カーテンは閉めたまま、第1話

手元のスマホの通知音に起こされ、いつのまにか自分が眠っていたことに気づく。

 ブルーライトが、カーテンを閉め切った部屋の、少年の顔を照らした。


[おはよう、体調は大丈夫? お昼ご飯は置いておいたよ。先生にも連絡したから、明日は行けるように、ゆっくり休んでね]


 母親からのLINEの文面は、かわいい猫のスタンプで締めくくられていた。

 自分はとんだ親不孝ものだ、とぼんやり考える。


 無機質な部屋の天井がずっと高く見えた。

 この天井を自分はもう何日見つめているのだろう。

 部屋に流れる静寂は、どんな騒音よりも五月蝿く感じた。


 眠り過ぎた頭痛が酷い。

 でもまだ眠り足りないような気がして、ベッドで寝返りをうつ。


 もう疲れたなあと思った。

 何も考えずに、ずっと眠っていたい。

 でも明日が来るのが怖い。

 昨日をあんなに頑張って生き抜いたのに、眠って朝が来たら、また新しい一日が始まってしまう。

 だから眠れない。


 テーブルの上にはちょこんとお弁当箱が置いてある。母お手製の、今日学校で食べるはずだったものだ。


 その隣には、積み重なった、参考書の山。

 そろそろ勉強しないと、と呟いたものの、身体に力が入らなかった。


 どうせやったって無駄だ。

 できる奴はやらなくたって人並みにできるし、できない奴はやったってできない。


 誰だって努力している?やり方が悪い?そんな正論、この期に及んでまで聞きたくもない。

 これが負け犬の醜い遠吠えであることは、重々承知だ。


 彼が通うのは、世間一般では進学校、と揶揄されることも多い、高偏差値の高校。

 そこには、教科書を読むだけでも大抵のことは頭に入るような「天才」がごろごろいた。

 少年が風呂や食事の時間まで、全部削って勉強しても、吸収力の違う彼らには敵わない。

 こういう世界もあるのだ、と思うと同時に、自分はその世界の住人ではないと悟っている。


 別に彼らを妬ましく感じてはいない。

 ただ、少年の目の前の壁を、彼の10分の1にも満たない労力で、あまりに呆気なく飛び越えていく姿を見て、なんというか、やる気とか、向上心とかがふっと消え去ったのだ。

 育ってきた環境も、親が教育にかけた金も、自分ではどうにもできない初期ステータスの圧倒的な差も明らかだった。


「小さい頃からずっと英会話をしていて」

「うち病院だから、医学部行って後継ぐ予定」

「この国留学で行った時……」

「親が〇〇大卒だから……」

 クラスメイトのスペックを聞くたびに、初めは素直にすごい、と思っていたが、今となってはまたか、と悪態をついてしまう自分がいる。


 幼少の英才教育は当たり前、両親から山のような期待を受け、海外経験だって珍しくない。

 エリートな親が丁寧に敷いてくれたレールの上をすいすい歩いて、かたや幼稚園から小中と私立の温室でーー酒やタバコが普通に廊下に転がっている、底辺公立中学の糞みたいな社会の縮図を知らずに、自分にしっかり自信と存在意義を感じながら、ぬくぬくと生きてきた。

 そうだろう? 


 ……とか考えていると、自分につくづく嫌気がさす。自分の劣等感を、他人のせいにしているみたいだ。

 だが、この気持ちは、あまりに圧倒的な差を感じた時、押し潰そうとしても、なかなか頭の中から消えてくれない。


 少年の家庭は、ごくごく一般の中流家庭だ。

母は保育士で、父は多忙なサラリーマン。二人とも大学は出ていない。

 だからなのか「大学を出ないと人生詰みゲー」という、少年を取り巻く環境に蔓延る思想も居心地が悪かった。

 少年は両親が好きだし、尊敬している。

 彼らは確かに大学こそ出ていないが、今とても幸せに生活している。

 

 同級生の親の話を聞いて、自分の両親を、ほんの一瞬、恥ずかしいと感じたことがある。


 すぐに我に帰って、両親への後ろめたさでいっぱいになった。その日の夜は、全く眠れなかった。


 だが、この時感じた一瞬の引け目を、どうしても忘れられないのだ。


 少年は、温かいご飯と、布団と、いい家族がいて、自分は幸せだなあと思っていた。

 塾に行ったり、特別な習い事をしたりするのはあっていなかった。


 本が好きだった。だから、小さい頃からずっと本ばかり読んでいた。

ノンフィクションより、空想の物語が好きで、よく妄想の世界にふけていた。

 母にはよく、ご飯中でもトイレでも本を読んでいる、と呆れられた。


 勉強も好きだった。純粋に知らないことを知れるのがワクワクして、教科書をめくった。

 これだけで、充分満たされていた。のに。


 同級生に感じた引け目は、今までの生き方への疑問に直結した。


 もしも、他の育てられ方をしていたなら。

 もしも、両親が……。

 もしも……! 


 貪欲に、今以上、を求めてしまった。


 ただの、本が好きで、ちょっと勉強のできる普通の男の子が、大きくなって、二つのことを知った。

 一つ目は、自分とはかけ離れた世界のこと。

 もう一つは、そこに今から追いつくには、もう間に合わないこと。


 愕然とした。

 今までの人生も、感じたことも、自分の存在さえ全てを否定されたようで、落ちこぼれた少年は息ができなくなった。

 自信や自己肯定感なんて、中学の教室に全部置いてきていた。


 もちろん、頭の良さだけがすべてじゃない。

 わかってる。それを説かれるほど、盲目じゃない。

 わかってはいるが、周りと比べてしまうのは、しょうがないとも言わざるを得ない。

 勉強ができないと、他によっぽど目に見えるアイデンティティを持っていない限り賞賛されない。ここはそういう世界だから。

 頭がいいことは、どんなステータスより高く評価され、あまつさえ人間性ですらもそこで決まると思っている、そういう教育を受けてきたクラスメイトが多すぎる。

 逆に言うと、少年のような、その集団の「落ちこぼれ」は、それだけで、人権を獲得するのが難しくなるのだ。


 

 少年は、小さな気遣いのできる、優しい人が好きだ。屈託ない笑顔で笑う人が好きだ。ちょっと思い出し笑いのできるような小粋なことを言える、遊び心のある人が好きだ。

 人を判断する時、真っ先に見るのは、偏差値でも順位でもなくて、こういう、数字では見えない、あったかいところなんじゃないか。


 クラスメイトのことも好きだ。

 とても親切に接してくれるし、話も面白い。自分には勿体無いくらいの人格者も多い。

 でも、時折ふっと思うのだ。


 「歪んでいる」と。 


 この世界は排他的すぎて、息苦しい。

 願うなら、もう少しラクに生きれる、最低限のステータスが欲しい。

 そうだな、例えば、人並み以上の要領に、整った顔とここまで卑屈じゃない性格、対人能力に愛嬌、自分を肯定してくれる人間、話の合う友人、結果のついてくる努力……。 


 少年は考えながら、ちょっと笑った。


 貪欲だ。ないものばかり。


 視界が歪んだ。どうやらまだ涙が残っていたらしい。


 吐き気がひどい。そう思った時、喉の奥から迫り上がるように酸い胃液と昨日の夕ご飯とが吐瀉物として出されて、顔の周りもベッドシーツもぐちゃぐちゃになった。


 あー、と自然と声が出る。


 なんかもう疲れたな


 起き上がりたくない


 頭ガンガンするし


 そうだ、シーツ汚れたから洗濯しないと


 いいか。どうせ頑張っても疲れるだけだし


 でも頑張んないと俺、なんもできないじゃん


 なんか怠いな


 生きてるだけじゃ誰も褒めてくれないし


 むしろ、もっと頑張れって怒られる


 この先大人になってもずっとこうなのかな


 才能が欲しい。自信が欲しい。何か一つ、誇れるものが欲しい。自分だけのものが欲しい。


 疲れた。また吐きそうだし。どうしたらいいんだろう。どうしたら幸せになれる?


疲れた、疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れ……そうだ、死のう。

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