それにしてもあの子の笑顔は

@DigArmor

それにしてもあの子の笑顔は

 古い白黒写真のプリントアウトを手に、納満のうみ会長はいたずらっぽく微笑んだ。

 それは直線で形作られたツバメの影絵で、それを撮影したものらしかった。躍動感は無い。どこかあやういシルエットのその影絵は、白く輝く額縁の中に窮屈そうに納まっていた。


「どう思う? デザイナーとして」

「影絵ですね。面白いですが、商品価値というと……」

「商売じゃないよ。これは私の趣味で買ったものなんだ」

「御自分への誕生日プレゼントに?」

「いや、もうずいぶん前になる」


 パーティ会場の片隅でグラスを傾けながら、老人は照れ臭そうに笑った。


「パンテオンてあるじゃないか。イタリアの。わたしはあれが好きでね。太陽光が天窓からスーッと入って広大な空間を照らす。単純だが、力強い」


 頷きながら、この話がどこへたどり着くのか。考えを巡らせる。


「建物一個使って照明装置にしてしまうダイナミックさだよ。で、ね。規模も思想も違うけど、日本にもそんな影絵があるって聞いたんだ。一目で気にいっちゃってね」

「じゃあ、買ったのは絵ではなく―――」

「家屋一件。そのなかでこの絵が見られる。そのはず、だ」

「いまは見られないんですか?」

「私が買って以来ね。もう何年経つやら。管理人を住まわせて建物の維持だけはしてるが、情けない話だよ」


 首を振りつつ会長はグラスを空にする。それを受け取りつつ頷いた。


「では私がその家に行って、また影絵が見られるようにするという。そういうことでしょうか?」

「そういうこと。さいきん手が空いてるって聞いたからね。頼まれてくれると思って」

「助かります。どこまでできるかわかりませんが、尽力させていただきます」

「頼むよ。管理人には話しておくから」


 そういうと会長は懐から紙片を取り出し、その上でペンを走らせる。いつもの仕事からすればお小遣いのような金額だが、背に腹は代えられない。

 受け取った小切手を白黒写真と共に受け取り、深く頭を下げた。


 ■


 じっとりとした汗を額に感じる頃、目的の家にたどり着いた。まず目についたのは家そのものではなく、両隣に立つ五,六階建てだった。積み木を行儀よく積み上げたみたいな、まっ四角でもなく複雑でもないビル。よその家を挟んで競い合ったみたいな、田舎っぽい見栄の張り合いが滲み出てくるような、そんな全面ガラス張りの建築物。

 そんなギラギラした両隣の間で、薄汚れた2階建ての洋館が縮こまって建っていた。見たところ築五十年ほどの汚い白壁にテラコッタ葺きの屋根。庭をつくるような余裕は敷地に無く、道路のアスファルトを離れて数歩のところに玄関ドアがある。その大きな両開きのドアにハッとさせられてもう一度建物全体を見ると、最初に受けた印象とは違いかなり大きな家だということに気付いた。このドアを開けると広いエントランスホールがあって、緩やかにカーブする大階段が2階に続いているんじゃないだろうか。


 家の前の道路は田舎道にしては広く、初夏の日差しが遠慮なく路面を熱している。はす向かいに五つ子みたいな住宅が並んでいて、その一つのカーテンがさっと閉まったような気がした。


 警察を呼ばれるのも面白くない。さっさと中に入って管理人とやらと合流しよう。


 そう思って玄関ドアの周囲を眺めるが、インターホンが見当たらない。しかたなく、色あせて木のケバが見えはじめた戸板を軽く叩いてみた。


「ごめんください」


 返事がない。家の中から物音もしない。もう一度、ノックを繰り返す。


「ごめんください。管理人さん、いらっしゃいますか?」


 やはり返事がない。連絡が行っているはずだが。


 もう一度、手を上げたその時、そばの窓でカーテンが揺れた。黄ばんだ布地の内側から細い指がそっとこちらを伺い、しかしすぐに引っ込んでしまった。


 いまのが管理人だろうか。にしては違和感があった。

 一瞬だけ見えた目。充血して淀み、わずかに目やにがこびりついていたように思う。あのやりての会長が屋敷を任せる人物とはとても思えない不潔さだった。


 上げていた手を下ろし、聞き耳を立てる。微かに、床の上でひきずられるスリッパの音が聞こえた。


 じゃらり、と金属音がドアから響く。続けてガチン、とデッドボルトが落ちる音。ぎ、ぎ、ぎ、と。想像通りの軋みを上げて、ドアが開いた。ただし、ほんの数センチほど。


「―――どちらさま?」


 眠そうな声と共に先ほどの目がチェーンロック越しにこちらを見上げていた。

 女性だ。まだ若い。けどもやはりというか、管理人という肩書がまったく当てはまらない見た目をしている。


 髪はぼさぼさで伸びっぱなし。その中に分厚い眼鏡が埋もれており、汚れた目を隠している。唇も荒れて化粧っけは無い。何年も着古しているような学生ジャージのせいで体形がわからない。サンダルを履いているのかと思ったが、つま先の破れたスリッパをはいているだけだった。


 引きこもり、という単語が脳裏をよぎっていった。


「……はじめまして。筑里ちくさとと申します。納満会長からお話しいただいていると伺っておりますが」

「……知らないです」

「あ、左様ですか」


 女は面倒そうな顔を隠そうともせず、しかしチェーンロックをするりと外してドアを開けた。


「―――どうぞ」

「え、あ。よろしいですか?」

「お仕事なんでしょう? ……早く済ませてください」


 ぼそぼそと抑揚のない声で、女は道を開けた。


 彼女に代わって、広く空っぽな玄関ホールが出迎えてくれた。見上げるほど高い天井には簡素なシャンデリアが設えられているが、他に目立った家具はない。四方の白壁は黄ばんでいるものの老朽化の気配は無く、木製の床や階段手摺はうっすらと埃が積もっている。不潔という感じはしない。人が使っていないからこそ積もった、垢にまみれていないほこりの堆積だった。


 彼女、掃除をしていないのか。


 振り返ると、彼女は数メートル離れた位置まで後ずさっていた。玄関にほど近い扉に寄りかかり、せわしなく視線を泳がせている。おそらく、あの奥が彼女の私室なのだろう。近づいてほしくないオーラをふりまいている。


 ポケットから写真を取り出す。白黒の影絵、その背景の床。それを目の前の広間の床と見比べる。どうやら同じ場所で間違いなさそうだ。


「あの、すみません」


 写真を彼女から見えるようにふりつつ声をかける。すると彼女は顔を背けた。


「えーと、会長さんからの連絡があったかと思うんですが」

「知らないです」

「……失礼ですが、こちらの管理人さん、ですよね?」

「一応。肩書は」

「…………では、実際のところは?」

「ただの引きこもりですよ。お察しの通り」


 彼女はシャンデリアを見上げたまま口の端を吊り上げた。


「あの男の、何人いるかもわからない隠し子の一人です」

「あー」


 二の句が継げず、カラスのように口を開けてしまう。あのじい様、何が仕事だ。心の中で毒づくが、彼女に罪はない。家庭内のいざこざに放り込まれてしまうほど困窮していた自分が悪いのだ。


 咳ばらいをし、そっと彼女に歩み寄る。彼女はびくりと体を震わせたが、構わない。こちらにもやるべきことがあるのだ。


「こちらの写真は、ご覧になられましたか?」

「……いいえ。みたことないです」

「先日会長からお預かりしまして。なんでもこの家で決まった時刻に見られる影絵だそうなんです」

「はぁ」

「会長はこの絵込みでこの館が気に入られて購入されたそうなんですが、今日にいたるまでこの絵を見ることができなかったそうなんです。そこで私にお話が回ってきまして、どうかこの絵を見られるようにしてほしい、と」

「……くだらないですね」

「ええまったく―――」


 おもわず相槌を打ってしまい、咄嗟に口元を抑えた。仕方が無いだろう。何の創造性もなく、何の緊急性もない仕事なのは確かだ。

 女に向かって背筋を正し、頭を下げる。


「どうか、いまのことは聞かなかったこと……」

「……なんか、苦労なさってるんですね」


 女の肩が少し下がった気がした。


「いいですよ。べつに気ぃ使わなくても。私と父は、不仲ですから」


 顔を上げて彼女を見る。相変わらずこちらを見ていないが、声音が少し軽くなった気がした。体を起こして一息つく。


「助かります」

「いいえ。……で、影絵なんですっけ」

「はい。陽ざしの条件次第なので今日見られるとは限りませんが、できるだけ隅々まで見て回りたいと思っています」


 彼女は小さく頷くと、伏目のまま自分の背後を見た。


「わかりました。自由に見てください。でも……この部屋は、やめてもらえますか。もう、ずっと片付けてないんで」

「わかりました。ただ、窓はありますよね?」

「……段ボールでふさいでます」

「場合によっては開けなければなりません。会長じきじきの御依頼なので」

「…………わかりました」


 気持ちはわかる。幾つかは知らないが独り身の女性だ。見ず知らずの男に部屋を見られたいとは思わないだろう。しかも、どうやら汚い部屋だという自覚はあるらしい。そんな部屋を見るのは、こっちだって願い下げだ。しかし、これは仕事なのだ。


 軽く両手を叩き、自分を奮い立たせる。


「では、さっそくはじめます。さっそくなんですが、この御宅の図面を拝見できますか?」

「ずめ……え……?」

「図面です。この家の間取りとか、配置とかを記した」

「……知らないです」


 ほんとうに名ばかり管理人らしい。


「わかりました。ではどのあたりに仕舞っているとかは……」

「わかんないです」

「ですよね。失礼ですが、こちらにお住まいになってどれくらいで?」

「……半年、くらい?」

「ごく最近ですね。前任の方がいらしたのでは?」

「いや、知らないです。私がここに来た時には、もう、誰も」

「……わかりました。では、なんでもいいので―――いや、この家に最初からあったものとかは?」

「鍵箱なら、預かりましたけど……」

「それだ! それをお借りしたいです」


 すると、彼女は黙り込んでうつむいた。


「……どうされました?」


 答えない。顔をのぞき込もうとしても、伸び放題の前髪がすだれになって表情が伺えない。

 まさか


「鍵箱を、紛失されたとか」

「いえ……」


 違うらしい。ほっと胸をなでおろす。


「では、なにか他に問題が?」

「……部屋、の中に……あるん、です」


 彼女は絞り出すようにそう言った。


「……失礼なことをお聞きしますが、荷物の下に埋まっているとか?」

「…………荷物じゃなくて」

「ゴミ、ですか?」


 ごく、ごく微かに、彼女の前髪が前後に揺れた。


 どうやら彼女の願いは叶わないらしい。

 私は彼女の前に膝まづき、顔を見上げなら頷いて見せた。


「お手伝いします。できるだけ部屋内は見ないようにしますので」

「……どうしても?」

「会長の依頼ですので」

「…………今日のことは、無かったことには」

「私が飢えてしまうので、無理ですね」

「……………………わかり、ました」


 彼女は声を震わせながら、自室のドアの前から飛ぶように離れた。彼女の足からスリッパが跳び、そばの壁にぶつかった。


「あの、クソ親父っ……」


 私は黙ってドアノブに手をかけ、手前に引いた。


 玄関ホールよりも圧倒的な情報の量が、室内から私に襲い掛かる。臭い、とまではいかないがむっとする香気。床は雑多な品物で足の踏み場もなく、かろうじてベッドだけがその姿を見分けられる。壁際はうずたかく段ボールやビニール袋が積み重なり、今にも倒れそうだった。その山の向こうに、押しつぶされたカーテンの端がこちらを覗いていた。


「鍵箱の位置は?」

「……最初からあったものは、クローゼットの中……」

「よし、手を貸してください。この際だから窓も開けましょう」

「……なんで?」

「影絵は玄関ホールで撮影されたらしいんです。この部屋からの光も必要かもしれませんから」

「ぅあぁ~…………」


 彼女はうめき声と共に床に座り込んだ。


 ■


 玄関ホールにつながる全てのドアは開け放たれ、いまや三方から光が差し込んでいる。二階の東西に連なる客室達から放たれる光が手すりの隙間から一階へ降りて来て、複雑な格子模様と陰影の濃淡を作り出している。大階段に接する北側の窓からの光は弱弱しく、なんの像も投げかけてはこない。だが大きな窓ガラスをランダムに分割する細い無目が、自分も影絵のパーツであることを主張しているように見えた。


「あの窓から光が入ることは?」

「知りませんよ……夏とかじゃないですか?」


 物入れから引っ張り出してきた椅子に力なく腰かけたまま、彼女は呟いた。

 彼女の部屋のドアは開け放たれ、窓からの光をホールに届けている。


 あの窓は東側だ。そっちには建物がある。本来なら、直射日光が入ってくるはずがない。


 大股で部屋に入る。もう彼女は何も言わない。うつむいたまま、時折頭をかきむしったり悪態をついたりを続けている。それを無視して窓の外を見ると、種が割れた。


「お隣さんとはね」


 眩しいほどの光源は、隣家の外壁を包むガラスだった。妙な角度で傾いだ外壁が、狙いすましたかのように彼女の部屋へ太陽の光をバトンパスしてきている。ホールを挟んで反対側の部屋も同様だ。そこには彼女のそれとは比べるのも失礼なほど何もない客間がある。その窓からやはり、強い光が入ってきていた。


 この館の両隣に建つガラス張りの建物が反射板となり、太陽光を室内に送り込んでいるのだ。影絵の主要な光源だろう。


 すると北側の窓も同じだろうか。


 ホールを横切って階段を登り、窓ガラスに近づく。外に見えるのはうっそうとした木々ばかり。手入れされてない裏庭の支配者達が陽光をむさぼり、室内へ入ってくるのはそのおこぼればかりだ。


 階段の踊り場に立つ。窓のクレセント錠を回し、重いガラスを上に向かって引っ張り上げる。裏庭にむかって身を乗り出して周囲を見渡した。だが木々の間に鳥の巣やら虫やらが見えるばかりで、光源になりそうなものは何もない。北側の窓は無視していいのだろうか?


 体を引っ込めようと下を向いたとき、妙なものを外壁に見つけた。

 窓のすぐ下に金属製の小さなガーゴイルが二つ、行儀よく並んでいる。その間には妙に近代的な金属製のプレートがあった。


 反射的にプレートへ手を伸ばす。蒸し暑くなりつつある外気に反してひんやりとしたそれは、少しばかり砂をかぶっていたが錆もなく滑らかだった。

 これは蓋だ。よく見ると蝶番がついている。プレートの縁をまさぐって手掛かりを見つけ、そっと引っ張るとやはり、開いた。


 中にはコンセントの口が二つ。


「照明か」


 階段下の倉庫にスポットライトがいくつかあった。あれをこのガーゴイルに引っ掛けて室内を照らすようにできているのだろう。


 室内へ体を引っ込める。踊り場から見下ろす玄関ホールの床はめまいがするような影の交差だ。その中のいくつかが意味のある絵を形作っているように思うが、最後の一つが足りない。額縁が無いのだ。


 写真を取り出す。不格好なツバメを白く太い光線でできた額縁がふちどっている。この影絵を絵として完成させているのは、これだ。だがいまのところそれを投げかけてくれるような窓はない。


「それにしても、変です」


 椅子に座ってうなだれる彼女に声をかける。そういえばまだ名前も知らない。


「この家がいつごろ建ったか、わかりませんか?」

「……知りません。もうわかってるでしょ? 私は何も知らないんですよ」

「念のためですよ」


 彼女は自分の住まいについて何も知らない。興味が無いのだ。越してきて半年というが、その最中ずっとあの部屋にこもりきっている。部屋を出るのは水回りか、配達を受け取りに行く時だけだ。でなければあんな部屋になっていない。


 生活感があるのは彼女の部屋だけ。ほかの部屋には人が住んでいた跡がない。家具を置いていればそれなりに床は様子をかえる。フローリングなのだからなおさらだ。だというのに全ての部屋は新品同様。まるで、建てた時から誰も使っていないみたいに。


 この影絵も妙だ。会長はパンテオンを引き合いに出したが、ローマのパンテオンはドームの中央に丸い穴が一つあるだけ。太陽光がそこから差し込んで室内を照らす。それだけのものだ。こんな複雑な影絵をつくるには、太陽光だけでは光源が足りない。だから隣家の外壁やスポットライトが必要になる。


 この家は、どう考えても両隣のガラスカーテンウォールを前提に作られている。両隣の建物よりもこの建物は新しいはずなのだ。外観は古ぶるしいが、それは見せかけなのかもしれない。いや、絶対にそうだ。そうでなければ会長が両隣の建物を建てたことになる。この家の窓に合わせて隣家を計画して……。


「まぁ、その線もあるか」

「―――終わったんですか……?」

「いえ。最後の窓がまだ見つからないんです」


 ともかく確かなのは、この玄関ホールに影絵ができるようにしたのは会長だ。影絵を探してくれというこの仕事は、そもそも必要ないはず。けども前金はきっちり払ってくれている。会長には別の意図があるのだ。そしてそれはほぼ間違いなく、この女に関することだろう。会長の娘が住んでいるという価値以上のものはこの建物にないと思う。


 階段下に潜り込み、スポットライトを引っ張り出す。埃をかぶっているがやはり、目立った錆や汚れがない。しまい込まれて以来いちども使われていないとしか思えない。


 ライトを所定の位置に取り付けると、はたして影絵はさらに複雑さを増した。いまや玄関ホールに立つ俺と、いすに座ってうなだれている彼女は夾雑物もいいところだ。

 部屋に戻るよう声を掛けようと近づいたその時、床にそれを見つけた。


 ごく薄い直線の光だ。あまりにも薄くて、しゃがみ込んでみてやっと光だとわかるほど。


 線の上に手をかざして振る。

 二階からの光か? いやちがう。

 では一階の客室達から? それでもない。

 さっき加わった北側の窓から? どうやらそれでもないらしい。

 東西、そして北のどれでもない。するともう残された開口部は一つだけ。


 顔を上げて玄関扉を見上げる。意図的に古臭く作られた木製の両開き戸が目の前にあった。


「これだ」

「え……?」


 ドアに駆け寄る。背後から彼女もぺたぺたと近づいてきた。

 戸板に顔を近づけて見ると、からくりは明らかだった。


 ドアはヨーロッパ風の木彫を意識したエンボス加工が施されている。戸板の中央に三又の植物が彫られ、それを長方形の溝が取り囲んでいるのだ。


 溝に顔を近づける。溝の底はドアと同じ木目模様だったが、触ってみるとそれはガラスのようだった。艶消しされているが、色ガラスなのだ。


「ここでドアを見ていてください」


 言い置いて扉を開けて外に出る。まとわりついてくる湿気を無視してスマホを取り出し、ライトをつけて扉を閉める。何か聞きたげな彼女の顔が隠され、目の前に室内と同じ仕上げの戸が立ちはだかった。その長方形の溝にスマホのライトを当て、待つこと数秒。


「どうです。光が見えませんか?」


 くぐもった女の声が答えた。


「見える! 見えるよ!」

「よしっ」


 ドアを開ける。そこには華やいだ笑顔を浮かべる女がいた。相変わらず肌艶は悪く、目やにもついている。それでも別人のようだった。俺という闖入者から解放されるのがそんなに嬉しいか。


「このドアが最後の窓ですね」

「ぜんぜん知らなかった。こんなのわかるわけ―――」


 ふいに彼女の顔に影が下りた。眉を寄せて口を閉じたかと思うと、その口が真一文字にきつく結ばれる。


「どうしたんです」

「……まだ終わらないですよね。仕事」

「ああ、その通り。まだ光源の正体がわからないんです」


 額縁となる光がどこから入るのかはわかった。だがその光源がなんなのかはまだわかっていない。


 もう一度、扉を開く。

 外には一mほどしかない石畳と、味気ない公道のアスファルトだけ。その向こうに建っているのはごく普通の民家だ。どの家も家庭菜園をしているのか、よく耕された前庭にはガラスも、鏡も、照明も無い。


「このドアをどこから、何で照らすのか。それを探さないと」

「……それがわかったら、帰ってくれる?」

「え?」


 はっきりとした声音に顔を掴まれ、振り向かされる。伸び放題の前髪の下から濁った眼が俺を睨んでいた。


「無理ですよね。父の依頼は『絵を見せろ』ですもんね。からくりを見つけただけじゃ、だめなんだ」

「―――その通りです。影絵を見られるようにして、会長をここにお連れしないと」

「それなら簡単だよ。明日のこの時間、父をここに呼べばいい」


 彼女は真っ直ぐに視線をぶつけてくる。けども俺と視線があわない。

 振り返ってもそこにあるのは車道と、お向かいの家々だけ。


「……社長の車か!」


 前に一度だけ乗せてもらったことがある。大きく、美しく、そして派手な、ダイムラーのリムジン。ぴかぴかに磨き上げられた外装が眩しかった。あれがこの玄関の前にとまれば、さぞかし眩しいだろう。南中時刻の太陽が必ず室内に届く。


「いや助かりました。車までは思いつかなかった」

「……どういたしまして。でもぜんぜんうれしくないです」

「それは……クソ親父と会わなければいけないから?」

「…………ドア、閉めてください」


 うなずいて中に入り、ドアを閉めた。彼女は影絵を踏みながら、ふらふらと歩いていく。


「むかつきますよ……ほんとにクソ親父。こんな回りくどい方法で、人様に迷惑かけて……」

「―――成程。私はメッセンジャーですか」


 ようやく、合点がいった。たしかに彼女にしてみれば腹も立つだろう。


 この仕事の本当の目的。それは会長から彼女への伝言だったのだ。近いうちに会いに行くから、というメッセージ。メールでも、電話でも、手紙でもなんでもいい。なんだったらそんなこと、わざわざ言わなくてもいいかもしれない。

 だが会長は彼女へ配慮した。彼なりの、独りよがりな方法ではあったが。


「でもまぁ、強引ではありましたが、いちばん手っ取り早かったかもしれませんね。メールも電話も、手紙でも。貴女は無視しただろうから」

「ここを出ていけと言いたいなら言えばいいんです。私はそれに従います。従うしかない。私は父に飼い殺されている身の上ですから」


 またひとつ、合点がいった。


 彼女は俺の仕事に協力した。それはもうひどい態度で、協力的とはまったく言えなかったけども、拒みはしなかった。

 普通のひきこもりであれば、なにがなんでも人を家や部屋に入れることはしないと思う。けども彼女は、いい子なのだ。良い意味でも悪い意味でも、親の言うことを聞く子なのだ。子、という年齢ではないけども。


「私は会長から仕事を受けただけですから、貴女の今後のことは知りません」

「……でしょうね」

「でも、ひとつだけ言わせてください」

「……なんです」

「会長は貴女に会いに来るだけだと思いますよ」

「それはないです。前の部屋も半年で追い出された。今度もきっとそうです」

「どうでしょう?」


 玄関ドアを離れ、階段に向かう。二階には上がらず、回り込んで階段下倉庫をのぞき込んだ。


「見てくださいよこれ」


 彼女は眉間にしわを寄せながらも、破れたスリッパでぺたぺたと近づいてくる。


「この中です」


 隣にしゃがみ込むと、彼女は初めて見るだろう倉庫の中を見渡した。一通り視線を巡らせ、最後にこちらへとぶつけてくる。


「暗いし、なにもないです」

「でも、綺麗でしょ?」

「私の部屋よりは」

「この建物、作られてから30年経ってないですよ」


 倉庫の奥の壁を指差す。その壁はホールの中のように塗装されていない。むき出しの、真新しいとも言える壁下地ボードが張られている。


「外見は古いですが、古いように見せてるだけですね」

「……だから、なんなんです」

「貴女、アラサーじゃないですか」

「…………失礼じゃないですか。年齢の話なんて」

「この建物と貴女、たぶん同い年くらいですよ」

「え……」


 ボードのいずれにも黒く大きな判子が押され、製造年月日が記されていた。照明の無い薄暗い空間を、彼女はまじまじと見つめた。28年前の日付が押印された一面の壁を。


「貴女が生まれるのに合わせて、この家を作ったんじゃないですかね。会長は。私はそう思いますよ」


 影絵をつくる家。あまりにも手が込んでいて、しかも立地も悪い。そんな建物をなぜ作るのか。

 彼女は答えない。ぽかんと小さく口を開けて、狭く暗い階段室倉庫を見つめている。俺はそっと立ち上がり、玄関へと歩き出した。


 ホールは影と光の交差で埋め尽くされている。実在しない柄のカーペットを踏みながらスマホを取り出した。


筑里ちくさとです。お世話になっております。明日、お時間ありますか? 天気もいいですし、ご依頼の絵が見られるかもしれませんよ」


 ■fin■

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それにしてもあの子の笑顔は @DigArmor

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ