よしの

惣山沙樹

よしの

 クソ田舎では、高校に通学するためには自転車で三十分間走らねばならない。クソ親父が不倫して離婚して、母の実家に身を寄せているわけだが、母はクソ親父を恨みながら自殺したので祖母と二人暮らしだ。

 今日も保健室に逃げ込んで、お情けで出席日数を稼がせてもらい、下校して家の裏手に自転車を停めようとしたのだが、そこに猫がいた。


「にゃーん……」


 茶トラというやつだ。かなり汚れている。俺が自転車を降りると、とてとてやってきて俺の足首に頭をすりつけてきやがった。


「うわっ」

「にゃーん、にゃーん」


 クソ狭い田舎では俺の家の事情はバッチリ知られており、高校では誰も俺に近寄ろうとしないのだが、猫はそんなこと知らないせいか無邪気だ。


「……よぉーしよしよし」


 頭を撫でてやると猫は目を細めたが、その目の周りにはヤニがついていた。あまりにもみすぼらしいものだから、段々可哀想になってきて、俺は家の中にダッシュして叫んだ。


「ばーちゃん! 何か猫にあげれるエサあるー?」


 台所にいたらしい祖母が、手をタオルで拭きながら玄関に出てきた。


「伊織? 猫のエサって?」

「裏に猫がいるんだよ。ボロボロでさ」

「生き物に中途半端にエサあげちゃいけないよ」

「でも……」


 祖母を説得しようと思って俺は一旦裏手に戻り、猫を抱えた。すんなり俺の腕の中に収まった。


「ほら、こいつ。やけに懐っこいんだよ」

「じゃあ迷い猫じゃないの?」

「そうかもだけど……放っておけないよ」


 ふうっ、とため息をついた祖母はこんなことを言った。


「確かにボロボロねぇ。動物病院に連れて行こうか」

「うん、頼むよ!」


 祖母の運転する車に乗り、この辺りでは一つしかない動物病院に行った。獣医は言った。


「女の子だねぇ。おばあちゃんまではいかないか。おばちゃんくらい」

「そうですか……」


 俺は女は嫌いだがメス猫なら別に構わない。検査やら何やらをしてもらい、費用は高くついたみたいだが、祖母はすんなりと払ってくれた。

 迷い猫だった場合に備えて、確認も祖母がしてくれるとのことで、とりあえずその夜は俺の部屋に連れ込むことにした。


「酷い部屋だけどよ……まあ猫にはわかんねぇか……」


 俺が与えられた和室は、俺がキレて殴りまくったせいで、障子はビリビリだし壁に穴がいくつも空いていた。


「にゃーん」


 猫は遠慮なく敷きっぱなしだった俺の布団の上に乗って丸くなった。


「よぉーしよしよし……よしよし……よしの……」


 決めた。メスだし名前は「よしの」にしよう。


「これからよろしくな、よしの」

「にゃーん」


 小さな温もりと一緒に眠る。こんなに安らかな気持ちになれたのは久しぶりのことだった。

 翌朝、居間に行って朝食を食べながら、俺は祖母に言った。


「なぁ、ばーちゃん、昼間はよしののことよろしくな」

「よしの?」

「昨日の猫」

「あんたねぇ、もう名前つけたの? 飼い主いるかもしれないよ?」

「多分いないって。もうあの猫は俺のよしのだから」


 一学期のテストが近付いていた。俺は珍しく授業に出てみることにしたが、午前中でへばってしまい、午後は保健室に行くことにした。


「美咲ちゃん、寝かせてー」

「坂口くん。塩屋先生って呼びなさいって何度も言ってるでしょ?」


 養護教諭の美咲ちゃんは三十代半ばの小柄な女性だ。付き合いも三年目になる。俺は自分の指定席と定めている奥のベッドに腰掛けて、ぷらぷらと足を揺らした。


「聞いて美咲ちゃん、昨日猫拾った」

「へぇ、猫?」

「すっげー可愛いの。いいだろー」

「それより勉強してる? いつも赤点ギリギリでしょ?」

「まあ何とかなるって」


 一眠りさせてもらい、チャイムが鳴ると同時に保健室を飛び出して自転車をこいだ。よしのが待っている。


「ただいまー!」

「にゃーご」


 玄関でよしのが俺の足にまとわりついてきた。心なしか昨日より元気な気がする。


「よしのもいるし、ちゃんと勉強しようかな。さすがに高校は出たいもんなぁ」


 俺は夕飯まで机に向かった。高校の勉強にはとっくについて行けなくなっているが、暗記科目なら多少は点が取れる。日本史の教科書にラインを引いた。

 祖母と夕飯を食べていると、固定電話が鳴り、祖母がとった。電話の内容は聞こえなかったのだが、祖母がしきりに「よかった」と言うので、終わった後に尋ねた。


「ばーちゃん、何だったの?」

「あの猫ねぇ、飼い主見つかったって。明日引き取りに来てくれるって」

「えっ……」


 俺は居間の端にいたよしのを振り返った。のん気にあくびをしていた。

 その夜俺は、布団の上にあぐらをかいてよしのを足の中に入れ、背中をさすった。


「お前さぁ……飼い主いたのかよ……なのに若い男に愛想振りまくんじゃねぇよ……」

「にゃーん?」


 わかってる。勝手に期待したのは俺の方。よしのは何も悪くない。ただの猫なんだから。

 最後の一晩、俺はよしのの感触をしっかりと手に覚え込ませるかのようにして眠った。


「ごめんください……」


 翌朝、俺は高校に行かずによしのの飼い主が来るのを待っていた。現れたのは、トドみたいに大きなオジサンだった。俺はよしのを差し出した。


「おお、よしよし、いやぁ、ご迷惑をおかけしました」


 オジサンが去ってしまい、俺は布団に突っ伏した。じわり、と込み上げてくる涙をぐしぐしと拭いた。




 俺は高校を無事に卒業した。そして、なんやかんやあって、クソ親父の不倫の結果生まれた弟と一緒に暮らしているわけだが、その理由を説明しようとすると十万字くらいかかるのでここでは省略する。

 弟の瞬とベッドでゴロゴロしていると、つんつんと肩をつつかれた。


「見て、兄さん。喋る猫の動画」

「まーたしょうもないもん観てるのか」


 無理矢理瞬がスマホを俺の目の前にかざしてきた。そこに映っていたのは茶トラの猫で、うにゃうにゃ鳴いているのに勝手に字幕がつけられていた。


「……マジでしょうもないな」

「兄さん猫好きじゃないの?」

「嫌いではない」

「ってことは好き?」

「まあ……茶トラの猫はいいよな」


 あれから十五年くらい経つ。当時おばちゃんだったのだから、おばあちゃんになっているか、もう死んでいるだろう。


 ――よしの、可愛かったな。


 たった数日間だけだったが、あの猫との暮らしは未だに俺の心に残っている。

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よしの 惣山沙樹 @saki-souyama

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