どうしようもない少年の、第3話
鍋がコトコトなる音と、誰かの慌ただしい足音が聞こえる。鰹出汁のほのかな匂いが鼻腔をくすぐり、空っぽの胃袋が、少年の閉じた瞼をノックした。
もう夕ご飯の時間か、なんて思いながら寝ぼけ眼を擦ると、台所に立つのは母親ではなく、知らない大人だった。
「誰……?」
朧げな記憶が、段々とはっきりしてくる。
ここは霊界で、いろいろ案内してもらっていて、それで気絶して……。
少年は、寝かされていたソファから少し身体を起こすと、料理をする大人を密かに観察した。
背丈や体つきから、彼が案内人の男であることは、すぐにわかった。
さっきと違うのは、被っていた黒い布を外し、素顔が露わになっていることだ。
なんとなくみてはいけないようで気が引けていると、男の方が意識の戻った少年に気づき、安心した顔つきでソファの方に歩いてきた。
「体調はどうですか?」
答えられずに曖昧に頷くと、男はしゃがみ込んで、少年と目線を合わせた。
「あの、先ほどは苦しいことを思い出させてしまってごめんなさい」
「あぁ、はい」
この人が謝ることはないのに、と思いつつ男の目をちらり見ると、まだあどけないその顔立ちに、思わず目を見張ってしまった。
立ち振る舞いや話し方から、もう少し年上とばかり想像していたが、実際は少年と5つ違うかどうか、といった年齢に見える。
垂れ目がちの目は、笑うとくしゃっと優しそうに細められた。
黒い髪の毛は朴訥としていたが、少年の、目にかかるまで伸び切った髪よりずっと清潔感があった。
特別容姿端麗でもないが、第一に思ったのは、なんかモテそうだな、という、高校生男子たるもの、至極当然の感想である。
「あの、布、被らなくていいんですか?」
「あっ、顔を隠す決まりは、案内人の勤務時間中と決められているんです。今は勤務時間外なので。ここ、私の家なんです。だからプライベートといいますか」
今被り物は洗濯中でして、とあたふたする男に、少年は真面目に尋ねる。
「え、それ大丈夫なんですか。無給の時間外労働なら労働基準法で……」
男は目を丸くした後、彼を安心させるように微笑んだ。
「もちろん、大丈夫です。あの部屋で一人、夜を過ごすのは寂しい気がして。というか、仕事は関係なく、私があなたと一緒にいたいと思ったのです。だから、友だちの家に泊まりにきたぞと思ってくれたなら嬉しいです」
「そう、ですか」
少年は、肩の力をふっとぬけるのを感じた。
男が、自分を心配して言ってくれているのが分かった。
目が覚めて、あの部屋に一人だったら、どんなに孤独で辛いだろう。
今は、もう大丈夫。
軽蔑されたりなんて、してなかった。
よかった。
「夜ご飯はうどんにしました。胃に優しいですから、少しずつどうぞ」
ソファーの前の簡易的なテーブルに、ことんと湯気の立った丼が置かれた。
ふぅー、ふぅーと冷まして、口に運ぶ。
「味、薄すぎたりしませんか?」
「はい、あの、おいしいです。ありがとうございます」
「それはよかったです」
少年は、空っぽの胃袋が、うどんの温かさで満たされていくのを感じた。両親以外の手料理を食べるのは新鮮だったが、どこか懐かしい味がした。
お風呂に入り、歯磨きをして、面白いテレビを見て、気づけば日付が変わりそうになっていた。
「ぐっ、いけっ! あぁ〜、またLOSEだ」
「でも今の攻撃、絶対負けたって思った! めっちゃよかった」
「……もう一戦やりましょう」
「望むところです」
しんと静まった街で、この部屋にだけ、大晦日の夜のように、特別な夜がやってきていた。時間は二人を横目で見ながら、優しく、ゆっくりと進んでいく。
「このソフト、やったことあるんですか?」
「初めてです。多分この世界のオリジナルだし。でも、ゲームはよくやってました」
「へぇ。って、もう連鎖が組まれてる。どうやって崩せばいいんだ、これは」
「ちょっとコントローラー貸してください。多分ここにこれを配置して、次に、こうだ!」
少年が、ふはっと声を漏らして、相好を崩した。
「やっば。超楽しい。崩すの難しー!」
ここにきて初めて、少年が笑った。
男は、ゲームの画面から少年へ、そっと視線をずらす。
ふにゃ、とした、安心しきった素直な笑顔。
「あっ、いけるいける。崩せる。……やっ
た、来るぞ。次代わります、準備しててください」
少年はコントローラーを持って振り向くと、男があまりに嬉しそうな顔で自分を見ていたものだから、不思議に思った。
「どうしたんですか?」
「いいえ。楽しい夜だなあと思って」
「ふふっ、そうですね」
時は子の刻から、丑三つ時へと差し掛かろうとしていた。
3試合ほどゲームは続き、やり切った二人は、同時に床に寝転がった。
身体を弛緩させて、ふぅーと長い息を吐く。
「こんな風にゲームしたの、久しぶりだなあ」
少年は、まだ興奮も冷め切らぬまま、熱くなった身体を手で仰ぐ。
半分だけ開けた窓から、涼しい夜の風と、静かな月明かりが入ってきた。
遠くの貨物列車がコトンコトンと進む音と、ひんやりとした空気に少しだけ混ざる、街の煙草や焼肉の匂いを感じていると、心が少しずつ落ち着いていく。
「ゲーム、久しぶりだったんですか?」
同じく肩で息をした男が、少年に聞く。
「ああ、はい。中学生になってからあんまりやらなくなっちゃって。去年は受験生だったし、夏休みに数日やったくらい」
「そうですか」
「でも、楽しいですね、やっぱり」
少年は宙を仰いだ。そして、何かを思い出すように目を閉じる。
「僕、本が好きだったんです。毎日図書館に行ってて、お年玉も全部、好きな作家の小説買うのに使ってた」
男に聞かせるためというよりそれは、ひとりごとのように聞こえた。
「今日みたいな、ちょっと涼しくなってきた季節の夜には、ベッドサイドに本を積み上げて,好きなお菓子を食べながら、小さな明かりで夜通し読みたい本を読むんです。明日のことなんて考えずに、本の世界で大冒険をする」
「はい」
「今、なぜか急にそんな日のことを思い出して。なんででしょうね」
少年は、伸ばした手を、自分の額にのせた。
「懐かしいな」
「それは素敵ですね」
二人の間に、ゆったりとした沈黙が流れた。
しばらく経って、少年がぽつりと言った。
「好きだった、んだけどなあ」
また、少しの静寂。
「そうですか」
男が、小さく相槌を打った。
少年は一旦口をつぐんだが、躊躇いがちに微かな声を出した。
「い、今は僕、何にもないんです。本なんて、最近全く読んでない。好きなものも、得意なことも、夢も目標も何にもない。薄っぺらい人間だなって、自分でも思います」
男の返事はない。なんと返せばいいのか、考えているようだった。
少年は、さらに言葉を続ける。
「僕は、特別なもの、なんにも持ってないです。だから、欲しいって思った。でも、やっぱり何もなかった。それでも認められたくて、期待されたくて。だから追いつこうとして、そしたら、途中で動けなくなった」
支離滅裂ですね、と付け足す。実際、自分でも何を言っているのか分からなかった。なぜ急に自分がこんな話をし始めたのかも、男はこれを聞いてどんな風に思うのかも、全く分からなかった。
実際、自分は何を望んでいたのだ、と冷静に考える。
才能が欲しかった?
多分違う。飛び抜けたものがないなりに、自分の身長以上の壁も、人以上の努力と飛び越えてきた自分が、なんだかんだ、結構好きなのだ。
一番になりたかった?
否、それは、僕の性には合わない。そんなこと、一切望んでいない。
違う。ただ一つ、望んでいたのは
「僕は、あの世界で、上手に息ができるようになりたかった、それだけなんです」
そう、ただ、それだけだったのだ。
「そのために、自分を追い込んで、勉強もした。話についていけるように頑張った」
回想する。なんで、あんなにも息苦しかったのか。
「はたから見ると、馬鹿みたいでしょう。その小さな価値観に固執しているのが。他に大切なところもあるだろう、僕だって、そう言いたい。でも」
思い出した。ある日、模試の自己採点の時。成績トップ層のあるクラスメイトの周りに5人ほどが集まって、何やら声をかけている。
休み時間もよく一緒に過ごす顔ぶれだったので、何気なくどうしたの、と聞いた。
「数学、今回爆死した。大問4とか、最初に計算ミスしたから、その後も連鎖して全部間違えたし」
彼はひどく肩を落としていて、周りの5人に励まされていた。
少年も、彼が気の毒に思えた。
「そうなんだ。で、でも、今回悪くても、また模試はあるし、大丈夫だよ。ひ、ひとまずお疲れ……さま」
話している途中で、空気が少し変になったのが気づいた。まずいことを言ってしまったか、と焦って話を終わらせる。
励ましのテンプレートをそのまま口に出したような台詞だったと思う。微妙な雰囲気は、きっと気のせいだ、と思い直し、じゃあ、と立ち去ろうとする。と、5人のうちの一人が、神妙な面持ちで少年に諭した。
「あの、お前知ってる? こいつはずっと学年トップ10に入ってたんだけど」
もちろん知っているけど、といいかけて、相手の少し怒りも混じったような声色に、何も言えなくなる。
そうか、そこに、微妙な雰囲気の答えがあるのか。
でも、何がいけなかった?
まだわからない少年に、5人は微妙な雰囲気になった理由を教える。
「お前とあいつは、違うんだよ。お前には、あの気持ちはわからないだろう」
それを言われた時、少年は、彼らの迫力が怖かった。ただ善意で励ましただけだったのに。
「そっか。そうだよね、ごめんね」
その時はただ謝って、トイレの個室に逃げ込んだ。
「お前とあいつは、違うんだよ」
どこが違うのか。
テストの点? 順位?
さっきの会話で使われた「違い」はそこだけだ。それだけ「しか」違わない。
それだけしか違わないのに、気持ちを理解しようとすることすら許されない。
「数字や言葉で表せるものでしか、人を判断できない。それによって一人一人に立場が生まれて、それをわきまえて行動しないといけないと思っている。そんな考えをもって育ってきた人が、僕の周りには多すぎる、ような気がする。いや、実際そうじゃない人もいると思うんですけどね」
最後に少し濁したが、少年は、息苦しさの正体が段々わかってきた。
「そんな考えを持って育ってきた人が多すぎる、なんて、なんだか何様だよって感じですね。でも」
そっと目を開ける少年。
「僕には世界は、そう見えたから。だからもう疲れたんです」
今日は本当に楽しかったな、と付け足す。
男は、かける言葉がすぐに思い浮かばなかった。身体を起こし、隣に寝転ぶ少年を見た。
彼は、思いの外晴れやかな表情をしていた。さっきまで、少しでも触れたら壊れてしまうのではないかと思うくらい脆く見えたのに。
彼は、あまりに弱い。すぐに泣いてしまうし、自分に全く自信がないし、ひどく卑屈だ。
これではさぞ生きづらかったろうに、と、男は内心、少年に哀れみをかけていた。
けれど、今、少年の晴々とした表情を見て、心の奥から、言葉で表し難い感情が、泡のように生まれた。
ああ、彼は強いんだなあと思う。
黙って、一人で抱えていた、息苦しい思いの答えを、彼は確かに見つけられたのだ。
少年は、男に合わせて身体を起こす。
その小さな身体を、男はぎゅっと抱きしめた。
「あなたは頑張った。誰がなんと言おうと、私が保証します。頑張ったんです」
少年の低い体温が伝わる。
こうすれば、彼は、一人の世界から、救われるだろうか。
世界は、彼に優しくなれるだろうか。
「あなたは、強いです。だから、大丈夫です。大丈夫ですよ」
「何が、大丈夫なんですかぁ」
少年は、冗談めかして言う。
また涙が出てきて、それを隠すために上を向いた。鼻がツンとした。
「何にもないのに? 好きなものも、得意なことも、な、なんにもないのに?」
「大丈夫ですよ」
男はそれだけ繰り返す。
「大丈夫です。あなたは一人じゃない」
そして、涙目の少年に気づかないふりをしながら、さて、とゆっくり話し始めた。
「あなたは今、大人になっているんです」
これが最後の少年との会話になるかもしれないことも十分に意識しながら、男は慎重に話した。
「大人は、頑張っても、あんまり褒めてもらえません。成果至上主義の世界ですから。それに加えてこの国は、同調圧力が異常なまでに強い。判断するときにみられるのは、その人が社会的に、どう評価されてきたかです。つまり、閉鎖的で排他的なコミュニティで「うまく」やっていくことが正しいときた。あなたは今、この大人の世界に、足を踏み入れています」
少年は、諦めに似たため息をはく。
「……大人を見る時ーー例えば、電車の中で、スマートフォンの画面を見つめるサラリーマンたちをみる時、みんなつまらなそうな、疲れ切った顔をして見えます。だから、僕はあんまり大人になりたくないです」
「将来への希望が見えない、生きづらい世界になってしまったものですね」
男も一緒にため息をついた。
「大人になるとは諦めることだとは、よく言ったものです」
でも、と続ける。
「大人の世界も、案外悪くないものです。きっとこの世界には、あなたも、私も知らないような人が大勢いるのでしょう。世界は広くて、たくさんの思いを抱えたたくさんの人が、今日も生きてる」
「どういうことですか?」
「あなたは、目に見えない違いや良さに気づいて、生きづらさに寄り添える大人になれると思う、ということです。確かに、成果主義の世界には合わないかもしれませんが、私は、こんな大人がいてもいいんじゃないかなと思うんです」
どうですか?と男は首を傾げた。
「私は、あなたは素敵な大人になれると思います」
「なりたくないなぁ」
うーんと顔をしかめる少年。
男は、その頭をぽんぽんと叩くと
「じゃあ、私たち大人が、もっともっと頑張らなきゃいけないですね。あなたが大人になる頃の世界が、今よりもう少し、マシになっているように」
そう言って、声をあげて笑った。
少年は、この人はなんだか楽しそうだなあと思う。
「案内人さんは、生きてて楽しいですか?」
ふいをつかれて驚く男。
「うーん、そうですね。楽しいですよ。私も、何にも特別じゃないし、よく怒られますけど、この仕事好きですし」
「へぇ、そんな風に言えるって、かっこいいですね」
「そうですか? そう言ってもらえたなら何よりですよ」
二人はにこにこと笑い合った。
無意識に、ふわあとあくびをする少年。
「なんだか眠くなってきました。そろそろ寝ますね」
男から離れ、最初に寝かされていたソファの方へ歩いて行く。
「案内人さんみたいな面白い大人がいるなら、なんだかこの世界も、捨てたもんじゃない気がします」
「それは、あなたもです。大丈夫、あなたにはちゃんとあります。キラキラした、暖かい何かが」
ソファに寝転がり、目を閉じる少年に、男は優しく言った。
「おやすみなさい。いい夢を」
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