広い世界の、ちっぽけな第2話
「目が覚めましたか」
少年が微睡から目覚めると、落ち着いた声の、背の高い青年が、隣に立っていた。
黒い布のようなものをかぶっていて、顔は見えない。
「あなたは……」
「ようこそ、この世界へ。私はここの案内人にすぎません」
男が紳士さながらにぺこりとお辞儀をしたので、少年も慌てて上半身を起こし、頭を下げた。
少年は白いベッドに寝かされていた。
柔らかい日差しがカーテンの隙間から差し込んでいて、小さな部屋をほんのり橙色に染めていた。
自分の部屋ではない、見たことのない場所。
天国みたい、と思った。
「本当のあなたは、睡眠薬の多量摂取で、今は病院で昏睡状態です。頑張って生きていたのですね。私は全部知っています。あなたの抱く劣等感も、羨望も全部」
そうして、男は優しく少年の頭を撫でた。
言葉はすっと心に響いた。
「私はあなたに、少しだけラクに生きていける方法を教えましょう。ああ、そういえば、ここは、天国の一歩手前ーー「霊界」と呼ばれております。あなたを知っている人は誰もいませんし、安心して、くつろいでください」
男は少年の頭を撫でながら、窓の外を仰ぎ見た。
「少し経ったら、街を案内しますね」
「はぁ」
「えーと、何か聞きたげな顔ですね」
「いや、そんなこともないです、けど」
まだ理解が追いついていないのだ。
この案内人は何者なのだろう、そもそも霊界とは、というかなんでこの人は自分のことを知っているんだろう。
ぐるぐる考えたが、やめた。
考えて、分からなくて、聞くという行為にはもう疲れ切っていたのだ。
「こんなに状況を受け入れるのが早い人は珍しいですね、結構取り乱す人も多いんですよ」
なんと返せばいいかわからず、少年はこくこくと頷く。
結構、ってことは、自分以外にもここにきたことのある人がそこそこいるんだなあ、と、関係のないことを考えた。
「何か心配なことや質問などありましたら、いつでも私に教えてくださいね」
男は優しい声色で、俯く少年の手を取った。
「さて、体調は大丈夫ですか?」
「あぁ、はい」
「では、ちょうど時間帯的にも涼しくなってきたので外に行きましょうか。ここにいても何もないですからね。あっ、立ちくらみには気をつけてくださいね」
「はい……」
冷たい手だった。部屋の向こうに腕を引かれながら、少年はそっと尋ねた。
「あの、本物の僕は、もう死ぬんですか」
「いいえ。少し意識がなくなっているだけです。……あなたは死にたかったですか?」
少年は考え込んだ。
この先もずっと、つまらない顔をして、疲れたまま人生を終えるのなら、生きてる意味などあるのだろうか、と自分自身に問いかけた。
「わからないです」
「そうですか。でも、あなたは確かに、睡眠薬で死ぬつもりでしたよね」
「うーん、あの世界、僕が生きてる意味なかったですから」
「そうですか」
部屋を出ると、そこには街が広がっていた。
街路樹が並び、カフェや商店があちらこちらに点在している。
地方中枢都市の駅前くらいに都会的で、男と同じく顔を隠した大人たちが交差点やお店の中を楽しそうに歩いていた。
霊界でも、こういう現代的な営みが行われているのは意外で、少年は驚いた。
「では!」
「では?」
「あなたに見せたい場所が沢山あるのです。さあ、行きましょう」
男は少年と繋いだ手をぎゅっと握った。
「子どもは迷子になりますからね。くれぐれもはぐれないように」
そうして
「ここは美味しいハンバーガーショップです。案内人の経費から出るので、どうぞお好きなだけお食べください」
「チョコレートが好きなんですか?じゃあこのチョコシュークリーム、一緒に食べましょう!」
「どんな服がお好きですか?あっ、意外と明るい色もお似合いですね!」
「私、クレーンゲームは得意なんですよ。あなたもやってみますか?」
「最近のヒット曲はわかりませんね。そういえばあなた、タンバリン上手ですね」
飲食店、デパート、ゲームセンター、カラオケ……少年は、男に腕を引かれるまま、いろいろなところに連れていかれた。
「これっ、遊んでるだけですよねっ」
軽い足取りの男についていくのに精一杯で、肩で息をする少年。
「ご名答、その通り。でも、楽しかったんじゃないですか?」
男はそう言って振り返ると、少年の後ろを指さした。気づくと街の外れの小高い丘の上まで来てきて、そこからは街が一望できた。
「ほら、見てください。世界は広いでしょう」
少年も、ゆっくり振り返った。
街は、手のひらに収まるほどに、あまりにも小さかった。
「綺麗」
「はい、私の大好きな景色です。あなたにも見て欲しくって。どうですか、こんな風に肩の力を抜いて思い切り遊んでも、楽しいでしょう」
二人は草の上に座り込んだ。柔らかい風が、髪の毛を揺らした。
ゆっくりと時間が流れた。
「見てください。この世界では、いろんな人が、ぎゅっと一つにまとまって生きている。ここからだとよく見えるでしょう」
男は笑った。あまりにいろんな人が見えて、面白いのだ、と。
「自分の生きてる意味、感じられましたか?」
「うーん。あんまり」
「そうですか」
これで会話は終わった。
否定することも、肯定することもなく、ただ受け止めるような男の話し方は、少年にとっては心地よかった。
「生きてる意味なんて、そう得られるものじゃないですよ」
丘を下っていると、ふいに男がそんなことを言った。
「じゃあ、意味もなく、生きていないといけないんですか?」
「うーん、生きる意味の定義が、人それぞれなので、一概には言えません。でも、誰かから求められたり、肯定されたりするのが生きる意味なのでしたら、それを得るのは難しいですよね」
少し不服そうな顔で頷く少年。
この話が上手く咀嚼できなかったか、もしくは、誰かから求められたり、肯定されたりしたい、という心の奥の浅ましさを、男に遠回しから咎められたようで、気まずさを感じたのか。
今のは、圧倒的後者だ。
男はじっと判断し、今度は、人の言葉の裏の裏まで読み解く少年の負担にならないよう、明るい声で話す。
「生きる意味は、あのお店の新作スイーツが食べたいとか、あの漫画の新刊が読みたいとか、そんなものでもいいのかもしれません」
あくまで一般論として、伝えたつもりだった。
「そうですね。でも、そんなもので満たされていたら、僕はここにはいないんです」
少年は、言いにくそうに、しかし、少しの苛立ちをも孕んだような言い方で、男の言葉を切り捨てた。
男ははっとした。
何がこんなにも彼を追い詰めたのか。
彼は何を望んでいるのか。
その答えはまだ、何も見えてこない。
「あの、僕はいつまでここにいるんですか?」
目覚めた部屋に戻ってきた少年は、ベッドサイドに腰掛けながら、隣にいる男に聞いた。
「あなた次第、とでもいいましょうか」
男は曖昧に答えると、浮かない少年の顔を覗き込む。
「帰りたいですか?」
「……無理」
少年は自分の両膝をぎゅっと抱え込んで、顔をうずめた。
さっきまで、街で美味しいものを食べたり、遊んだりして高揚していた気分が急降下する。
帰ったら、何が待っているだろう。
まず、両親は意識が戻ったら、喜んでくれるだろう。別に何も悪くないのに、謝られるかもしれない。
……嫌だな、罪悪感でいっぱいになりそうで。
そして精神科での、週に何度かのカウンセリングと、精神安定剤の処方。
嫌だな、立派な病名がつきそうで。
だんだん落ち着いてきたような気がして、生きていけそうな気がして、そしたら、緩やかに、社会に戻されていく。
嫌だな、冷たい目を向けられそうで。
そしてまた引き篭もったら、今度は患者でも病人でもない、ただの「社会不適合者」だ。
嫌だな、またあの天井を見つめるのは。
元気になったらなったで、また劣等感の日々が続いていく。
嫌だな。……そういや再来週模試だっけ。
こんな日々を繰り返した果てには、転校なり通信制高校なり、周りからそういう道を勧められるようになるだろう。
嫌だな、せっかく頑張ってここまで来たのに。
やりたいと思って勉強をした。
入りたいと思って、頑張っていこうと思って、自分で高校を選んだ。
望んだ通りの未来、のはずなのに。
特に不満も何もないのに。
なんでこんなにも今、苦しいんだろう。
うー、と震えた声が漏れた。
「ん? どっ、どうしたどうした」
急に小さな子のように泣き出した少年に、男は驚く。
「もっ、もう、疲れた。戻りたくない。生きたくない」
咽ぶ声だけ閉ざされた部屋に響き、それも情けなかった。
「ごっ、ごめんなざい、本当に、こんな見っともない人間で」
16の立派な男が、なんでぼろぼろ泣いているのだ。身体がかぁーっと熱くなった。
軽蔑されているかも、引かれてるかも、と思うと、心の底から死にたくなった。
生きていたくない理由として、死ぬことは一番簡単だった。
ほとんど発作だった。
気づけば過呼吸になりながら、食べたものを全部吐き出していた。
「ゔぅっ、きも、ぢわる、い。ご、ごめんなざい、ごめ……」
目の前が、霧の中にいるように霞んでいく。
遠ざかる意識の奥の奥で、男が自分の名前を何度も呼ぶのが聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます