元の世界に復帰する手
助けをするべし。
二 案内人は、訪問者の自己決定の過程を援
助するべし。
三 案内人は、自分の素性を一切知られては
ならない。
四 案内人は、必要以上に干渉してはならな
い。
五 案内人は、守秘義務を徹底し、訪問者の
一切の事情を漏洩してはならない。
ただし、訪問者の状態に応じて案内人が必要性を感じた場合、独自の判断で、基本原則の適用を受けない対応をすることも可能とする。』
男が属する少年課は、案内人の中でも新人が配属されやすい、10代の少年少女への対応を主とする課だ。
今回随分と特例措置を取った気がするので、久しぶりに仕事のマニュアルを開いてみた次第だ。
今回の特例を思い出す。家にあげてケアをすることは大して珍しくもないが、顔の覆面を取るのは、原則禁止とされている行為だ。
でも彼は、話す時に人の顔色を伺いすぎる、悪い癖を持っていた。布を被っているとむしろ、相手が自分の言葉で何を感じたのかわからず、遠慮してしまうようだった。
顔が見えると、相手にいらない情や親しみを抱いてしまう、とのことで禁止されていたが、あの少年は、人付き合いに関しては妙なところでドライだったので、そんな心配もないだろう。
この仕事には特例がつきものだ。
死の淵に立たされた少年少女が、毎日数えきれないほどやってくる。
案内人一人につき、1日に対応する訪問者の数は、一人か二人。
週休が2日だとしても、週に多くて10人分の人生に、片足を突っ込まなくてはいけない。
大抵の訪問者が中高生だが、その理由は、家庭の事情から学校、バイト、人間関係、やるせなさ……思いつくだけでも多岐にわたる。
案内人は、彼らが、元の世界でまた生きていけるように、一人一人の状態に合わせて、適切な対応をしていくことが求められている。
だが、現状、元の世界に復帰した訪問者の半分ほどは、あまり年月も経たないうちに、霊界よりもっと上の、天国へ行ってしまう。
まだ生きてみよう、と意欲を見せてくれる訪問者は多いものの、実際もとの世界に戻ったらなんら変わっていない。それに絶望して、自らの命を絶つという流れは、実際非常に多い。
男は、昔対応した訪問者が、天国に運び込まれたことを知る時、自分の無力さを感じる。
彼らに、ごめんなさい、と謝って、ぎゅっと抱きしめてあげたくなる。
ごめんね、あの世界に返してしまってごめんね。苦しかったでしょう。辛かったでしょう。
そんなことを思って、胸が締め付けられる。
訪問者の霊界での記憶は、現世に戻ると消えてしまうという。
だからこの気持ちは、偽善めいたものに変わりはないのだろう。
いっそ、霊界は辛い世界に戻る前の、最後の思い出作りの場なのだと割り切った方がいいのだろうか。
そのくらいの冷酷さをもっていないと、この仕事は到底やっていけない。
「案内人さんみたいな面白い大人がいるなら、なんだかこの世界も、捨てたもんじゃない気がします」
今回の少年は、こんなことを言っていた。
素直に嬉しかった。
彼は、不思議な訪問者だった。
ここにきた時の落ち着きようと、どこか他人事のような大人びた物言いが、初めの印象だった。
だが、一人で何かを考えては、時折辛そうに顔をしかめていた。
なかなか、何が彼を苦しめているのか、わからなかった。
学校か、家族か、自分自身か。
少し目を離したら、飛んでいってしまいそうだった。
手を離さずにいよう。
小さな子どもを支えるように、黙って手を繋いだ。
少年が何に押しつぶされていたのか、まだよくわからない。きっと彼自身も、よくわからないのだろう。
けれど、なぜか、大丈夫な気がするのだ。
あの子は、大人になれる。そんな気がする。
冷静沈着で聡明だが、中身はまだまだ幼く、でも芯は強い。
一日共に過ごして抱いたその印象は、初めのものよりもずっと色濃く男の頭の中に残った。
彼のいなくなったソファを、そっと見つめる。まだ温もりは残っているだろうか。想いを巡らせる。
彼にとって、世界は今、生きづらいだろう。
社会の価値観や、残酷さに、これからも傷ついて、泣いてしまうだろう。
それでも。
大丈夫。そう言ってあげないといけない。
大丈夫だよ。君が呼吸を覚えるまで、もう少し、大人が守ってあげるから。
だから安心して生きていて。
「いってらっしゃい、気をつけて」
男は歌うように呟くと、本を閉じて立ち上がった。
また、新しい1日が始まる。
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